表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パン屋の売り子に私はなれない  作者: 桜楽ぬぬ
6/6

最終話

 暖かさが徐々に暑さに変わっていくのを実感したある日曜日の昼下がり、授業の予習とバスケットボールの勉強が珍しく昨晩中に終わった私は、人気ベーカリー『ぱんだ』の行列に朝はやくから並んでいた。お目当てはここのいちじくクリームチーズパンとマリトッツォである。実をいうと、いちじくはあまり得意な方ではないが、ここのいちじくクリームチーズパンは甘くて、なつかしい味がする。たとえるなら、田舎のおばあちゃんが作った干し柿。深く、濃く、甘い。そこに濃厚なカマンベールチーズと、ハードなフランスパンが絶妙にマッチする。216円と少々値は張るが、今日はがんばっている自分へのご褒美だ。

 だんだん列が進んでいき、やっと店内に入ると全身が芳しい香りのヴェールに包まれるとともに、黄昏色の海が現れた。

 し・あ・わ・せ。

 ずっとこの空間にたたずんでいたい。めったに訪れない至福のひととき。

 私は目当てのパン3つとチョコクルミパン、焼き芋クッキーをトングで挟むとレジへ向かった。

 ここの売り子のお姉さんのユニフォームは茶色のブラウスの上から赤いエプロンを付け、頭にはベージュのベレー帽のいで立ちである。なかなか、かわいい。

私もいつかあんなユニフォームに袖を通してのびのびと働いてみたい。そのためには起業するしかない、と思った。不思議とパン職人になるという選択肢は出てこなかった。あくまでもなりたいのは、パン屋の売り子だ。

 それから私は、来る日も来る日も慣れない教職の仕事に打ち込んでは、その傍ら起業の勉強を進めていた。どこに店を構えようか。どこのパン職人を引き抜こうか。それは私の生きる支えとなっていった。そして3年の月日が経つと、なんの未練もなく私は教師を辞めた。

 辞職と同時に、憑きものが落ちたように心と身体が軽くなった。責務からの逃避は、私を慰めた。苦境のなか、いままでずっと走り続けて来たんだから、すこしくらい羽を休めたっていいのかもしれない。

 私が自分をはじめて承認し始めたころ、どしゃ降りのなか、母が家に乗り込んで来た。

「大変よ!お父さんが急に倒れて入院したわ。どうやら難しい病気みたいで、長い闘いになるそうよ。智美、お願い、この通りよ。跡継ぎとしての自覚をいい加減持ってちょうだい。もしも、もしものことがあったら、お母さんどうしたらいいか……」

 私はおろおろしている母に駈け寄ると

「お母さん、大丈夫だから。そんなに簡単にあのお父さんが大好きなお母さんを置いて死ぬと思う?」

 と母の痩せ細った背中をなでた。道路が隆起したような背骨は、ごつごつとしていて、触れた瞬間ひやっとなる。

「ありがとう。やっぱり頼れるのは我が子だわ。智美、お父さんの後を継いでくれるわよね?」

 私は母からの熱い視線を感じてしばらく黙り込むと「それとこれとは別だよ」と答えた。

 それを聞いた瞬間、母は全身をぶるぶるふるわせると、

「いい加減にしなさい!もう我慢できない。なんのためにあなたを産んだと思ってるの?貧乏だった 私が、お父さんをものにするのにどれだけ苦労したか。あなた、わかる?箔が付かなきゃ意味ないでしょ!箔が付かなきゃ!だいたい、どれだけ自分が恵まれているのか、わからないの?大企業のトップになんて、そこらの一般庶民ではなかなかなれやしない。せっかくいいポジションに産んであげたんでしょうが!このあたしが!くだらないプライドでもったいないことするんじゃないわよっ!」

 と、耳をつんざくほどの金切り声を荒げて、わめき散らした。

 乱れた髪のあいだからのぞく鋭い眼光は、かつての女豹を彷彿とさせる。

 箔……。その箔が邪魔なんだよ。どこまでもまとわりついてくるうっとうしい光……。

 私はすぐに言い返そうとしたが、唇をわなわなさせただけで、なにも言い返せなかった。そして震える手を強く握りしめると、雨の降りしきるなか、一言も発することなく、アパートを出て行った。

 私は、母から浴びせられた言葉をなぎ払うように、ただひたすら、あてもなく歩いた。

 箔って、なに……。

 いいポジション、ってなに……。

 そんなの一度も望んだ覚えはない。

 これ以上、贅沢を押し付けないでほしい。

 「もったいない」を押し付けないでほしい。

 ただ、自分の思うままに、自由に生きたい。

 それだけなのに——。

 気がつけば、街はすっかり夜のとばりに包まれていた。

 七色に光る歓楽街のネオンが滲んで見える。私はそれを手の甲で拭うと、ふらりと目に留まったバーへ立ち寄った。

 店内に入ると聴きなれないジャズが流れていた。

 水槽には凝ったアクアリウムが展開されており、カラフルな魚たちがまばらに泳いでいる。

 左右端のカウンター席は埋まっていたので、ふたつ席を空け座ると、ウォッカをストレートで頼んだ。

 バーテンダーが冷やしたウォッカをショットグラスに入れて差し出してくる。

 私はそれをためらうことなく一気に煽った。喉が焼けるように熱く、それ自体がまるでひとつの生命であるかのごとくじんじんと脈打ち、頸動脈に響いた。

「あーどいつもこいつも、せっかく、とか、もったいないとかうるさい」

 うなだれる私に、誰かが「なにがもったいないんですか?」と訊いてきた。

 顔を上げて声のする方へ振り向くと、左のカウンター席から若い女性がこちらを見ていた。パッと見、同年代に見える。普段は初対面の人間に自分のことを話すのはためらうが、とにかくいまは誰かにこの気持ちを聞いてほしい。酒の力も手伝ってか、私はおもむろに話し始めた。

「……今までの自分の功績、家柄、学歴、資格。すべてに邪魔されて、本当にやりたいことができないんです。みんないい大学出たんだからとか、せっかく資格取ったんだからとか、なになに家の人間なんだからとか、ここまでやってきたんだから、ってそればっかりで。もううんざり……」

 うつむいて同調を待っていると、カウンター席の若い女性が口を開いた。

「それって贅沢ですよね。私なんてこの前までなんにも持ってませんでした。だから、特別な職業に就きたくても就けなかった」

 女性は顔の前で指を組み、深く息を吸い込むと続ける。

「私、大学入学してからすぐに病気になっちゃって、入院生活を余儀なくされたんです。そのあいだ、大学は休学してたんですけど、籍を置くのは2年が限界で、泣く泣く退学しました。一生懸命勉強して、念願の第一志望に受かったから、余計にやるせなかったです。それから数年したら、だいぶ病状も安定してきて、通院でよくなって、主治医からアルバイトの許可が出ると同時にすぐに家に帰って履歴書を書きました。でも、なにも書くことがなくて……。だからって、嘘の経歴を書くのはダメだと思ってそのまま履歴書持って行ったら、『大学中退してからなにされてたんですか?』ってどこもその質問ばかり。その度に『病気だったんです……』って答えたら、『ウチは体力が必要な仕事だから』とか『病気が再発したら大変だから』って体よく断られて……。私の病気がなにが原因で悪化するかなんて知らないくせに……。志望動機をどれだけめいいっぱい工夫して書いたって、誰も私のやる気なんて見てはくれませんでした。そんな時、学歴や資格のひとつでもあったら、その道の仕事に就けるのにって何度も思いました。それで、また一生懸命勉強して、登録販売者の試験に合格して、やっと今の薬局で雇ってもらえたんです。だから、そんなの贅沢です。恵まれているだけうらやましいです。やりたいことができないのは、自分の意思の弱さというか、覚悟が足りないというか……って、なんか、初対面なのに偉そうなこと言ってしまってすみません……」

 私は出会って間もないというのに、自分の一方的な思いだけを直球で投げつけてきた無礼な女性に多少いらついたが、なにも言えなかった。

 世の中では自分とまったく正反対のひともいて、『なにもないこと』に悩んでいるのだとはじめて知った。私は自分の愚かさに打ちひしがれた。

 自分は贅沢なのか……。

 恵まれているのか……。

 でも、持ちすぎは持ちすぎでつらい。抱えきれない。捨てていいなら捨ててしまいたい。

 でも、あの女性の言っていた通りなのかもしれない。意思の弱い自分は、ただ周りに甘えているだけで、覚悟が足りない。今度こそ周りの干渉に左右されず、自分を貫き通さないと。

 決意を固めて顔を上げると、テーブルに置いていたスマートフォンが鳴った。

 画面を見ると懐かしい人の名前が表示されていた。いったい自分になんの用だろう。

 とくんとくん、とあのころのように波打つ鼓動を感じながら、私は電話に出た。

「よう橘、久しぶり。元気?」

 将生の声は、あのころと変わらない。私の耳は一瞬にして赤くなる。

「元気だよ。森本くんは?」

「俺も元気だよ。今日は折り入ってお願いがあって電話したんだ」

「なに?」

「近々起業してベーカリーを何店舗か経営する予定なんだけど、目玉商品がほしくてさ。智美、たしか栄養士の資格持ってたよね?栄養士プロデュースの健康に配慮した商品があったら、意識高い系の人たちにウケるんじゃないかって。よかったら、どうかな?給料は弾むよ」

 願ってもいない話だった。この話を引き受ける代わりに、パン屋の売り子に雇ってほしいとお願いするのはどうだろう。きっと将生ならふたつ返事でOKと言ってくれるはずだ。 

 私はこの上ない千載一遇のチャンスに、

「ぜひ、やらせてほしい」

 とすぐ返事を返すと、将生からの「よかった。ありがとう」の返事を無視して

「その代わりなんだけど……」

 とすかさず自分の意思を滑り込ませた。

「何?」と将生が尋ねてくる。

「パン屋の売り子に雇ってくれないかな?」

 将生はしばらく沈黙すると

「男が売り子ってちょっと……」

と鼻で笑った。


こんにちは!桜楽ぬぬです(´・ω・`)

最終話までお読みいただきありがとうございました!

全6話と少々長めになってしまいましたが、ライトな日常ミステリーはいかがでしたか??

え?どこがミステリーって?

と、思われる方がたくさんいそうですね(^_^;)

私の力不足です。

でも、また加筆修正する予定なので、その時は気が向いたら一気読みしてやってください!

きっと、違和感に気づくはず!

え?私はちゃんとわかりましたよ!と言う方、感想などお寄せいただければ嬉しいです(*^^*)

次回作ですが、未定になります。

現在推敲中ですが、かなり長編であることと、日々の忙しさでなかなか進んでいないのが現状です。

もし、『私はパン屋の売り子になれない』がはじめて読んだ作品だよ、という方、良ければ、『これは私の物語』も読んでいただけると嬉しいです(*^^*)

それでは、またお会いできる日まで!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ