あとがき
これで、『優しいお岩さん』の連載は一応終わりですが、お岩さんについて誤解されている方が多いと思われますので、本当のお岩さんについて掲載しようと思います。
いわゆる怪談としてのお岩さんは、創作されたものであり、本当のお岩さんは怪談の内容とは全く関係ありません。
今回私は、東京の『小岩稲荷』にお詣りに行って来ました。
最後にその時の資料を掲載したいと思います。
私の作品は読まなくても構わないのですが、あとがきだけでも是非とも読んで欲しいです。
鶴谷南北によって歪められたお岩さんの過去を思うと、私は気の毒でなりません
この神社の「於岩」というのは「お岩」という江戸時代の初期、江戸の四谷左門町で健気な一生を送った女性のことである。
その女性の美徳を祀っているのが、この神社である。ところが、その「お岩さん」の死後200年近く経ってから、図らずも芝居の主人公になった。『四谷怪談』である。
しかも福を招き、商売繁盛のご利益があり、芸能の成功、興行の成功にはことさら霊験あらたか。
さらに最近では交通安全、入学試験にも功徳がある、という。
怨念と「お岩」さんの関係は、いったいどうなっているのか。
脚色された於岩 第一幕。
時は江戸初期。所は四谷左門町の武家屋敷の一角。
お岩は徳川家の御家人の田宮又左右衛門の娘で、夫の田宮伊右衛門とは人も羨む仲のいい夫婦だった。
ところが、三〇俵三人扶持というから、年の俵給は一六石足らず。台所はいつも火の車だった。
そこでお岩夫婦は家計を支えるため商家に奉公に出た。お岩が日頃から田宮家の庭にある屋敷社やしきがみを信仰していたおかげで、夫婦の蓄えも増え、田宮家はかつての盛んな時代に戻ることができた。
お岩稲荷 信仰のおかげで田宮家は復活した。
という話はたちまち評判になった。そして、近隣の人々はお岩の幸福にあやかろうとして、屋敷社を『お岩稲荷』と呼んで信仰するようになった。
評判が高くなるにつれ、田宮家でも屋敷社のかたわらに小さな祠を造り、『お岩稲荷』と名付けて家中の者も信仰するようになった。
そればかりではなく、毎日のように参拝に来る人々の要望を断りきれず、とうとう参拝も許可することになった。
それからは『於岩稲荷』 『大厳稲荷』 『四谷稲荷』 『左門町稲荷』などといろいろに呼ばれたが、家内安全、無病息災、商売繁盛、開運、さらに悪事や災難除けの神として、ますます江戸の人気を集めるようになった。
お岩という女性に怨念のかけらもない。
第二幕 時は、江戸後期。所は歌舞伎の作者、鶴谷南北の部屋。
鶴谷南北はかねてから、『於岩稲荷』のことを聞いていた。
お岩という女性が死んでからもう二百年がたっている。それなのに今でも江戸で根強い人気があることに注目した。
人気のある『お岩』という名前を使って歌舞伎にすれば、大当たり間違いない、と見当をつけた南北は台本書きに入った。
お岩があんな善人では面白くない。刺激の強い江戸の人間を呼ぶにはどぎついまでの脚色が必要だ。
南北は『お岩稲荷』からは『お岩』の名前だけを拝借して、江戸で評判になったいろいろな事件を組み込んだ。
密通のため戸板に釘付けされた男女の死体が神田川に浮かんだことがある。
よし、これを使おう。
主人殺しの罪で処刑された事件もあった。あれも使える。
姦通の相手にはめられて殺された俳優がいた。それも入れよう。
四谷左門町の田宮家には怨念がいたことにしよう。
江戸の人間なら、だれでも記憶にある事件を作家の空想力で操り、脚本はできた。
しかし、四谷が舞台では露骨すぎる。『お岩』の名前だけ借りれば十分だ。南北が付けた題名は『東海道四谷怪談』。四谷の於岩稲荷の事実とは無関係な創作であることを示すことにした。
天才的な劇作家が虚実取り混ぜて創作したのが、お岩の怨念劇だった。
第三幕 時は、文政8年(1825)。江戸文化が最も華やかで、文化爛熟といわれた時代。
寛政から始まった幽霊物の読み本が最盛期を迎えていた。
果たせるかな、歌舞伎は大当たりした。
お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎の『東海道四谷怪談』は江戸中の話題をさらい、以来、お岩の役は尾上家の『お家芸』になったほどだった。
歌舞伎がますます於岩稲荷』の人気を煽った。あまりの人気ぶりに幕府も当惑し、四谷塩町の名主・茂八郎に命じて、町内の様子や出来事をまとめさせ、奉行に提出させている。歌舞伎の初演から二年目の事だった。
第四幕 時は、その後。所は四谷左門町の於岩稲荷神社。
この歌舞伎の影響力は大きかった。
最初は出演した役者がもっぱら参拝していた。そのうち上演前に参拝しないと役者が病気になる、事故が起こるといった話にまで発展するようになった。
祟りがある、という声もあったが、事故の原因はほかにあった。なにしろ怪談である。トリックを凝り、道具だても複雑になり、多くなる。おまけに怪談だから、どうしても照明は暗い。また天井からの吊し物も多い。そんな中で芝居することになるので怪我が多かった、ということだろう。
それが怪我にからめて『祟り』と結びついたのである。
第五幕 時は、明治以降。所は中央区新川。
『東海道四谷怪談』を手掛けては天下一品といわれた市川左団次から、『四谷まで毎度出かけていくのでは遠すぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに移転して欲しい』という要望もあり、明治12年(1879)の四谷左門町の火事で社殿が消失したのを機会に、隅田川の畔にあった田宮家の敷地内に移転した。それが現在の中央区新川にある於岩稲荷神社で、四谷の稲荷神社とまったく同体の神社だ。
その新川の社殿は昭和20年(1945)の戦災で焼失したが、戦後、四谷の稲荷神社ともども復活して、現在は二つの稲荷神社がある。
『優しいお岩さん』を応援頂き有難うございました。
たくさんの人達に応援頂いたお陰で、楽しく創作を続けることができました。
私はこの作品に何か《運命的なもの》を感じます。
連載を始めしばらくたった頃、ファンの方から
「一応お岩さんのお墓参りをした方が良いよ。映画や舞台で四谷怪談を演じる時も必ず初演前にお墓参りしているようだから…。」
と、言われ出掛けて行きました。ネットで調べた限りでは、四谷怪談は鶴屋南北の創作であり、実在のお岩さんの人生は幸せであったとありました。
ですからお岩さんの創作小説を書いたからといって、呪いとか祟りなどがあるわけがないとは思いましたが、万が一読者の方がケガをしたとか病気になったなどということがあるとお互いに嫌な思いをするし、好奇心旺盛の私は知らない所を歩くのも楽しいだろうと行って見ることにしました。
今は行って良かったとつくづく思います。…と言うより、私が行く気が無いのでファンの人の力を借りて行くように導かれたようにも思うのです。
というのは、本当は幸せだったお岩さんの人生を鶴屋南北によって醜く歪められてしまったわけです。
そう…お岩さんの人生を呪いや恨みや祟りなどで塗り変えられてしまったのです。
どんなに悔しい思いをしていることでしょう。
私がこの創作をするということは、そんなお岩さんの名誉挽回というか、お岩さんの汚名を払拭する助けになるのではないかと思ったのです。
この日は「お岩稲荷」を見た後激しい土砂降りになってしまい、巣鴨にあるお墓には行けませんでしたが、いずれ機会があったらお参りして来ようと思います。