第2話
2か月後、雅代が糖尿病外来の前で座って待っていたのを見つけた私は声をかけた。
「田中さん、こんにちは。その後どうですか?」
「あら、橘先生!こんにちは。相変わらずインスリン注射は怖いけど、食事療法はばっちり、完璧」
と雅代は余裕綽々(しゃくしゃく)な笑顔を私に向けた。心なしか鼻息が荒い。
「そうですか。なら、よかったです。またわからないことがありましたら、お気軽にお尋ねください」
私が軽く一礼してその場を去るのと同時に、電光掲示板の表示が変わった。雅代は自分の番号だと 確認すると、荷物を持って次に呼ばれるのを待った。
「56番の方~」
はぁい、と雅代はすこし低めに手を挙げると、診察室へ入って行く。
「鮫嶋先生~、こんにちは。お世話になります~」
雅代は軽く頭を下げた。
鮫島も「田中さん、こんにちは」と軽く頭を下げると、1時間前に雅代にした血液検査の結果を見た。
「んー、数値が下がりませんね~」
鮫嶋は両腕を組むと、椅子に身体を預けたままパソコンの画面を見入ってしばらく考え込んだ。そして、「いま、体重は何kgですか?」と尋ねる。
「68kgです」
またしばらく鮫嶋は考え込むと、ふと雅代の方を見た。年齢のわりには派手な赤いノースリーブのミニワンピースを着ており、そこからモモンガのような二の腕と、木の枝のような血管が張り付いた脚が伸びてい耳には派手なピアス、顔には濃いめのメイク、と本人は若づくりのつもりだろうが、逆に老け込んでいる印象を受けた。
「いま、体重、量ってみましょう」
「あの、先生、さきほど処置室で量りましたけど?」
雅代は不思議そうに鮫嶋を見る。
「まぁ、念には念をということで」
看護師が横から体重計をそっと置いたので、とりあえず雅代はその上に乗った。その光景をじっと見ていた鮫嶋の目が鋭く光る。
「68kgです」
看護師が読み上げた。なんら問題はないように思われたが、続いて鮫嶋は
「ついでに身長も測りましょう」と、さも当然と言った感じで進めていく。
「えっ……」と雅代の双眸は右に左にと忙しく行き来し、わかりやすく焦った。言われるがまま身長計の下に入ると看護師に身長を測定される。
全身の毛穴が開き、手のひらがじっとりと湿った。
「167cmです」
「田中さん、8cmも違いますけど、これは一体どういうことですか?」
雅代は少々うろたえると、
「だって身長が167cmだなんて恥ずかしくて……。ほら、女性は小さい方がかわいらしいでしょ?橘先生を見てたら、なんだかつい嘘をついてしまいました」
と呆れ果てる回答をした。
後日、私は鮫嶋から医局に来るようにと呼び出された。一体なんだろう。あの先生はクセが強くて関わると厄介だ。私はゆううつな気持ちで医局に入ると、鮫嶋の席へと向かった。
「あの、お話とは一体なんでしょうか……」
おそるおそる尋ねると
「田中雅代の身長が実際のものと8cmも違っていた」
と鮫嶋に睨まれた。
「え……!?」と私は言葉をなくす。
「これがどれほど危険なことか、わかるよね?私は危うく間違った治療を進めてしまうところだったよ。君がちゃんと目の前で身長を測らせていたら、こんなことにはならなかった。悪化して合併症でも起こしたら大変なことになっていたんだぞ。今回は私が見抜いたからよかったものの、どう責任をとるつもりだ?」
「申し訳ございません、ですが、基本的に身長は自己申告でして……」
正確な状況が把握できず、右往左往する私の唯一の主張を、言い訳はよしなさい、と鮫嶋は遮ると
「君ははじめての料理に挑戦するとき、適当に材料や調味料を入れるのかい?いや、入れないだろ?きちんと量るだろ?レシピ見て確認するだろ?それと同じだよ。君はこの前といい、今日といい、どうしてこうも私を不快にさせるんだ」
と面倒くさい例え話を持ち出してきた。
こじつけるにも苦し過ぎる。
私ははじめての料理でも、面倒くさくて勘でパパッとしますけどなにか?
なんで患者の虚偽申告が栄養士の責任になるの?
だいたい、患者も患者だ。なにを思って虚偽の情報を申告したのか。本当に治す気はあるのか。その火の粉がなぜ自分に降り注ぐのか。
私はイライラ、モヤモヤする気持ちを理性でぐっと抑え込むと、すらりと高い身体を直角に折り曲げ
「申し訳ございません。以後、気を付けます」
と意味もわからずに謝罪した。
帰宅する道すがら、私は、はぁ、と大きなため息をついた。ため息のぶんだけ、このゆうつがどこかへ消えてなくなってしまったらどんなにいいだろう。
あの病院を離れたい。気難しい医者とさよならしたい。やっぱり私は……。
私がこぼれ落ちそうなため息をもう一度ついたとき、こうばしい香りが鼻孔をくすぐった。思わず香りの方向に身体を向ける。
色とりどりの花が植えられたアプローチ、魚の鱗のような緑色の屋根、『幸福堂』と書かれた木目を用いた看板、乳白色の壁には正方形の大きな窓があり、そこから見えるいくつかのパンはオブジェのようで、お店ぜんたいがおしゃれな西洋建築物そのもののようである。
「またやってしまった……」
私は考えごとをしながら帰ると、7割の確率で自宅より大好きなパン屋になぜか着いてしまうというクセがあった。それはもはや本当に心安らぐ帰るべき場所は、ここ(パン屋)ですよ、と神様だか仏様だかわからないが、目には見えないなにかから示されているようだった。
私は顔を上げて気を取り直すと、はやる気持ちを抑えゆっくりと扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
売り子のお姉さんのやわらかな声が店内に響き渡ると、こうばしい匂いが鼻をついた。思わず頬がゆるむ。
目の前には黄金色のパンがずらりと端から端まで並び、キラキラとまぶしく光っていた。午後6時過ぎ、ほとんどのパン屋が閉まるなか、ここ幸福堂は夜の8時まで営業しているありがたいお店のひとつで、仕事帰りでも焼きたてのパンを買うことができる。店内では仕事帰りのOLやサラリーマンが数人、入って来ては出て、また入ってを繰り返し適度に混んでいた。
この空間、この香り、最っ高!癒される……。
私は目をつむるともう一度深呼吸した。
身体ぜんたいに小麦の焼けた香ばしい香りが循環していき、傷ついた心と身体を癒していく。
それから、店内の商品をていねいに眺めていると
「あっ、超クリームパン、ラスイチ!」
と目当ての商品を見つけ、すばやくトングで挟んだ。
超クリームパンが拝めるなんて、今日いちにちさんざんな日だったが、案外ツイているのかもしれない。
あの卵にこだわった濃厚なカスタード、その甘みは高級プリンに負けず劣らずで、クリーミーな味わいはまさに天に昇るような気持ちになる。
私は小さく笑うと、塩パンと明太フランスをさらにトレーの上へ乗せ、レジへ向かった。
「あの、このパン3つと、湯種食パンください」
「1斤と1本、どちらにしましょう」
売り子のお姉さんがほほ笑みながら尋ねる。その笑顔が私にクリティカルヒットしたので一瞬戸惑うも、なんとか平静を保ち「えっと、1斤でお願いします」と答えた。
「かしこまりました」
売り子のお姉さんが会計をしているあいだ、ユニフォームのかわいさに思わず見とれた。白のブラウスに、赤のスカーフ、腰に巻かれた茶色のエプロン。いつか私も着てみたい。そして、パンに囲まれた至福の空間でせいいっぱい自分らしく働くのだ。
「合計で……円になります」
自分に向けられた売り子のお姉さんの身女麗しい声を聞いて、「えっ?」と私はお花畑の世界から我にかえった。
「合計で748円になります」
売り子のお姉さんはいやな顔ひとつせず、笑顔でもう一度合計金額を言った。その心の広さに、これが病院ならあの鮫嶋から猛攻撃を受けているに違いないと、一瞬胃酸が喉まで上がり、その辛さに思わずむせる。
「大丈夫ですか?」
売り子のお姉さんの天使のようなほほ笑みに、私は「大丈夫です」と答えると、お金を支払った。
やっぱり、パン屋の売り子になりたい。
この気持ちを抑えることは敵わない。
でも、いまの仕事を辞める勇気はない。
なにか、あとほんのすこしの決定的な「何か」がないと、足踏みしてしまう自分がいた。
お読みいただきありがとうございました!
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こんにちは!桜楽ぬぬです。
PCが完全に壊れてしまい、スマホからこの後書きを書いています。
新しいPCを早速注文したので、届くのを首を長くして待っているところです。
そろそろ、花粉症のシーズンですね。
毎日マスクをつける生活をしているものの、はやくも鼻が詰まり息が苦しい毎日を過ごしています。
お薬飲んで今年も花粉と戦いますかね。
同じ花粉症の方、一緒に乗り切りましょう!