指の記憶(1)
私はタッチタイピングができません。
(言葉遣い、難しいご時世です、何ごとも書くときは気をつけねば)
それって、もの書きには致命的じゃないの?
はい、かなり。
そりゃもう執筆スピードがガタ落ちですから。筆が遅いのはそのせい……。
じゃないよね。脳に柔軟性があったときになぜかしっかり形成された先送り症候群の問題でしょ。お尻に火がつかないと何ごとも動かない。
垂れ流される妄想を文字にするのが追いつかない時がままあります。
同時通訳の字幕がどんどん遅れていくあの感じです。映像と音声と文字が合わないから脳が混乱してくる。
でも、さすがにプロは結果的にはちゃんと追いつきます。
しかし、原速どころか半速も出せない私は呆気なく脱落してしまいます。
変換ミスや孤独な英文字がこれでもかと折り込まれ、語彙力に乏しいぐちゃぐちゃの文を読み、ここ何が言いたかったの、誰がこんなこと言ったの、この空白には何が入るんだっけ、と言い合いながら首を捻るはめになります。悶々。
昔はできていた、と思うのです。記憶に疎い私としては歯切れの悪い言いようになりますが、実家にはタイプライターと教則本に奮闘の証しがいっぱいあったから。
ティーンになったころ熱中していたらしい。どうしてこんなものを捨てずに取っておいたのだろう。
知ったのは、打ち間違いがやたら多く、なぜかキートップを目で追っていることに気づいた瞬間でした。背中に寒気が走りました。あれっ、私は今いったい何をしているのだろう? できていたよね。
これではまずいと一念発起し、パソコンにタイピング練習ソフトを入れてしばらく頑張りました。あら不思議、またできるようになりました。ほっとしました。
しかし、気づけばまた知らぬ間に元通り。なぜか長期記憶に移行しようとしない。こりゃだめなパターンだと悟りました。
長期記憶には、陳述記憶と非陳述記憶があります。前者は言葉で表現でき、エピソード記憶と意味記憶に分けられます。
私の過去のエピソード記憶が壊滅の危機にあり、意味記憶も相当深くまで浸食されていることは以前にも書いた通りなのですが、非陳述記憶のひとつである手続き記憶が侵されていると知ったのはこの時が初めてです。
手続き記憶の代表と言えば、いろいろな道具を使いこなすとか自転車に乗れるとかプールで泳げるとかだと思いますが、タッチタイピングもその部類らしいです。
子どものとき以来乗る機会がなかった自転車ですが、大人になりだいぶ経ってから、ある地所で自転車を使って頻繁に移動しなければならない事態に直面しました。初めは不安がありましたが、実際は問題なく乗り回すことができました。
その後プールに通ってみれば泳げることも確かめました。子どもの時分に体で覚えたことは忘れない。もちろん長らくペーパーだった車の運転だってまったく支障ないです。マニュアルですら問題ありません。
手続き記憶はいったん習得すれば無意識にできるもので長期間忘れることがないらしい。その確信が根底から揺さぶられたのが、タッチタイピングができなくなったと知ったときです。だんだん衰えるとかそういう次元ではなく、まさに全クリです。
手続き記憶は忘れない。いや、決してそうではないのだ。きっとそれぞれ記憶される経路とか収納される部位が異なるせいだ。そこには複雑な真理が隠されているに違いない。私がそこに辿り着くことはないだろうけれど。 (続く)