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パン屋の売り子に私はなれない  作者: 桜楽ぬぬ
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第4話

 私の交友関係はそんなに広い方ではない。どちらかというと狭く深くだ。その中でもこんな緊急事態に頼れる友人は、ひとりしかいなかった。私はテーラードジャケットのポケットからスマートフォンを取り出すと、電話帳を開き、長浦唯に電話をかけた。

「もしもし、唯?いま大丈夫?」

「うん、大丈夫だけど?どうしたー?」

「実家出てきた。アパート決まるまででいいから泊めてほしい。変なことは絶対しないから」

 唯はケラケラ笑うと

「ついに出て来たか!よいよい。智美がそんなんじゃないことくらいわかってるから全然OKだよ」

 と電話開始20秒弱でOKをくれた。

 私は「ありがとう」と電話を切ると、唯の家へと向かった。

 唯とは大学時代に知り合った。同じ看護栄養学部だったが、実際に仲良くなったのは2年生の秋ごろだ。当時、大学に馴染めず、友達をつくることさえままならなかった私に、いちばんに声をかけてくれたのが唯だった。いま思えば、髪型も服装もどこか性根の腐ったペンギンのいで立ちだった私に、唯はよく話しかけてくれたと思う。彼女の勇気がなければいまの自分はない。

 それから唯とは、大学を卒業するころにはお互いの悩みを共有し合う仲にまでになった。はじめてできた〝親友〟と呼べる存在だった。

 唯の家に到着すると、アツアツのお鍋ができていた。鍋の奥底からボコボコと浮き出る水蒸気が、通販で商品を頼んだときに梱包で用いられる緩衝材のようだ。

「晩ご飯食べた?」

 唯からの問いに「ううん、まだ」と私は答えた。

「ならよかった。できあいのものでつくった水炊きしか用意できなくてごめん」

「いや、すごく嬉しいよ。こちらこそ急に転がりこんでごめん。はやくアパート見つけるから」

 季節はいつの間にか冬から春になるも、まだまだ肌寒い日が続いていた。唯とふたりで食べた鍋は、幼いころ母方の祖父母の家で食べた鍋のようにやさしくて、どこかなつかしい味だった。いまの自分にはこの質素で素朴な鍋がなにより染みる。胸の奥底でカチコチに凍って冷えきってしまった心を、じんわりと温めてくれる。気付いたら、泣いていた。

「智美、だいじょうぶ?」

 心配そうに声をかけてくれる唯に

「ご、ごめん。なんだかなつかしい味だなって……」

 と言って顔を伏せた。

 それ以上、言葉にならなかった。胸の奥から熱いものが込み上げてくる。

「なんかあったなら、私でよければいつでも話聞くからね」

「うん。ありがとう」

 と感謝の言葉を口にした瞬間、私の目からつぎつぎに涙がこぼれ落ちた。ゼリービーンズのように丸く艶やかな涙は、私の身体からやっと解放されると、頬をつたってテーブルに弾け飛ぶ。

 コトリとテーブルの上の箸置きに私は箸を置くと、背筋を改め「どうしても諦められない夢があって……」と唯に切り出した。

「うん」と唯も箸を置く。

「……実は、パン屋の売り子になりたいんだ」

 私は不安定に震える声で、思い切って唯に打ち明けた。

「そっか。気分転換にはいいかもね」

 と唯はうなずく。

「違う。気分転換なんかじゃない。本気なんだ」

 と私は首を振って訴えるも、

「本気?ごめん、言ってる意味がわからない。正社員でってこと?」

 と唯に半笑いで返されてしまった。

 状況が飲み込めず戸惑っている唯の瞳の輪郭が、濃くはっきりとしていく。それを見て私は一瞬ごくんと唾を飲み込むと、しっかりとうなずいた。うなずくことでしか自分を主張できなかった。

「パン屋の売り子ってアルバイトかパートだと思うよ?それに……」

「それはわかってる。お門違いなことくらい。でもどうしてもなりたいんだ!」

 私は唯の言葉を最後まで待たずに遮ると、自分の思いをぶつけるも

「もったいないよ。せっかく大学出て、資格も取ったのに使わないなんて。パン屋の売り子なんて、誰でもできる仕事じゃない。智美はそもそも、なんで看護栄養学部に入ったの?栄養士の資格がほしかったからじゃないの?」

 と、唯からそんな言葉が出るとは思わず絶句した。

 唯なら、唯だけならわかってくれる気がしていただけに、唯の何気ないただの言葉が槍のように鋭く尖って、私を丸ごと打ち砕いた。その中から腐った血液のようにどろどろとどす黒いものが流れ出て行く。

 こんな気持ちになるなら、こんな目に遭うなら、直に刺された方が数百倍も数千倍もよかった。その方がまだ、痛みを痛みとして捉えられるから。

 私は次第に乱れていく呼吸を、胸に手を当てることでなんとかなだめながら、自分の不純な大学入学の動機について思い返していた。



 あのころもいまと変わらず、私はどうしても父親の会社を継ぎたくなかった。明らかに自分は組織を統率することにたけている人間じゃなかった。どちらかといえば、着いて行く側だった。

 それに、率先して表に立ちたくはなかった。たくさんいる中の誰かがよかった。『自分』という存在を隠してほしかった。

 テニスが得意で、プロになることで逃げきろうと思い、海外に行ってテニスを習いたい旨を両親に伝えるも、

「上に立つ人間は必ず大学に行かねばならない」

 と大反対を受け断念した。

 海外へ行く気だった私は受験勉強などしておらず、いまの自分の学力で行ける大学を適当に受験して合格した。そのため、特にこれといった信念というものはない。でもそんなこと、唯には絶対に言えない。だって、唯はこの大学のブランドと、栄養士を始めとする国家資格がほしくてこの大学に入ったのだから。

 母子家庭でお金がないなか、バイトをしながら日夜受験勉強に励んだ話はいまでもよく聞かされる。それがいやなわけじゃない。でも、なんだかときどき、石を握り込んだ拳で思いきり頭を殴られて、くらくらしたみたいになる。

「智美?」

 私に話しかける唯の顔は、不安そうにも、怒っているようにも見えた。

「そ、そう。確固たるものがほしかったから。学歴とか資格とか。でも、もう管理栄養士の仕事やめちゃったんだよね……」

 私は病院での出来事を唯に話した。おかしな見栄を張って病気を治す気がない患者に、ひと癖もふた癖もある医者、そしてセクハラ……。

 唯は「もったいない」と言いつつも、事の悲惨さに共感してくれた。

「また別の病院で働いてみたら?」

 唯からの提案に「いや、もう病院はこりごり」と私は即答した。

「そっか……。じゃあ、学校の先生は?教職の免許持ってるでしょ?」

「一応……」と私は答える。

「せっかく資格があるのにもったいないよ。パン屋の売り子になったってなんにもならないんだから。教員免許を持ってるなら、公務員だし安泰じゃん。ほら、目ぇ覚まして!」

 励ましてくる唯の笑った顔からのぞく出っ歯になんだか無性に腹が立って、お玉で白菜や肉をよそうふりをしながら、そっと隠した。きっと、誰に言ったところで、回答はみんな同じだろう。私はそんな定かでないことにも自信をなくしていた。

 そして、臨時講師として登録後、わずか2週間で電話はかかってきて、気が付けば、教壇の上に立っていた。


お読みいただきありがとうございました!

感想などお寄せいただければ嬉しいです。


こんにちは!桜楽ぬぬです(*^^*)

はやいもので、もう3月ですね!

晴れの日はお昼間は暖かいですし、日も長くなっているのを日に日に実感しています。

今年の冬は例年に比べかなり寒かったので、ぽかぽかと暖かい陽気の中を日向ぼっこする日が待ち遠しくて仕方ありません!

春よ来い、はぁやく来い(*^^*)

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