第1話
プロローグ
亡くなった祖母は言った。
ひとは、生まれたときから持てるものの量が決まっているんだよ、と。
物理的には手は2本しかないが、目に見えないものの方がよっほど重くて、ひとを苦しめるんだ、とも。
いま思えば、祖母は私の生い立ちや、外見の美しさ、その上器用貧乏なところを危惧していたのかもしれない。
*
病院の廊下は冷たい。
無機質な白い壁にくすんだ廊下、かすれる足音。閉鎖された空間にたまに差し込む窓からの光はまぶしく、思わず目がくらむ。
毎日多くの人々がここを訪れ、命と健やかな健康を繋いでいく——。
そんな素晴らしい場所なのに、すべて色あせて灰色に見えるのは、自分の仕事にそれほど魅力を感じていないからだろう。
私こと、橘智美は元テニスプレイヤーだった。幼少期からなんとなく始めたテニス。小、中、高と飛躍的に上達し、インターハイにも出場した。
今後の人生展開を考えたとき、海外に行くか迷ったが日本の大学に進学。その後、試合を重ねポイントを獲得していき、やがて学生ランキング3位、日本ランキング19位にまでなった。
プロに転向するのを目前に控えた矢先、右足首の靭帯損傷に加え、右肩を故障。
私は潔く引退を決めた。テニスは好きだったが、未練などはなかった。
周りより一歩遅れた就活には苦戦したものの、現在ここ、東帝医療センターで管理栄養士として働いている。
でも、ほんとうは違うものになりたかった。ただ、私は……。
「先生、橘先生?聞いてる?1週間分の食事、紙に書いて持って来たんだけど」
え?、と私は思わず顔を上げると、いぶかしそうな顔をしている患者の田中雅代が目に飛び込んできた。
鼻が捻じ曲がるような濃い香水の匂いに、私ははっとして我にかえると
「すみません、もう一度教えて頂けませんか?」
と頭を下げた。それを見た雅代は、やーね、と手のひらを一度宙ではたくと
「もう、ぼーっとしちゃって。ひょっとして、先生恋わずらいかなにか?」
と、茶化して訊いてきたので
「いえ、違います。ほんとうに申し訳ございません」
と私が重ねて謝罪すると
「ねぇ、いきなりだけど先生って独身?」
と突然雅代が身を乗り出し顔を近づけてきた。
「え、あ、まぁ……」
と私は委縮する。
「こんなに若くて、顔も整ってて、スタイルもいいし、優しいのに、なんだかもったいないわね」
——モッタイナイ……。
雅代が無邪気に放ったその言葉が、胸にチクりと刺さる。
「いや、そんな上手言ってもなにも出ませんよ」
と私は無理やり笑顔を作ると、話をもとに戻して栄養指導を再開した。
雅代から食事のメモを受け取ると中に目を通す。
「これはちょっと食べ過ぎですねぇ。オムライスやパスタ、お好きなんですか?」
と顔を上げて雅代に尋ねると
「そうね。簡単に作れちゃうから、よく食べがちかも」
と雅代はなぜか照れた。まるで、まだ二十代になりたてのアイドルのようである。
「たしかにおいしいですよね。わかります」
と私はにっこり笑うと、
「でも、この一週間分の食事ですと、パンやご飯もの、間食のお菓子など糖質を取り過ぎているので、注意が必要です」
と言ってからパソコンの電子カルテに目を落とすと
「えっと、田中さんの身長と体重、それからご職業を教えて頂けますか?」
と尋ねた。
雅代はやや視線を外すと
「身長は159㎝で、体重は70kg。専業主婦よ」
とそっけなく答えた。
私はすばやくBMIを計算してメモすると、続けて「普段は運動されますか?」と質問した。
それに対して「んーあまりしないわ」と雅代は答える。
「わかりました」
と私は言うと、標準体重と1日に必要な摂取カロリーをはじき出した。
「田中さんの場合、目標体重は56kgくらいなので、あと14kgの減量が必要です。そのためにも1日1500kcal以内でお食事をする必要があります。具体的にどうやるかというと……」
と、私は食品交換表のパンフレットと必要な書類を何枚か渡し、使い方を説明すると
「なるほどねぇ~、あたしでもできそうだわ。けっこう面倒くさそうだけど」
と雅代は言った。
私は、そうですね、と頷いて同意すると
「でも、この食事療法はインスリン注射と同じくらい糖尿病にはとても大切なので、一緒に頑張りましょう」
と言ってから
「参考レシピもあとからいくつかお渡ししますね」
と気さくに笑った。
雅代の栄養指導を終えると、さきほど雅代から言われた言葉が、ふいにまた脳内に再生された。
もったいない、か……、と私は口の中でつぶやく。
そして、医局へ報告に向かうすがら、私は5年前のことを思い出していた。
あれは全⽇本⼤学対抗テニス王座決定戦でのこと。ライバルの明星大学に自分の足の負傷が原因で負けて、大会が終わったコートのベンチにひとり座ってへこんでいたときだった。
「橘、なにひとり座ってんの?」
顔を上げると森本将生が目の前に立っていた。
私の心臓は急にとくん、となる。
「いや、ちょっと反省。ってかそろそろテニス辞めよかなって……」
私は目を伏せると小さく笑った。
「せっかくここまで来たのにもったいないぜ。怪我は選手につきもの。なにも辞めることないだろ」
と言いながら森本くんが私の横に座る。
「いや、もういんだ。他にやりたいことあるし」
「やりたいことって?」
と将生は私の顔を覗き込んだ。
私の心臓は思わずとくんとくん、と速くなる。
「パッ、パン屋の売り子」
恥ずかしそうに下を向いて、もじもじと手をこする私に
「えっ、バイトの話?」
とすかさず将生は返した。
それに対し「いや、就職」と気まずそうに私が答えると、将生は、え?と訊き返すように言ってから
「意味わかんないんだけど。足痛めておかしくなってるんじゃね?大丈夫かよ。とにかくここで諦めるのはもったいないと思うぜ、俺は。いままでの功績を無駄にするのは、はやいなー」
と言って遠くを見た。
「んーでも、なんか疲れちゃってさ、他の世界で生きてみたくなった」
と私はベンチにもたれかかると、茜色の空を見上げた。
たったふたりだけ残されたコートが、西日を浴びてオレンジ色に染まっていく。
私はなんだかすこし切なくなった。
将生はなにも言わずしばらく黙り込むと
「意思は、硬いのか?」
と私に尋ねた。
私は黙ったまま、将生の目をまっすぐ見てうなずく。
そっか……、と将生は諦めたように言うと、
「でもさ、違う道に進むとしても、せっかく大学に入ったわけじゃん?それ活かさないと。橘、今さらだけど、何学部だっけ?」
と尋ねてきた。
「看護栄養学部だけど……」
「卒業後に取れる予定の資格は?」
「栄養士、高等学校教諭免許、あと試験次第だけど管理栄養士と食品衛生監視員・管理者も」
「いいじゃん、せっかくなんだから、それ活かさないと。って俺はまだ引退するのははやいと思うけどねー」
将生は横顔でそう言うと、
「もう遅いし、帰ろうぜ」
と私に笑いかけた。
私は思い出してすこしくすぐったくなった。将生とは卒業以来会っていないし、連絡も取っていない。普通の「大学の同期」のまま距離は縮まらなかったが、いまでもこうして時々思い出すたびに、まだ自分は森本くんのことが好きなのかも、と思ったりする。
私は医局に着くなり表情を引き締めると、鮫嶋の席へ向かった。
鮫嶋は禿げ上がった頭にあるほんのすこしの髪の毛を大切に整え、その存在を確認するように何度も手のひらでやさしくなでていた。
「鮫嶋先生、田中さんの栄養指導についてなんですけど……」
「今話しかけないでくれ。あとから電子カルテで読む。私は急がしいんだ。君と違って」
え、この前は直接伝えてくれって言いましたけど……。というより、前にもその前にも似たようなことありましたよね?どちらにせよ電子カルテには記入済みだからいいですけど。
医者って本当に偉いのかな?尋ねるたびに言っていることが違う。専門的な知識以外は、大切なにかが抜け落ちている気がする。
「……わかりました」
私はつくり笑顔で言うと、医局をあとにした。
お読みいただきありがとうございました!
感想などお寄せいただければ嬉しいです。
お久しぶりです!こんにちは!桜楽ぬぬです。
小説家になろう、でなんとか2作品目連載開始できそうなので、またお時間のあるときに読んでいただけたらうれしいです。
全6話です。基本的に短く書いているので、何かの片手間に読めるのではないかと思っています。(真剣に読んでいただけるかたも大歓迎です♡)
TwitterやInstagram、note等の告知でPCの故障により、ひとりで勝手に慌ててしまい連載を延期するとのことでお知らせしたのですが、なんとか生き返ったので第1話だけでもお届けしようと思います!
最近PCの調子が悪いので、またいつどうなるのかわからない状況ですが、随時こちらの活動報告はじめ、SNSでお知らせする予定です。
なにもなければ、基本的には毎週土曜日22時配信予定なので、よろしくお願いいたします。
それではこれから約2か月間、またお付き合いいただけたらうれしいです(*'ω'*)