第3話
数日後、栄養指導を何人か終え医局へ向かっていると、噺先生が突然声をかけてきた。 私はとっさのことに思わずかまえる。噺はおしゃべりな医師で、一度つかまるとろくなことがない。
噺は私にぐっと顔を近づけると、
「外科の鈴木先生、ダブル不倫で病院から干されたらしいよ~。ほんとバカだよね~。整形外科の川谷先生なんてさぁ~」
といつものように院内スキャンダルを得意そうに話し始めた。苗字が噺だけあって、相変わらずおしゃべりな医者だ。
あー医者って、気難しいし、うざい。一緒にいるだけで気力、体力ともに大幅に低下していく……。
って、いつまでもここで油を売っている場合じゃない。勇気を出して所用があることを伝えようとしたとき、
「そうだ、橘先生、この前鮫嶋先生に怒られたんだってぇ~?可哀想に」
と噺は私の頭をなぶるようになでた。全身が粟立ちその場に催眠術にかけられたように硬直する。
「鮫嶋先生ちょっと気難しいとこあるからねぇ~。まぁ、僕でよければいつでも相談に乗りますよ~。あっ、そうだ!今度食事でもいかがですか?」
私は想定外の展開にぽかんとなった。なぜ自分が誘われるのかまったくわからない。
なんと答えてよいのかわからず、口をあわあわさせていると
「君、僕のタイプなんだ」
と噺が私の耳元で鼻息荒くささやいた。私の背筋は腰骨の下から上へと毛虫がはったような感触とともに一気に鳥肌が立ち、呼吸が苦しくなって思うように息ができなくなった。
そんなことにはいっさい気付きもせず、噺は私の肩をいやらしく、ぽん、と叩くと「期待してるよ」と耳元でささやいて去って行った。
ひとり取り残された私は解放された安心感で一気に全身の力が抜けると、その場に崩れ落ちた。震えが止まらず必死に手足をさする。
転職したい。今すぐこの病院を離れないと、自分は取り返しのつかないことになると私は直感で思った。これ以上理不尽な医師や無言の圧力に耐えられる自信は1ミリたりともない。特殊なセクハラだけに、声をあげたくてもあげられない。我慢して3年間働いたのだから誰も文句は言わないだろう。いや、言わせない。そして、今度こそパン屋の売り子になりたかった。パンに囲まれた安全地帯で働きたかった。
それからできるだけ噺との出来事を思い出さないようにと仕事に打ち込んだが、どうしても頭をなでられたときの感触がぬぐえず、その日いちにち魂が抜けたような状態で仕事をすると、定時とともに私は急いで家に帰り、さっそく履歴書を書き始めた。
学歴 みどり丘西高校入学・卒業
慶栄大学入学・卒業
職歴 東帝医療センター勤務
現在に至る
資格 栄養士、管理栄養士、高等学校教諭免許状、食品衛生監視員・管理者
これだけ見ればいっけん、順風満帆な人生の歩みに見えるだろうが、私にはしがらみにしか思えなかった。将生と雅代の言葉が脳内でリフレインする。
——セッカク、モッタイナイ
「なんでこんなに取っちゃったんだろうな……」
思わずひとりごとが口からこぼれたとき、急に部屋の扉がバンッと開いた。
「私だ。話がある。今いいか?」
聞き覚えのある耳障りな声に
「ノックぐらいしてください」
と私は鋭い目つきで父親をにらみつける。
父親の顔を見ていると、まるで未来の自分を見ているようだ。認めたくはないが、私がこの人の遺伝子を正確に受け継いでいることは、自分自身の身体的特徴や筋肉の凝り固まった堅物な顔が証明していた。なかでも、品祖な薄い唇は、引き裂いてしまいたいほどいま自分の目の前にいる男とよく似ていた。
「ノックしたところで、お前はまともに取り合わん」
父親は私の部屋に長い脚でドスドス入って行くと、机の前で立ち止まった。
「何だこれは?」
ふいに父親が履歴書を手に取る。
「あなたには関係ないです。返してください」
私は父親から履歴書を取り返すと、机の一番上の引き出しにしまい鍵をかけた。
「転職するのか?それならちょうどいい、私の会社にそろそろ入ったらどうかと話そうと思っていた ところだ。栄養士なんかやっていてもこの会社には何の得にもならない」
「栄養士ではありません。管理栄養士です。何度も言っていますが会社は継ぎません」
「まだそんなことを言っているのか。いい加減言うことをききなさい。だいたい今度は何になるつもりだ?」
私は押し黙ったまま、なにも答えなかった。意地でもいうつもりはない。
たまりかねた父親は首をめぐらし部屋を見渡すと、目ざとく封筒を見つけ出した。
「幸福堂、採用担当御中。幸福堂って、まさか、あの駅の近くのパン屋か?」
「何度も言いますが、あなたには関係ないです。いますぐこの部屋を出て行ってください!」
「私はお前をパン屋で働くために育ててきた訳じゃない。橘グループの取締役にさせるために育ててきたんだ。いい加減、恥を知りなさい。病院は今月中に辞めて、来月からうちの会社で働きなさい。今度という今度は強制だ。いいね?」
たんたんと言う父親の目には、言葉には出ない殺気立ったものがあった。家賃を浮かせるために実家に住んでいたが、このままでは強制的に父親の会社に入社させられる日は確実に来るだろう。そして、周りから一定の距離を置かれては、気を遣い疲れる存在になるに違いない。寄って来るのは下心のあるやつだけだ。そんな、ゴマばかりすってくる人間にチヤホヤされて、裏では下手に想像するのが危ぶまれるほどの陰口をたたかれるのだと思うと吐き気がした。
こんな家の人間になんて、生まれてくるんじゃなかった。
私は自分の出自を恨むと、気付かれないように荷物をまとめ、ひとり家を出て行った。
お読みいただきありがとうございました!
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こんばんは!桜楽ぬぬです(*^^*)
念願のおにゅーPCがついに届きました!
また、新しい相棒とたくさんお話が作れたらと思います!
高価な買い物なので、さっそく保険に加入しないと!!
ところで、皆さんの職場(学校)には鮫島先生や噺先生のような厄介な方はいらっしゃいますか??
仕事を選ぶうえで何が一番大事か?という質問をよく知人にするのですが、皆さん決まって「人間関係」だとおっしゃいます。
めちゃわかるっっ!!
やっぱり、平和がいちばんですよね!(*^^*)