奇怪保険
【昔々、山の恵みを独占する悪い一族と山の主が居ました】
【我が一族は、その悪い一族と山の主を成敗しました】
【人々に山の恵みを分け与えました】
【この地が豊かに栄えたのは、我が一族のおかげなのです】
〇
「はぁぁ……長かったぁぁ……」
年代物の大型バスに揺られること数時間、観光地として有名な山村に降り立つ。心地良い風と、蝉の大合唱が出迎えた。僕は固まった体を伸ばす。
「天清くん、お仕事はこれからですよ」
「ひぇぇ……何でこう辺鄙な所ばかりなのですか?」
僕の横に立つ辰村先輩は、黒いスーツを着崩すこともせずに涼しい顔をしている。先輩のいつもと同じ様子に安心感を覚えるが、この地を訪れた目的を思い出し疑問を口にした。
「土地柄としか言えませんね」
「海鮮料理が美味しい高級旅館とか、高級焼肉店とかで仕事だったらいいのに……」
先輩の言葉に思わず愚痴が出た。僕の名前は天清晴太。とある保険会社の研修生である為、ベテラン社員である辰村先輩に着いて勉強中である。しかし先輩と共に訪れる仕事先はいつも辺境の地だ。不満の一つも言いたくなるのだ。
「ふふ、飲食店ばかりですね」
「うぅ……やる気が出る方がいいじゃないですか」
汗一つ掻いていない先輩は、僕の話を聞き微笑んだ。余裕がある先輩に、僕は口を尖らせた。
周囲を見渡せば青々と茂る木々の下を、大勢の老若男女が行き交っている。山奥であるが観光地として十分な賑わいを見せているようだ。仕事でなければ、楽しそうな場所である。
「そうですね。では夕食はお寿司にしますか?」
「お寿司! 先輩の奢りですよね!? やったぁ! 早く終わらせましょう!」
提案を受け僕は飛び上がり喜んだ。書類の入った封筒を抱えなおすと、先輩に仕事先へと促す。僕の頭の中は夕食の高級寿司の事でいっぱいである。
革靴で砂利道を踏みしめると、足元の砂利が窮屈そうな声を立てた。
〇
「ここですね」
「おぉ……繫盛していますね。これは期待出来そうですよ!」
先輩と共に風情のある和風旅館を見上げた。遠くに見える駐車場は満車であり、正面玄関は忙しなく人々が出入りしている。
店の様子を確認すると、僕は声を弾ませた。この様子ならば、保険の契約更新も滞りなく済むだろう。
「そうだと良いですね」
「えっ!? 先輩? 何か不穏なフラグを立てないでくださいよ?」
駐車場を一瞥した辰村先輩は、意味深な言葉を発した。頼りになる先輩だが、その発言が冗談なのか本気なのか分からない時がある。彼は慌てる僕に微笑むと足を進めた。
「失礼致します。先日ご連絡を差し上げた、奇怪保険の辰村と小柴です。責任者の方にお話があるのですが、お取次ぎをお願い致します」
「いらっしゃいませ……え? き、かい? ……大旦那様に確認して参りますので、そちらでお待ちください」
正面玄関に入り番頭であろう、羽織を着た年配の男性に先輩が声をかける。彼は灰皿を片手に、怪訝そうな顔で僕達の全身を見回した。
真夏に黒いスーツ姿の男二人組は、この観光地において異様である。自覚はあるが仕事で訪れている為、仕方がないことだ。おまけに先輩は黒いアタッシュケースを持っている。怪しく思わない方がおかしいぐらいだ。
番頭さんは訝しげに頷き広間を指さすと、廊下を歩いて行った。
「うわぁ……誇張表現甚だしい……」
「此処を開墾した人々はもう居ませんから、好きに書けるのでしょう」
先輩に続いて広間に上がると、沢山の貼り紙が出迎えた。
それらにはこの旅館が観光の発信源になり、如何に周辺地域に利益をもたらしているかを長々と書かれている。その文章に謙虚な姿勢は一切なく、自意識過剰な情報が並び嫌悪感を覚えた。人を不快にさせる文章としてはある意味、最優秀賞である。
「それって……改竄なのでは?」
「『死人に口なし』とも言いますからね」
僕の疑問に先輩は唇に人差し指を当てると、含みのある笑みを浮かべた。
「うわぁ……真っ黒だぁ……あれ? 絵本?」
人の闇を見たと僕は嘆くと、スリッパの爪先が何かにぶつかった。下を向くと、一冊の白い本が落ちていた。タイトルは無く、淡い色で山が描かれているシンプルな表紙だ。
周囲を見渡すが広間には本棚は無く、誰かの落とし物の可能性がある。僕は本を拾い、持ち主の名前が記されていないか確認をする為に本を開いた。
【昔々、山を守る一族が居ました】
【その一族は山の主様と、仲良く暮らしていました】
【しかしある日、悪い人々が訪れ山を奪いました】
【山を守っていた一族は山を追い出されましたが、主様と一つ約束をしました】
表紙と同じく淡い色と、優しいタッチで描かれた昔話の絵本だった。使用されている画材や文字が手書きであることから、この絵本は手作りであることが分かる。
「うん? 何処かで似た話を読んだことがあるような?」
絵本の話に既視感を覚えたが、直ぐに思い出すことが出来ず。首を傾げた。
「『昔々、山の恵みを独占する悪い一族と山の主が居ました。我が一族は、その悪い一族と山の主を成敗しました。人々に山の恵みを分け与えました。この地が豊かに栄えたのは、我が一族のおかげなのです』ですよ? 天清くん」
「へ? 先輩?」
不意に先輩が長文を読み上げたので、僕は驚きつつ振り向いた。
「資料にあった文章ですよ。ほら、そこの悪趣味な紙にも書かれていますよ」
「あ……本当だ。あれ? もしかして今の減点対象ですか?」
平然と毒を吐く先輩が指差す先には、先程先輩が読み上げた文章が貼り紙に書かれていた。文章を発見出来たことは良いが、次に焦りが生じる。現在は仕事中であり研修中だ。僕の行動は先輩の監視下にあり、適切な評価を下すのも彼である。
つまり仕事に関する知識を瞬時に思い出すことが出来なかった、という報告がされることになるのだ。
「ふふ、さあ? どうでしょう?」
「うわぁ……研修生がやめられないよぉ……」
悪戯っ子のように笑う先輩に、僕の昇進が遠ざかったことを悟る。このままでは一生、研修生かもしれないと肩を落とした。
「お客様、お待たせ致しました。こちらに……あ、それは……」
「え? 嗚呼、これ此処に落ちていて……もしかして番頭さんの?」
今後の心配をしていると、広間に番頭さんが入って来る。そして僕の手元を見ると瞠目した。その様子から絵本の持ち主が、番頭さんの可能性に至り確認をする。
「……っ、あ、はい。そうです……」
「持ち主が見つかって良かった! 手作りの絵本なんて素敵ですね」
控え目に肯定する番頭さんに、絵本を手渡す。大事そうに絵本を抱える番頭さんに、笑いかけた。きっと大切な想い出が詰まった絵本なのだろう。無事に持ち主の元に絵本を返すことが出来て良かった。
「あ……ありがとうございます。大旦那様がお待ちですので、こちらにどうぞ……」
「はい。行きますよ、天清くん」
「はい!」
ぎこちない会釈をする番頭さんに、促されて広間を出る。
「お祝い……?」
広間を出た角に、この旅館の百周年のカウントダウンが書かれている。数字は『一』だった。
〇
「大旦那様、お客様をお連れ致しました」
「入れ」
番頭さんに案内され、豪華絢爛な部屋へと足を踏み入れる。外から番頭さんが襖を閉じると、目の前の人物たちに目を向けた。
「それで? 保険屋だったか? 電話で断った筈だが、何の用だ」
「はい。重要な契約についてですので、直接伺わせていただきました。現在契約中の保険が本日中に切れます。速やかな契約の更新をお勧めします」
ソファーには二人の人物が座っていた。一人は体格が良く白い髭を蓄えた男性が、煙管を片手に僕たちを睨んだ。彼は旅館の主である大旦那である。貫禄のある態度に、涼しい顔で応対するのは辰村先輩が。流石は先輩である。
「要らない。お前たちをここに通したのは、変な噂を流されたくないからだ。さっさと帰れ」
「まあまあ、貴方。お話だけでも聞いてあげたら? 汗水たらして動き回らないと、生きる糧を得ることが出来ない可哀想な人達ですもの」
取り付く島もない大旦那の態度に、助け舟を出してくれたのは妻である女将だ。綺麗な着物を着こなし美女ではあるが、その瞳には軽蔑の色が浮かんでいる。言葉に棘があることには目を瞑り、見学の僕はそっと先輩の後ろに隠れた。
「本契約は初代様が契約されたもので、内容は百年間の保険です。四代目様が契約更新された場合は、百年間に渡り一族の方々全員が保険の対象になります。金額は現在の親族関係が、大旦那様に女将。若旦那様に若女将とお子様三人。計七名様で、三千五百万円になります」
「……っ!? なんです! その金額は!? 一人、五百万円なんて高すぎるわ!」
先輩が淡々と保険の内容を説明すると、女将がヒステリックな声を上げた。先程までの余裕がある女将の顔が見事に崩れ落ちている。繫盛しているからと言って、財布の紐が緩いとは限らないようだ。
「しかし、保険の内容からしてこの金額が妥当です」
「そんな契約知らないわよ! ねえ? 貴方?!」
「そうだ。親父や祖父からも、そんな話は聞いたことがない。第一、契約書もこちらにはない! 本当に契約をしているかも怪しいものだ! 保険は他で加入している、これ以上は不要だ。怪しい契約は解除して帰れ!」
この保険に関して金額の出し惜しみは、命を左右するのと同義である。幾らお金を積んでも、保険に入りたいという人達が存在するぐらい大切な保険なのだ。しかし彼らは保険契約をした本当の理由を知らないようである。
つまりこの保険の真の大切さを理解していないのだ。知っていれば今頃家中からお金を集め、金策に駆け回っている頃だろう。
「本当に契約を解除して宜しいのですか? 保険契約の更新をお勧めしますが?」
「くどいぞ! 不要だと言っているだろう! うちが繫盛しているから、掛け金を目当てに集まっているのだろう!? びた一文お前たちになどやるものか!」
「分かりました。天清くん、書類を……」
「は……はい」
凛とした先輩の声が僕を呼んだ。言われるがまま、抱えていた封筒を先輩へと差し出した。先輩はご丁寧に契約解除について四回確認をした。本来であれば三回だが、電話をカウントしなければ丁度三回である。
「おじいちゃん!」
「おばあちゃま!」
「おじぃちゃま!」
緊張感が溢れる空間に、突然子どもの高い声が響いた。
「おお! お前たち! 待たせてすまないな」
「直ぐに終わるからね」
大旦那と女将に駆け寄る子ども達、如何やら孫達のようだ。先程までの険悪な雰囲気など一切感じさせない笑みを湛え、孫たちに接する大旦那と女将の豹変ぶりに溜息が出そうになる。
「天清くん。後の手続きは私が行いますので、君は私たちの靴の確保をお願いします」
「……え……あ、はい。分かりました」
先輩から小声で指示を受け、僕は静かに頷いた。別行動は大変珍しいことだ。つまりこれは時間がないということである。
〇
「えっと……確か、玄関はこっちだったような?」
先輩の指示を受け、僕は正面玄関を目指して廊下を歩く。行きは番頭さんの案内があったが、現在は僕一人である。方向音痴ではないが、同じような造りの建物のため不安が募る。
「天清様、こちらです。靴の所までご案内致します」
「あ! え、ありがとうございます!」
迷路のような廊下に悩んでいると、曲がり角から番頭さんが現れた。渡りに船とはこと事だと、僕は彼の後に続いた。
「これは……罪滅ぼしなのです」
「え? 罪ですか?」
唐突に番頭さんが話を始めた。彼の後ろを歩いている僕には、彼の表情を知ることは出来ない。だが悪いことをしたという割には声が明るい。
「ええ、本当は貴方たちを大旦那様に会わせたくありませんでした。ですから少々妨害をさせて頂きました」
「それは……保険についてですか?」
「そうです。彼らが事実を知れば、契約を更新するからです。それだと私には都合が悪いのです」
「う~ん、それはどうでしょう? お財布の紐は物凄く堅そうでしたよ?」
初対面の時の彼の態度から、歓迎されていないことは分かっていた。だが仕事の邪魔を画策していたのは驚きだ。この場に辰村先輩が居なくて良かった。
番頭さんの妨害の内容は分からないが、面会をすることは出来た。結果的に、契約解除を選択したのは大旦那たちである。彼らは非常に倹約家だ。きっと真実を知ったところで、お金を出すとも思えない。
「はは……そうでしょう。そうですとも……その強欲さから、我が一族から全てを奪い。真実を捻じ曲げたのですからね……」
「番頭さん?」
何かを耐えるように、押し殺したような声で彼は言葉を紡ぐ。握った拳が震えていることに気が付いた。
「本来であれば、邪魔な保険屋も排除するつもりでした。ですが……絵本を褒めて頂き、お帰りいただくことにしました。さあ、この先にある縁側に靴は置いてあります。ご存知だとは思いますが、直ぐにこの場を離れて下さい」
「貴方は?」
番頭さんが足を止めて振り向くと、穏やかな笑みを浮かべた。憑き物が取れたような明るい表情である。いや違うこの表情は……。
「私は約束があります。大切な約束が……」
「そうですか……ありがとうございました。……さようなら」
二度と番頭さんには会うことはないだろう。
僕は彼の横を通り過ぎた。
〇
「あった! 良かった!」
番頭さんと別れ縁側に辿り着くと、彼の言っていた通りに靴が沓脱石の上に二足置かれていた。僕と辰村先輩の靴である。先輩の指示通りに靴を確保した。後は先輩の到着を待つだけだ。
「よいしょ……え?」
此処を出ることは決定している。先に靴を履いていた方が、効率がいいだろう。僕は自身の靴に手を伸ばした。すると僕の手を横から出てきた、黒い小さな手が掴んだ。
『ねえ、あそぼう』
靴から視線を上げ、隣を見ると全身真っ黒な子が立っていた。五歳ぐらいの子だろか、顔まで真っ黒の仮装をしている。唯一口だけは覆われておらず、喋ると赤い舌が見えた。
『あそぼう』
『あそぼうよ』
『あそぼう!』
『あそぼうよ!』
縁側の下、廊下、天井から黒い子ども達が湧き出て来る。そして僕へと近寄り、一同に手を伸ばす。鈴が鳴るような軽やかで、可愛らしい声が木霊した。
「ごめんね。僕はこの後、約束があるから遊べないよ」
この後の予定を告げると、僕に伸ばされていた黒い手が一斉に止まった。
『やくそく?』
「そう、約束。大事な約束をしているから、君たちとは遊べない」
僕の手を掴んでいる子が首を傾げた。そう僕はこの後、辰村先輩の奢りで高級寿司を食べるという大切な約束があるのだ。
『そっか……やくそくは、だいじ……』
「そうだ。僕は遊べないけど、此処の旅館にお孫さん達が三人居るから彼らと遊んだら?」
何か考え込むように黒い子は呟く。その様子が寂しそうに思えた僕は、ある提案をした。同じ年ごろの子同士で遊んだ方が楽しいに決まっている。
『ありがとう。そうする。そのコたちで、あそぶよ』
「うん、楽しんでね」
黒い子は真っ白な歯を見せて笑うと、瞬きした瞬間に全員消えてしまった。
「天清くん」
「あ! 先輩! ほら、言われた通りに靴を確保しておきましたよ」
背後から名前を呼ばれ振り向くと、廊下に辰村先輩が立っていた。無事に合流出来たことに安堵し、先輩に報告をする。
「君は頼りないのか、豪胆なのか分かりませんね」
「え? 褒めています? 昇進出来ますか?」
何故か困ったように笑う先輩に首を傾げた。
「いいから、早く靴を履いてください」
「はい」
先輩に急かされ靴を履いた。
〇
「そういえば、番頭さんが妨害工作していたらしいですけど……何のことでしょう?」
「我々があの旅館を訪れた際に、彼は何を持っていましたか?」
帰りのバス停へと続く、下り坂を歩く。疑問に思っていたことについて、隣を歩く先輩に訊ねる。すると先輩は淀みなくヒントを出した。
「……えっと……その……あ! 灰皿です」
「正解です。では今回、保険契約の存在証明で躓きました。何故でしょうか?」
数時間前の出来事を思い出す。正面玄関に居た番頭さんは、確か灰皿を片付けていた。僕が思い出したことを口にすると、次のヒントが出される。
「えっと……彼らが視えないのは、元々だろうから違って……。あ! 契約書ですか!?」
「ふふっ、正解です。それら二つの事を組み合わせて見えてくるものは?」
視えない感じない人達には、中々僕らの保険は理解してもらえない。視覚化することにより、信憑性を高めるのが契約書の役割だ。今回も契約書があれば、直ぐに信じてもらえた筈である。大切な保険契約なのだ。厳重に管理保管して欲しい。
「え? 灰皿と契約書? ま……まさか……。灰皿のって……」
「そのまさかですよ」
結び付きそうにない二つの言葉について考える。灰皿に、無くなった契約書。すると嫌な予想が頭を過った。辰村先輩が頷いたことにより、予想が確証に変わる。
「うわぁ……大胆だなぁ……下手したら自分も巻き込まれていたのに……」
「覚悟の上だったのでしょう」
契約の内容にもよるが、契約書が破損した場合でも契約は継続される。契約書の破損では契約を破棄することは出来ない。簡単に契約解除を出来たらいけないのだ。契約解除すれば、保険が消える。つまり周囲に危害が加わり、被害が出るからだ。
「そうですね……」
先輩の言葉に、最後に見た番頭さんの顔を思い出した。道にひっくり返った蝉を避けて歩く。
「仮に契約書が存在したとしても、彼らは信じなかったでしょう」
「そうですか? 必死に縋りそうな気がしますが?」
断言するように辰村先輩は、契約書の有無が契約破棄を左右した訳ではないと告げる。いくら守銭奴で倹約家であろうと、命は惜しい筈だ。僕は首を傾げた。
「御神木を切り倒し、駐車場にしてしまう輩など信仰心など微塵もありません」
「えっ……あの時、こうなるって分かっていたのですか?」
温度を感じさせず淡々と言葉を紡ぐ先輩に、旅館に入る前のことを思い出した。駐車場を見た後に、先輩は意味深な発言をしていたのだ。
「いえ、正確には契約をした際ですね。このような輩を守る保険契約など、本来は嫌だったのです。しかし当時の担当者が熱い男でして、彼らの必死に訴える演技に騙され契約を結んでしまったのですよ」
「ほぇぇ……それは、それは……」
少し疲れた声で当時のことを語る先輩はとても珍しい。何時も余裕がある先輩に疲れを感じさせることが出来るとは、当時の担当者先輩は凄い人なのだろう。
「まあ妥協点として、契約期間を百年間にさせました。こうなることは、あの時から決定していのです。ただ、先延ばしにしただけです。癪ですが、保険に加入している間は安全ですからね」
「成程……。うわぁ……真っ黒だぁ……」
先輩が人差し指で、後方の山の上を指差した。快晴だった空には、山頂を中心に黒い曇が広がり始めている。
「ほら、天清くん。急いで下さい。あと五分でバスが出てしまいます。お寿司を食べることが出来なくなってしまいますよ?」
「はっ! 高級お寿司! 急ぎましょう! 先輩!」
何時ものような余裕がある笑みを浮かべる先輩に急かされ、僕はバス停に向けて走る。地面に影が出来ていない、辰村先輩を追い越す。
革靴で砂利道を踏みしめると、足元の砂利が楽しそうな声を立てた。
数時間後、その山村は地図から姿を消した。