パパと自転車
「パパ、手を離さないでね」
「分かった。両手で持っているから、タイチは前を見て、漕いでいくだけだよ。準備はいいかい?」
「う、うん」
タイチは、父親の言葉を信じてペダルに載せた右足を踏み込んだ。
「左、右、左……。そうそう、上手だよ」
タイチは、補助輪を外した自転車をぎこちなく漕いでいく。ハンドルを持つ手に力が入り過ぎて、グラグラするが大丈夫。パパが後ろを持ってくれているから。
「パパー、持ってるー?」
「ああ、大丈夫だよ」
少し声が遠い気がしたけれど、前を真直ぐ見て漕ぎ続ける。
「パパー、持ってるー?」
「大丈夫だよ」
後ろを振り返りたいが、前に進む感覚を掴み掛けている。
今、振り返ったら、倒れてしまうだろう。
気付くと、体勢は安定し自転車は、気持ちよく風を切って進んでいた。
「パパ―、見て見て、すごいでしょう」
「ああ、頑張ったね」
声は小さくなっていた。
タイチはグングン漕いで行く。
景色もドンドン流れて行く。
「パパ、こんな遠くまで走って来れたよ」
「……」
「パパ?」
思い切って振り返ると、父親の姿は無かった。
何処に行ってしまったのだろう。
不安になり、立ち止まって辺りを見回した。
タイチは、父親と一緒に練習していた河川敷ではなく、見慣れた農道にいた。
乗っている自転車も大きくなっている。
いつの間にかタイチは成人し、隣に停まる自転車には、成長した幼馴染が乗っていた。
「タイチ」
「ミホちゃん。パパがいないんだ」
「タイチのお父さんは、亡くなったよ」
ミホちゃんは、悲しそうに目を伏せた。
タイチは、意識を取り戻した。
妻のミホの心配そうな顔が見える。
炎天下の畑で倒れ、救急搬送されたという。
父親は、少し前に老衰で亡くなった。
タイチを男手一つで育ててくれた。
どんな時も、後ろから応援してくれた。
高校受験の時も、大学受験の時も。
就活の時も、挫折し心を病んだ時も。
会社を辞めて実家に戻った時、嫌な顔をせずに迎えてくれた。
優しい父親だった。
頼ってばかりだった。
タイチは実家の農家を継いだ。
父親は農業を教えてくれた。
生きていく後押しをしてくれた。
感謝しかない。
親孝行など何も出来なかった。
夢の中で、父親は後方に消えていった。
まだ、前に進めということだろう。
(頑張るよ、パパ)
タイチは、自転車を漕いで行く。
ミホちゃんと一緒に漕いで行く。