そっと思い立つ
すぐ背後まで闇が迫っていることに気づいたとき、どうしますか。
遠い過去はもちろんつい数年前のできごとまで思い出せないのを知った時。主メモリの中に巨大な虚無空間が存在すると悟った瞬間。
振り返れば大地まで飲み込む暗黒の帳を目にする。
それでもまだ、流れゆく雲海に浮かぶ望月が来た道を優しく照らし、反対側では冷たい光を放つ星の海が未来に誘う。
薄墨で描かれた雲を透かして見れば、蘇るのは恥ずかしい、あるいは心疚しい想いと失敗した局面ばかり。他には、事故に遭って意識が遠のく前に百分の一秒単位で刻み込まれた紙芝居。
忘れたい記憶は太古に組み込まれた指令に従い幾度も叩き起こされ、その光景は強化されて長期メモリに戻される。残しておきたかった大切な心覚えをはじき出す。繰り返し亡霊のごとく悩ませてくる。
一際輝く青白い光に手を伸ばせば、奇妙な場面が再生される。こんなことしたっけ? これはきっと家族が、友人が何度も語ってくれたおもしろおかしな状況。他人によって上書きされた情景は等しく記憶に刷り込まれる。
どれも自分の体験とは違うかもしれない。何よりその時に想ったこと、感じたことがそこには皆無。
楽しかった思い出、うれしかった会話、感激したこと、学んだ膨大な知識、正しかった選択、それらを格納したはずのメモリはすぐ近くまで失われている。
使われない経験値はどんどん消えていく。
簡単な漢字すら手書きしようとすると指が宙を彷徨う。ペンを持たねば日乗に綴る文字以外は記憶の森から零れ落ちる。
会話の途中で言葉に詰まる。もどかしくも背筋が凍る瞬間。急ぎメモリを漁っても顕したい表現は見つからない。
あれほど読んだ本の内容も、ちょっと会わなかった人の顔と名前も、幾度となく聴いたに違いない音楽や歌も、映画あるいはアニメの感動的なシーンも、なかなか浮かび上がってこない。
視聴済みのはずなのに結末間際まで思い出せない。積み上がった書物に封じ込められた物語だって何度でも楽しめちゃうけれど、そのたびに残る切符の五千分の一が払い出される。
これではいけない。記憶の森が枯れつつある。
虚無に追いつかれ飲み込まれる前に何とかしなければ。この世を照らす光の下で辿ってきた途が見えている間に。幾多の記憶が切り離されても、すぐ傍らのメモリが未だ健全なうちに。
ならば、遅まきながら外部メモリを増強しよう。これからは、外に森を育み密かな体験談の記録を仕舞い込もう。もちろんあらゆる感情の記憶とともに。
お読みいただきありがとうございます。
次話より本題に入ります。