42、二人の楽園
「皆さま本日はお忙しい中、私の為に足を運んで頂き誠にありがとうございます――」
とても澄んだ声が会場内に響き渡る。
その第一声を聞いた瞬間に、このホールにいる誰もがその声に聞き惚れた。
さらに、ステージ上でライトを浴びて立つその堂々として煌びやかな姿に、皆が一様に見惚れたのである。
それは女の人だけじゃない。
男の人も、特に政財界の有名な人達までが、他の皆と同じようにその橘の次期当主の姿に見入っていたのだ。
まさに次代の財界を統べるカリスマの姿と言っても良い。
そう言われても誰も疑いを持たないだろう。
それをこの会場にいる全ての人に知らしめたのだ。
凄い……。
凄いなぁ……。
改めて凄い人に惚れてしまったと思わされてしまった。
最近少し近づいたと思っていた千聖君が、またさらに遠くに行ってしまったような。
そんな寂しさまで覚える。
遠くに行ってしまっても、たまにで良いから私の事も見てもらえたら。
そんな事を考えると、千聖君の姿が涙で歪みそうになった。
「――それでは皆様、引き続き本日の催しをお楽しみください」
はっ!
千聖君に見惚れているうちに挨拶が終わってしまった。
つ、つつ、ついにこの時が来た。
この後ステージ上でバンドの演奏が始まって。
何曲か演奏したあと、私は千聖君と一緒にホールの中央に行って。
そこでダンスを披露する…と。
だ、ダメだ、考えただけで心臓が悲鳴を上げ始めている。
大丈夫、大丈夫よ私。
今日のためにお兄様と練習してきたんだから。
だから落ち着くのよ。
お願いだから落ち着いて、私の心臓。
そ、そうだ、もう一度ダンスのおさらいを――。
「祥子、ここにいたのか」
「ひゃひぃっ!!」
急に掛けられた声に口から心臓が飛び出しそうになった。
「ど、どうした、変な声出して…?」
その声は千聖君のもの。
私が思わず変な声を出してしまった為に千聖君まで驚いた顔になってしまった。
「ち、ちちち、千聖…くん……」
「もうそろそろだぞって言いに来たんだが、……様子が変だが、どうかしたのか?」
「だ、だだ、大丈夫です。わざわざ、ありがとう…ございます」
ダメだー!
声は震えるし、足にも力が入らないし。
こんなんで踊れるわけない……。
「ん? お前、緊張してるのか?」
「え、いや、そ、そういうわけでは……」
「毎年の事なのに何をそんなに硬くなってんだ、らしくないな」
「うう、だって……」
私は初めてなんだものー!
前世でこんな大注目されるような事した事ないし、人前とか超苦手だし、体動かすのとかもそんなに得意じゃないし、ああダメだ泣きそうになってきた…。
もうこのプレッシャーやだ~! 逃げ出したい~!
うにゃ~~!!
私がそんな感じで圧し潰されそうになっていると、千聖君が意外な事をしてくる。
「――ほれ」
「はへっ?」
一瞬何が起こったのか分からなかった。
千聖君の手が私の顔の前に伸びてきて、何かと思う間もなくむにっと私の頬を抓ったのだ。
「な、なにほひて…?」
何だかよく分からないけど、千聖君の手が私の頬に触れている…?
いやでも確かに私の頬に千聖君の手の温もりを感じる…。
……。
それを意識した瞬間、私の顔がすぐに熱くなった。
にゃ、にゃんだーー!?
にゃにをしているんだ、この人は!?
にゃぜ私のほっぺを抓る!?
「こうすると緊張がほぐれるんだよ」
千聖君は私の頬っぺたをむにむにしながらそう言った。
「ほ、ほうなんでふか…?」
そ、そうか私の緊張を解くために…、千聖君……。
「冗談だ、そんな訳ないだろ」
「ふにゃっ!?」
じょ、冗談!?
冗談って、……えっ!? じゃあこれは一体何なの!?
何で、私のほっぺを抓っているの…?
しかし千聖君は尚も私の頬をむにむにしてくる。
「ははは、変な顔だ」
なっ!?
何てことを言うんだこの人は!?
「も、もう! やめてくらはい!」
まったくもう!
変な顔とかね、乙女の顔を何だと思ってるんだ。
この顔に仕上げるのには色んな努力があるのよ?
そんな無暗に触っていいもんじゃないんだからね。
ああ、あれか。
緊張をほぐすとかってのは口実で、本当は私に触りたいだけだな。
なるほど、そういう事ね。
しょうがないなぁ、……まあ、千聖君なら少しくらいは良いよ。
ただ触り方があると言うか、……もっとこうね、あれよ……。もっとロマンチックなやつのが良いというか……。
なにか雰囲気のあるセリフとかが必要なのよ、まったくもう。
「はは、悪い悪い。どうだ、少しは落ち着いたか?」
そう言われて初めて気が付く…。
「へっ? は、はい……」
確かに、少し緊張が和らいでいる。
さっきまでガチガチに硬直していた体も楽になって、息をするのも楽になった。
心臓はまだドキドキいってるけど、さっきほど苦しくはない。
それはまるで魔法にでもかかったように、私の緊張が小さくなっていく。
でも…。
そんな事を言われると、別のドキドキが追加されるじゃないか。
まったくもう……。
「それじゃあ、そろそろ行くか」
そう言うと、千聖君は私の手を取りぐいっと引っ張った。
「え、あ、ちょっ……」
千聖君の隣へと引っ張られた私は、そのまま並んで歩を進める。
手をつないだまま…。
「また表情が硬くなってるぞ」
「は、はい…!」
いや、そりゃなるよぉ!
手だよ、手!
この手のせいだよ!
手つなぐとか、前世でも小学生以来だからね!
大丈夫? 私、手に汗とか掻いてない?
顔とか赤くなってない?
大丈夫、私?
ああもう、せっかく緊張が解けてきたと思ったのにぃ。
そして、私と千聖君はホールの中央へとやってきた。
すると私たちの姿に気が付いた周囲の人達は、皆一様に私たちから距離をとり始めた。
ホールの中央には私と千聖君を中心にぽっかりと空いたスペースが出来上がる。
これから何をするか、ここにいる人たちはよく知っているみたいで皆の視線が私たちに集中する。
私がその雰囲気に呑まれそうになっていると、千聖君が来場者に一礼をした。
それを見て慌てて私もそれに倣う。
そこでバンドの演奏は曲間へと入り、それと同時に会場の照明は落とされる。
演奏が止まったのと、辺りが薄暗くなった事で会場内は徐々に静まり返っていく。
そして私たちはその薄暗くなった会場内に、まるで天使の梯子のような美しい光芒を浴びてその薄闇に浮かび上がるのである。
き、ききき、来た!
ついにこの時が来た!
え、えと、何だっけ?
最初は確かスローフォックスからで……、それから、えっと、それから……、それから何だっけ!?
あ、だ、ダメだ、一回吐いてきていいかな!?
うう、さっき少し落ち着いたのなんて何処かに吹き飛んでしまったよ……。
「祥子、大丈夫か?」
私を見て優しく語り掛けてくる千聖君。
「は、はは、はい!」
千聖君はくすりと少し微笑をうかべる。
すると繋いだままの手に少し力を入れ、私をぐいっと引き寄せた。
「ひゃっ!」
ち、近い!
「はは、何だその反応は」
近い近い近い近い近い近いーーー!!
千聖君の綺麗な顔が…、こ、こんなに近くに!
や、やばい、私息とか荒くなってない!? 顔赤くない!? 汗とかかいてない!?
も、もう心臓が…、潰れる……。
未だかつてないほどの密着に私の心臓が止まりそうになっていると、静寂を打ち破るように次の演奏が始まった。
スローテンポでムードのある曲、それが会場内に響き渡る。
すると、千聖君は私の手を握っている手とは逆の手を私の背中へと回してきた。
そしてその背中に回した手に力が入り、私はさらに千聖君との密着度が増す事となった。
こ、これは、もう……。
抱きしめられてるようなもんじゃないですか……。
ダメです。
もう死んじゃいます。
「祥子?」
「は、はひ……?」
私の様子に千聖君はやれやれと溜息を一つ吐く。
「祥子、余計な事は考えるな。今ここには俺とお前しかいない」
「私と…、千聖君だけ……?」
何それ、天国!?
「そうだ、俺だけを見てろよ」
その言葉をダンスの始まる合図のようにして、私たちは踊り始める。
千聖君が私を引っ張るようにして始まったそのダンス。
それはまるで流れる川のように麗麗としていて、とても優雅だった。
私と千聖君が踏むその四拍子のリズムの渦に、会場内の誰もが息を呑んでいた。
と、後になって聞かされた。
なぜ後から聞かされたかと言うと、私にはこの時の記憶が殆ど無い。
千聖君に『俺だけ見てろ』なんて事を言われてしまった私の視界は橘千聖で一杯になってしまったのだ。
もう他に何も考えられなくなってしまったのだ。
何という事だ。
俺様S彼大好物の私を見透かしたようなセリフを……。
それはもう、お前は俺のもの宣言をされたようなものじゃないか。
ああ、何という事だ。
この世界には私と千聖君以外存在しないだなんて。
それはもう、私たちの仲は誰にも邪魔させないって言ってるようなものじゃないか。
だったらこうしましょう。
神が創造した最初の人類のように、一緒に二人だけの楽園を作りましょう。
その理想郷とも謂うべき楽園、そこに住まうのは私たちだけ。
そう、二人はアダムとイブ。
そして悪い蛇にそそのかされた私たちは、禁断の果実えちえちの実を食べて一生イチャコラして暮らしていくのよ。
……よく覚えてないけど、多分そんな話だった気がする。
ああ、良い…。
そんな素敵な楽園があるといいのにな。
こうして踊ってるだけでよくて、ずっと千聖君と二人でいられて。
いつまでもイチャイチャしてて。
そんな幸せだけの世界。
あるといいのに……。
「……祥子。……おい、祥子。どうした、しっかりしろ」
「はへ……?」
千聖君が呼んでいる。
あれ、私何してたんだっけ?
「祥子…、大丈夫か?」
あ、そうだ、ダンスしてたんだ。
えと、それからどうしたんだっけ?
「千聖君…、だ、ダンスは…?」
「何言ってんだ、もう終わったぞ」
「へっ…?」
い、いつの間に終わったの?
全く踊ってた実感みたいなものが、無いんだけど…?
「ほら、礼をするぞ」
私は千聖君に促されるまま、動きを揃えるように二人で来場客にむかって礼をした。
すると、会場内から割れんばかりの拍手が沸き起こったのだ。
「す、凄い拍手……」
ど、どういう事?
何がどうなって…?
私のダンスはどんな事になってたの!?
「それだけ、良い踊りだったって事だろ」
全然記憶に無いんですが……。
「さあ、もう一度礼をしてこの場をはけるぞ」
「は、はい…」
今も鳴り止まない沢山の拍手の中を一礼する。
そして、何だか釈然としない気持ち悪い感覚の中、私はその場を後にしたのだった。
☆
「凄かったですわぁ、祥子様ぁ!」
皆の所に戻ってきた私、それを待ち受けるように晴香さんが飛びついてきた。
「晴香さん…」
「踊りは煌びやかで優雅で、それでいて橘様を見詰める瞳がなんとも情熱的で、わたくし心に沁みましたわ」
え…、千聖君を見詰める瞳?
ちょ、それどんな顔してたの!?
「そ、そうですか。自分ではよく分かりませんが……」
うわぁ、かなりヤバい顔になってたんじゃないだろうか……。
しかもこんな大勢の前で……。
うひゃぁ、恥ずかしー。
「祥子さん、凄かったよ! 踊りの事はよく分からないけど、何だか何処かのお姫様みたいだった」
汐莉さんは興奮気味にそう言った。
見ると、桜井さんたちも汐莉さんの言葉に何度も頷いている。
「ありがとう、汐莉さん。楽しんで頂けたようで何よりですわ」
な、何だか分からないけど、好評みたいね。
取り敢えず下手くそなダンスを披露したんじゃないようで良かったよ。
ずっとそこだけが懸念としてあったからね…。
「祥子様、素晴らしいダンスでしたね。キレもいつも以上でした、さすが祥子様です」
ん…? キレがいつも以上?
そんな事は無いと…思うんだけど?
祥子ちゃんに比べたらかなり見劣りするはずなんだけどな……。
「薫子さん…、どうもありがとう。今年はお兄様に練習を手伝って頂きまして、その成果でしょうかね」
「冬華様に……、なるほどそれは羨ましい。冬華様のダンスもそれは美しいですから、祥子様にもさらに磨きがかかったというわけですね」
これはどういう事なんだろう?
ダンス中に変にトリップした状態になっちゃってたけど、却ってそれが良かったとか……?
祥子ちゃんの体が覚えてた的なやつ……なのかな?
ま、まあ、これでお兄様にも怒られずに済みそうだね。
せっかく教えてもらったのに下手な踊り見せたら何言われるか分からないからね……。
取り敢えず、最大の懸念がようやくこれで終わったよ。
予想外にダンスも上手くいったみたいだし、もう言う事は無しね。
それにしても気になるなぁ。
どんなダンスだったんだろ? ……誰か動画撮ってないかな?
それに……。
千聖君は、どう思ったかな?
私のダンス……。
そう思って、ちらりと千聖君のいる方に視線をやる。
その視線の先にいる千聖君は、何やら知らないおじさん達に囲まれている。
やっぱり橘家の次期当主だけあって色々な人が寄って来るみたいだ。
千聖君はそんなおじさん達に対して、実に堂々とした態度で対応している。
そんな姿が何だか大人っぽくて、何だか遠くに感じてしまった。
やっぱ凄いな…。
……。
あのおじさん達……。
私の方にも来たりしないよね……?
や、やめてよ?
知らないおじさんとか、超苦手だからね。
遠くに千聖くんを眺めながら、そんな事を考えている時だった。
「お久しぶりね、祥子さん」
それは私には聞き覚えが無いけど、祥子ちゃんには聞き覚えのある。
少し艶のある大人の女性の声。
その声の主。
「こ、これは、おば様」
それは千聖君のお母様のものだった。
いつもお読みいただきありがとうございます(/・ω・)/
パーティー編も中盤ですが、あと何話か続きます。
当初は1,2話くらいの予定だったのですが、どうしてこうなった…。
そんな訳で皆様、また次回にお会いしましょう。
ブクマ、評価、今から30分オペレーターを増員してお待ちしております。




