第5話
教員生活は想像していたよりも過酷だった。
ベテランの先生の後ろでいろはを覚えるものかと思っていたが、採用されたその瞬間からいきなり 教師であり、ひとたび教壇に立てばベテランも新人も関係はなかった。
さいわい、担任だけはまぬがれることができたものの、学年団というくくりでは2年生の担当となり、家庭科の授業ではひとりで1年から3年まで教えなければならなかった。
家庭科の授業数は副教科のため少なく、だいたい学校の家庭科の教員は1校につき1人らしい。訊きたいことは山ほどあったが、なにせ家庭科の教師は自分だけだ。自分でどうにかするしかない。
「では、今日は118ページ、食の安全性とリスク評価からです。教科書を開いてください」
私は震える手で【食品添加物と表示】と板書した。
すこし字が小さすぎただろうか。いや、これぐらいか。
先日、夜の校舎に残ってひとり板書の練習をしたが、正直よくわからない。
足ががくがくして頭がすぐに真っ白になった。
おそるおそる振り返ると、40人、80個の眼がいっせいにこちらを見ている。引き返すことはできない。
私は唾をごくりと飲み込むと、昨日まとめた板書用のカンペをもう一度確認した。
唾を飲み込んだときのざらついた感触が、喉の裏に残って気持ちが悪い。
なかなか進まない授業に生徒がざわつき出した中、ひとりの生徒が手を挙げた。
私はなぜ手を挙げているのかわからずおろおろすると、とりあえず当てようとしたが生徒の名前がわからない。
誰だっけ。思い出せない。えっと名簿名簿……。
私は名簿をすばやく確認すると
「あっ、えっと、山田くん、どうしましたか?」
と尋ねた。
「なんで急に118ページからなんですか?」
そこついてきたか。教科書通りに進めるなら第1章、人の一生と家族・家庭及び福祉からだが、予習してもちゃんと教えられる自信がなかったため、自分がすぐにでも教えられる所から教えていくあいだに、他のページを予習・復習、奥の手Youtubeで理解を深める作戦だった。
「えっと……」
80個の瞳が全集中で私を見る。
私は額から流れる冷汗を拭うと、
「こっ、効率よく授業を進めるために、先生なりの進め方で授業をしていく予定だからです」
と苦し紛れに本当のことだが、なんとなく納得できそうなことを言ってみた。
山田は「ふーん」というと、納得したのか席に座った。
私は思わず、セーフ、と胸を撫で下ろすも、心拍は依然としてはやかった。
(私、落ち付け!)
混乱する自分を無理やり深呼吸することでなんとかなだめ、また板書を始めると
「……のクセに……とかウケる」
と女子生徒たちの笑い声が聞こえてきた。
自分のことだろうか?
それとも、まったく関係のないことだろうか?
関係のないことなら注意した方がいいのだろうか?
堂々巡りな思考がオーバーヒートするのと同時に、生徒たちの笑い声がだんだん遠のいて行き、気が付けば保健室のベッドの上で眠っていた。
「気付かれましたか。橘先生、大丈夫ですか?」
「ここは……」と私はゆっくり起き上がる。
「保健室です。橘先生、覚えてらっしゃらないんですか?授業中にいきなり倒れたんですよ」
「じゅっ、授業……!い、行かないとっ!戻らないとっ!」
無理やり起き出そうとする私を、保健室の中村先生が制した。
「もう放課後です。今日は安静にしていてください」
「放課後……。ぶ、部活!行かないとっ!」
またもや起き出そうとする私を中村先生は制すと、
「橘先生、かなりお疲れじゃないですか?このままではもちませんよ。とても。ご自分を大切にしてください」
と心配そうな顔で言ってから、そっと自分の机に戻りパソコン作業を再開した。
自分を、大切に、か……。
ここのところ徹夜続きでろくに寝ていない。家庭科の授業予習は予想以上に難航していた。わからないでは生徒に示しがつかない。
また、部活ではぜんぜんやったことのないバスケットボールを任され、それもルールからトレーニング、戦法と勉強中である。
正直これほど教師が忙しく、その割には低賃金で、土曜は部活に駆り出されるもボランティア同然で、低燃費な職業だとは思わなかった。いくら公務員とはいえ、よっぽど好きでない限り続かないだろう。こればかりは御手上げだった。
だが、石の上にも三年、私はとりあえず病院と同じく3年間だけがんばることを目標にし、3年後も思いが変わらなければ、そのまま辞めることにして、本気でパン屋の売り子になることを考えた。
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