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「  」  作者:
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変動

 たくさん泣いて、たくさん「ごめんね」と言った。でも心の中はただどんよりと曇り空のままで、晴天どころか雲の切れ間すらない。愚痴って、苦しい。愚痴って、切ない。どうしたらいいのか、分からなくてもう頭の中も支離滅裂で、でも口から飛び出す言葉は止まらなくて。

 さっき、もうちょっと友人の話を真面目に聞いてあげられればよかった。

 ごめんね、木坂。もう、二度と「辛い」なんて言わないから。今日は本当にごめんね、木坂。

 黙って聞いてくれてありがとう、黙って手を握ってくれててありがとう。この最悪な心でもいいのなら胸から取り出して、木坂に簡単に移動することが出来ればいいと思うよ。

 もう、木坂に迷惑は絶対に掛けないから、今日だけは許してね。本当に、ごめんね。


「具合、悪い」

「それは、風邪だと思います」

「……ううう、遥が冷たい」

「迷惑なので、帰って下さい」

「……ううう、遥が怖い」

「仕事の邪魔はしない様に、迷惑です」

 段ボール箱に入った今日届いた文房具のオーダー分を各部署宛てに判別しながら、片岡が唯を一瞥する。箱の中身を出す作業を担当した唯は、その鋭い声に目を逸らした。怖い。

 気弱なようで容赦ないこの同僚は、仕事の事になると頑固で真面目でとにかく小煩い。整然と並んだボールペンの箱を唯が人差し指で移動させてみせると、手の甲を片岡に叩かれた。なんか、最近とみに厳しくなった気がするのは、営業課の彼氏のせいだろうか。


 昨日、部屋でしこたま飲んだ缶ビールは小さい方で総勢七缶。一昨日は、確か八缶。

 金曜日に木坂にアパート前まで送って貰って、唯は週末ずっと酔っぱらって過ごした。テレビに犬が出てくると可愛いと言っては泣き、ニュースが始まると殺人とかのえげつないニュースにまた涙が流れた。

 ここで酒に逃げるのが、年頃の女にしてはどうよ? とも思うのだけれど、まさか男に走るわけにも行かずにただ部屋に籠って過ごした。冷蔵庫にこんなビールのストックがあるとは思わなかった、それもまた年頃の女性からかけ離れている気がする。正直、心底情けない。

 ただしゃくりあげる唯の手を、ただ木坂は黙ってずっとアパートまで引いて歩き、それがまた唯には苦しくて申し訳なくて涙を誘った。繰り返す「ごめんね」の度に握る木坂の手が熱く強くなって、でも決して引っ張ったり振りはらったりすること無い手は妙に安心して、もし木坂の気持ちを受け止めなければこの手が無くなってしまうことが物凄く唯には辛くて寂しかった。

 嫌だよ、離れて行かないで。そう思っているのに、その想いは蜂屋への唯の想いとはまた全然違っていて、それが唯の心を引き裂いて、涙が止まらない。

 簡単に選べるならそうしてる。無音の「  」もう何を入れたらいいのか、分からなくてただひたすら泣いて酒を浴びて週末を過ごした。

 つまりは、この具合悪さは風邪でもなんでもなく、ただの二日継続した二日酔い。そんなことは勿論片岡には言えない。


「具合、悪い」

「うるさいよ? 休憩室でコーヒーでも飲んで来たら?」

 そこは、今一番行きたくない場所のトップスリーに入る場所だ。片岡の反応に時折なんでも知られているんじゃないか、と思う時がある。

「嫌……、コーヒー飲みたくない」

「じゃあ、給湯室で煎茶でも飲んできなさい」

 そうか、そういう案もあったんだ。唯は酒が詰まっている体をのろのろ動かし、机から移動し始める。確か、庶務課と営業課に来る客の為に結構いいお値段の煎茶がストックして合ったはず。あの日本情緒に匂いだけでも触れられることができれば、この不安定な精神状態も少し鎮静するするかもしれない。

「……行く」

「遭難、しない様に」

 いやぁ、流石に給湯室は真横だから遭難はしないと思う。唯は冷静な片岡の突っ込みに手首だけで返して、課長の睨む顔を笑って誤魔化してからドアを開ける。

 課長は昨日の競馬でボロ負けしたせいか、今日の機嫌はすこぶる悪い。

 時刻はAM11:00。昼前の庶務課と営業課を結ぶ廊下は静かで少し違和感を感じる。もう少ししたら出先から戻ってくる営業課の面々はまだほとんど戻って来ていないらしく、営業課のドアの向こうは静かだ。唯は庶務課を出たすぐの壁に背中を預け、真顔で俯いてから屈伸を二度ほどした。

 揺れた頭の中には小さな鐘があって、それが鳴り響く。いや本当にどれだけ飲んだのか、しつこい二日酔いだ。

 深呼吸をしてから顔を上げた唯は、身を翻して給湯室のドアに慌てて飛びこむ。何故なら営業課のドアが開く気配がしたからだ。会いたくない、蜂屋とも勿論木坂とも。逃げているのは分かっているけれど、苦しくてまだ心の整理が付いていないから。

 

 そんな、女の複雑な事情なんて、男には全く理解されないものだ。鈍感なのか、天然なのか。はたまたやたら察知がいいのか、本当にどれか統一して欲しいと思う。


「おう」

「……ども」

 最悪だ。ドアが開いて顔を出したのは、蜂屋だった。変わらず、何を考えているのか何も考えていないのか読めない表情で、奴は唯の頭上の棚から三枚ほどタオルを取り出す。蜂屋の腕と胸が、本人は多分何も考えていない行動とはいえ唯に触れるほど近づいて、唯は奥歯を噛み締めて体を強張らせた。

 心臓に悪い、あと二日酔いにも。多少。

「コーヒー、溢した」

 簡単な行動の説明があった。

 ぼーっとしているからじゃないの? 勿論そんな言葉は出ない。説明なんかしないでいいからここから出てってよ。そう思い続ける唯の願いは届かずに、蜂屋はそのタオルを唯の顔に当てる。乾いて、洗剤の香りのするタオルが顔にぶつかった。

 危ない、もう既に泣きそうだ。

「子供じゃないんですから。手元、気を付けて下さいよ。震えてるんじゃないんですか?」

「うるさい、まだ十分現役だ」

 蜂屋の声が、いつも通りの唯の声に安堵した声色に聞こえて唯はタオルを当てたまま、顔を歪ませる。やっぱり、やっぱり、蜂屋が唯に臨むのはここまでのラインで、思い切って離れてくれればいいのに上手く可愛い後輩のままでラインはずっとキープされる。

 声が震えるのが聞こえなくて良かった、当てられたタオルのせいでくぐもった声になるのを感謝した。

 無音の「  」言葉は蜂屋の望むものを。それがあなたの望みならば。

「いやいやいや、三十路はもう十分オジサンに足突っ込んでますよ!」

「春日。お前この間から加齢臭だのオジサンだのって、反抗的だな」

「ははは、子供もそろそろ反抗期ですから」

 もう加齢臭でもオジサンでも、この際ハゲでもなんでも蜂屋主任ならいいよ。

「困った、奴」

 優しい声で、頭を撫でないで。助けて、木坂。

 都合のいい考えが一瞬頭を過って、唯は震える指で顔のタオルを引きはがす。少し、口端を上げる蜂屋の姿、この顔を見て恋に落ちた。

 ええい、頑張れ。負けるな、私。何度自分に言い聞かせたか知れない叱咤を心の中で呟いて、無理やりに仮面を被る。この際笑顔が少し歪んでもいいような気もした。

 木坂に頼るなんて、本当に私は駄目駄目だ。

「コーヒー、早く拭いた方がいいですよ」

 早く行け。

「先に新聞紙かなんかで水分吸い取ってからにしないと、タオル何枚あっても足りないですからね」

 行ってしまえ。

「今日の勉強会は六時からですからね! きちんと今日からはノート取って貰いますから!」

 早く、出てけ。

「……おう、じゃ終業後」

「遅れるなよー!」

「……春日には、言われたくないな」

 そうだ、無断欠席したのは私の方だ。でも蜂屋はそのことを唯には何も言わずに、給湯室を出てドアを閉めた。

 目の前で締められるドアが、こんなに辛いことは今まで無かった。唯はシンクの中に両手を付いて深呼吸する、泣くのだけは絶対に避けなくてはいけなかった。今日の終業後は蜂屋ときっと仕事さえ無事に終われば木坂も来るんだろう。

 吐く息は震えて、瞼も熱い。ただ過ぎ去るのを、必死で待つ。



「ごめん、今日はちょっと契約の打ち合わせが長引きそうだからって。蜂屋主任が」

 営業課の廊下に出てきた蜂屋の部下である草川くさかわ かおるが両手を合わせた。

「今日の内に課長に提出しなくちゃいけない書類がまだ終わらなくて……って、聞いてる? 春日さん?」

「あ、はい! ごめんなさい、聞いてます!」

 避けられたかと思った。仕事が終わっていつも通り営業課の前の廊下で時間を潰して待っていたものの、いつまでたっても蜂屋も木坂も顔を出さずに戻ってきた営業課の他の面々にからかわれること三十分。唯もさすがにPM7:00を超えると堪忍袋の緒が切れて、怒りの電話をしようと携帯電話を出した所だった。

 つい数日前に自分が同じような事をやっていた、というのはこの際置いておいて、せめて連絡くらいくれればいいじゃない。なんて、先日木坂に言われたそのままの事を唯は思う。

 通話ボタンを押す寸前だった。草川に話を聞くと木坂はまだ出先、蜂屋は書類作りに忙しいらしい。電話をかけなくて良かった、唯は携帯電話をバッグの中に仕舞う。

 草川じゃなく、蜂屋が出て説明したらいいのに。と、思った時に嫌な予感がした。もしかして、避けられた? 違う? 不穏な影は消えずに唯の中で巣くう。

「だから、今日は帰っていいってさ」

 帰っていいって、偉そうに。腹の中に一物を抱えて、唯は営業課のドアを睨みつけて胸の辺りに抱えた説明書とピンク色のノートを下に降ろした。仕事じゃ仕方ない、わかっている。

「はい、じゃ失礼しますね!」

 笑顔で頭を下げると、草川が軽く手を振った。優しい草川のその風貌や纏う空気はどうしても蜂屋や鈴木の迫力に比べると劣る、そのくせあの異色な面々と同等に話が出来るのだから十分営業課として精鋭なんだろう。

「遅いから、気を付けて」

「はい!」

 最後の言葉で草川の優しさに触れて、唯はいつもの仮面みたいな笑いではなく本物の笑顔で踵を返した。

 避けられた? もしかしたらの変化に不安が隠せない。


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