傘がない二人
男女の仲がよいからといって、必ずしも恋愛に発展するとは限らない。
お互いの距離感を見定めながら人は生きていくものなのかもしれません。
そしてその境界を越えてしまったとき、運命の歯車は動き出しどちらも望まないような結末を迎えることもある。そんな物語です。
突然の夕立に阻まれて、僕はひさしのある店の軒先で雨をしのぐ羽目になった。天気予報を見る習慣は無い。折りたたみの傘を持ち歩くような習慣もない。
「すぐにやむだろうか」
大粒の雨が落ちてくるその先にはどす黒い雲がビルの隙間から見える空を覆っている。
今朝は見えなかった雨雲が、気まぐれに僕の頭上に現れていたずらの行く末を眺めているようだ。
往来する人の中にはバッグを頭の上に載せて雨をしのぐ場所を探す女性もいれば、羽織っていたジャケットを被って走り去る男性もいる。折りたたみの傘を持っている人は、少し楽しそうにそれを取り出して安堵の表情を浮かべる。
夏模様
そんな言葉が頭をよぎる。
でも、問題は傘がない。
どちらも昔よく聴いた歌手の歌詞だが、僕の問題は会いに行かなくちゃいけない人などいないということだった。そして雨音がショパンならなんとかなるが、これはシューベルトの「魔王」のようにどこか不吉さを含んだ音に思えてしまう。
僕は、姿亡き者に怯える子供なのかもしれない。
「あなた、いったい何歳なの?」
ちょっとしたことで口論となり、年下の女子に言われた言葉を、こんなときに思い出してしまう僕のシナプスはマイナスベクトルへ傾いているに違いない。
傾き
"y=ax+b"の傾きが同じで切片が違う値の直線は交わることが無い。
傾きを変えれば一度は交わるし、切片を同じ値にすれば、それは同じ直線になる。
しかし人の生き方というのは、そう簡単に数値を変えられない。
平行線のやり取りの末に、互いの切片を彼女はプラスに、僕はマイナスに変えた。互いに干渉しない隔たりを確保することで、それぞれの平穏を取り戻そうとしたのだ。
こんな不毛な思考の言葉遊びを『運命という奴はどこまでも気まぐれで、それはまるでこの夕立のようだ』と締めくくることにして、僕はいよいよどうやって家に帰るかをまじめに考えることにした。
確かにジャケットを脱いで傘代わりにできるが、別に急ぐ必要も無い。やはり、このままやり過ごすのが最適解だろう。近くのコンビニで傘を買うのも億劫だし、ジャケットを濡らしてまで傘を買うのは馬鹿馬鹿しかった。
たいした用事もないのに町をぶらついていた僕が馬鹿だった。でも馬鹿はそう簡単には治らない。いや、もしかしたらこの気まぐれな僕の行動は、何かしらの導きによってもたらされ、僕は今、夕立に足止めさせられている。ならば、一刻も早くこの場を立ち去るべきなのかもしれない。
だが遅かった。その『気まぐれの運命』という奴が、小さな足音を立てて小走りでやってきた。
見慣れたバッグを頭に載せて、見慣れた服を着た、見慣れた人影がこちらに向かって走ってくる。そんな馬鹿なことがあるかと思いながらも、秒単位でそれは現実味を帯びてくる。
サキだ。
僕が運命の正体を見破ったとき、彼女はまだ夕立という凶事に気をとられてこちらには気づいていないようだった。バッグからハンカチを取り出し、塗れた肌を拭き始めてようやくこちらに気づいた彼女は、不快というよりは諦めに近い落胆の表情を浮かべながら、一瞬止めた雨を拭き取る作業に戻りながら、何か言葉を探しているように見えた。
「もう、最悪」
聞こえないように小さな声で言ったのかもしれないが、僕はその言葉を予測していたので、聞き取れなくても口の動きでそれがわかった。僕は沈黙と無関心を決めたがこの小さな店の軒先では、二人の位置を離す切片の数値をこれ以上、上げることはできない。3メートルの距離をあけた二人の直線は、見事な平行線を描いていた。
サキとはここまでいろんな付き合い方をしてきた。知り合い、仲間、友達、そしてそれ以上ということもあったのかもしれないが、互いに型にしばられないことを好としながらも、それぞれのやり方あり方の違いに敬意と嫌悪を覚えつつも、共通する興味の対象、それは音楽であったり、人生観であったり、料理であったり、結婚観であったり、学問や仕事について、明け方まで語り合うこともあった。
でも一度意見がぶつかると、互いに譲ることをしない。正確には譲った振りをしながらも、結局同じことでまた衝突し、それは回数を重ねるごとに大きな反発の力量を得て、それは口を利かない時間数の増加係数をうなぎ上りに上昇させていった。
彼女の考えていることはわかっている。どうにかしてこの場所から一秒でも早く立ち去りたい。そのための最適解を模索しながらも、結局のところ空を見上げるしかないことにとても腹を立てているに違いない。
そして彼女も僕が考えていることをおそらくはわかっている。この状況が長く続けばいいと思っている。サキがどうするのかを見定めてやろうと、無関心を装ってじっくり観察しているに違いないと、そんなことを考えているのだろう。
それは概ね当たってはいるが、正解ではない。僕はもっと現実的な問題を優先して物事を考える。この雨、簡単にはあがりそうもない。雨が降る直前までは30度以上あった気温が肌寒く感じるくらいに一気に下がっている。雨の量は雨宿りを始めてからずっと増え続けている。上空に寒気があって場所によっては雹が降っているに違いない。この夕立の正体は爆弾低気圧だ。もうすぐ、あちらこちらの道路で冠水が始まるだろう。
僕より後に雨宿りをしたサキは、当然僕よりもぬれている。雨を拭き取ったといってもあんな小さなハンカチではたかが知れている。もともと寒さに弱い彼女にとっては、僕がそばにいること以上に苦痛な状態に違いない。
まぁ、いい。どちらにとってもこれは最適解だろう。
「これ、使えよ。まだ冷えるかもしれない」
僕は着ていた麻のジャケットを脱いで彼女に差し出した。
話しかけないでよという抗議の視線を僕に浴びせてきたサキに僕はひるむことなく一歩近づいてジャケットを渡そうとした。
「そんな上面の優しさでごまかそうとしたって、私には通用しないわ」とでも言いたいのだろう。
しかし、口に出して言った瞬間に不毛なやり取りがまた始まる。二度と会わないし、口も利かないと互いにそんな強がりをそれぞれの表現でした後である。簡単にはいかないだろうとわかっているが、僕は感情よりも論理を優先する。
だからこそ「あなたは人の気持ちがわからないのよ」と批難されても、平然と言い返してしまう。
「少なくとも僕は、わかろうとはしている。あなたこそ、僕の何がわかっているっていうんだい?」
過去のいろんなやり取りが頭をよぎるが、横で寒さに震えている人を、僕は放っては置けない。ただ、それだけだ。そして僕にはわかっている。ただそれだけというのが、彼女にはどうしようもなく気に入らないのだということが。
「うそつき」
サキはそうつぶやいて、僕のジャケットを振り払うかのように手を出したが、地面に落とすことはなしなかった。
それは僕がかつて彼女に言われた言葉である。しかし「それは悪魔の証明だよ」とそのとき、僕は言い返してしまった。
いや、むしろその発言こそが嘘だった。僕は証明することを拒否する言い訳として、その言葉を引用し、それすらもサキには見透かされている。サキは僕のことをわかっているがゆえに許せないのだと、僕もわかっている。
僕が彼女に「好きだ」といった言葉を彼女が完全に信じきれないということと、信じたくないということと、好きだと言われてもこの先二人の進む道を見るけるには難解な方程式を解かなければならない事を互いに承知をしていたはずなのに、僕はその暗黙の了解、互いの関係は虚数と同じ。
実数ではない存在であり実生活では存在しない関係なのだ。
彼女は僕から奪い取ったジャケットを両手で持って広げ、少しの間眺めていた。手には取ったが、それを着るのは嫌なのだろう。いや、着ることがではなく、着た姿を僕に見られるのが嫌なのかもしれない。僕は彼女に背を向けた。
「借りるわよ」
意地っ張りめと思い、僕は雨が止んだらどうするのかを考え始めたとき、背後から彼女の気配が消えた。振り向くと彼女は僕のジャケットを傘代わりにして、どしゃぶりの雨の中を走っていた。
「それが、サキの最適解か」
清清しいと思える彼女の決断に、僕は笑うしかなかった。ただ、問題は今日の雨。
傘がない。
この物語は短編集『彼女が傘をささないわけ』 の最新話です。
SF、ホラー、ファンタジー、会話劇いろいろな形の恋愛物語のなかの一つです。
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