33、星の下の二人
合宿所施設の一階に存在する広いロビー。
消灯時間を過ぎ、薄暗い証明が灯るだけとなったそこはどことなく寂寥感が漂っている。
この施設は山の麓に建てられているため、夜ともなると虫の声以外は何も聞こえなくなる。
もちろん、その虫の声も施設の中までは届かない。
その、しんと静まり返ったそのロビーが、今の私にはとても心地が良かった。
大きな窓の向こうに見える夜空。
その夜空には、一際大きな月が煌々と輝いている。
「今日は満月か…」
ロビーに置かれたソファに深く座り、夜空を見上げながら私はそう呟いた。
雲一つない夜空に燦然と輝く大きな天体。
その天体は眩しいくらいに光を放ち、アスタリスクのように光を放射する。
そしてその光が、周囲の星をかき消してしまうのだ。
「私はあのかき消される星なんだろうな……」
それは、自分で言ってみると酷く気持ちの落ちる言葉だった。
この世界に転生してからというもの、いつも私の中にある思いはこれだ。
あの星のように月にかき消されるのか、月を際立たせるために夜空を彩っている星の中の一つなのか。
この世界は、まるでこの夜空のようにそれぞれに役割が決められていてそれを演じるだけなのか……。
この数多ある星の中の一つが私で。
あの大きく輝いている月が汐莉さんで。
…………。
そういう事なんだろうか……。
そういう風に考えれば、今日千聖君がオリエンテーリングで一位を取りたがったのも辻褄が合ってしまう。
原作では確かにあんな行動は見せなかった。
でもそこに齟齬ができたのは、まるで汐莉さんが蛇に噛まれるためだったかのようだ。
本来だったら山道に迷って千聖君が助けるというシーンだったのに、私がそれを邪魔してしまったから別の事象に置き換わった。
その為にあんなにも一位に固執した……。
多少細かい部分は変わっても、大筋は変わらない。
何か見えない力で話が押し戻されるのだとしたら、私にはどうする事もできない。
それが、この物語の中の世界なのだ。
そういう風に、私はこの物語から言われているんだ……。
そう考えながら満月を見上げる、すると深い溜息が一つ漏れた。
ああ、私はどうすればいいんだろう…?
藻掻いても藻掻いても、ちっとも前には進まない。
一体何が立ち塞がってるのかもわからない。
まるで深い闇の中に大きな壁が横たわっているみたいで……。
それでも。
諦める気持ちにはなれない自分がいる……。
私は満月を見上げながら、ソファの背もたれに深く体重を預けた。
そしてまた深い溜息を吐いた、そのときだった。
私の頬に何かが当たり。
「眠れないのか?」
そんな、私のよく知る声が聞こえてきたのだ。
頬に感じる熱と共に掛けられたその声の主というのは。
「ち、千聖君…!?」
私の大好きな人のものだった。
私は振り返り、薄暗い中に月明りを浴びる千聖君の姿を目にする。
きらきらと煌めくようなその佇まい。
座っている私を見下ろす優しい眼差し。
それは、私の沈んだ心まで明るくさせるような、そんな姿だった。
そんな千聖君に見惚れていると、彼は「よお」と言いながら私の頬に当てた物を手
渡してきた。
「あ、これは…、ホットレモン……」
私が手渡された物を見てそう言うと、千聖君はふっと口角を上げた。
「向こうの自販機に売ってたんだ、懐かしいだろ?」
こ、これを…、私のために……?
そのホットレモンというのは、祥子ちゃんの記憶の中にある、祥子ちゃんにとって思い出深いもの。
祥子ちゃんが千聖君を意識し始めたきっかけとなったものだ。
それは私たちがまだ初等部だった頃の事だ。
その当時に名家同士の交流が盛んとなり、その一環として如月家と橘家の両家もこの頃から関係を密にするようになっていた。
そんな中で、交流会と称して年に一回、両家で一緒に旅行をする事が約束されたのだ。
その旅行で訪れた、とある温泉地。
子供たちだけで冬の温泉街を歩いている時の事。
雪国にあったその温泉地はとても寒く、温泉に入った後の体を冷やすのに十分な程だった。
冷えた体を暖めようと誰が言いだしたか分からないけど、とにかく近くにあった自動販売機の前に子供たちは集まった。
そこで祥子ちゃんは、何を買って良いか分からずに千聖君の買うのを見て同じホットレモンを買ったのだ。
こんな外で何かを買うのなんて初めてだったし、ホットレモンという物を飲むのも初めてだった祥子ちゃんは少しワクワクしていた。
だけど。
まだ子供だった祥子ちゃんは、口を付けた瞬間その酸っぱさに泣き出してしまったのだ。
酸っぱいのと驚いたのとで、ぽろぽろと涙を流す祥子ちゃん。
すると、それを見ていた千聖君が祥子ちゃんの持っていたホットレモンを黙って奪い取って、ごくりと一気に飲み干したのだ。
その時、初めて千聖君と言う男の子を意識するようになった。
それまで、単に無表情で無口という印象だった男の子。
それが何だか実は優しくて、何だか自分より随分と大人な気がして、そんな彼の事が気になり始めたのだ。
これは祥子ちゃんにとっての大事な思い出だったけど。
千聖君も憶えていたのか……。
「あ、ありがとうございます。……憶えてたのですね」
嬉しさが込み上げつつも、何とかそれを抑えながらお礼を言うと。
「はは、また泣き出したりしてな」
千聖君は揶揄うような笑みを浮かべてそう言った。
そんな顔も、他の人だったら腹を立てていたかもしれないけど、千聖君だったら可愛く見える。
不思議なもんだ…。
「では、その時はまた千聖君に飲んでもらいましょうかね、ふふふ」
「お、おう…」
お返しとばかりに揶揄うようにそう言うと、千聖君は照れたようにそっぽを向いてしまった。
おお…、可愛いぞ。
照れる千聖君、……良い!
「ふん、隣良いか? 座るぞ」
「あ、は、はい、どうぞ!」
揶揄われたのが癪だったのか、千聖君は少し不機嫌な声を出す。
そして私の隣に座るとすぐに自分の缶ジュースの蓋を開けた。
その、千聖君が自分の分として買った缶ジュースも、同じホットレモンだった。
「千聖君もそれにしたんですか?」
これだとあの時と同じだ、と喉まで出かかったけど結局その言葉は出なかった。
「ああ、ちょっとあの頃を思い出してな」
千聖君はそう言いながら、窓の外を見つめた。
千聖君も、同じことを考えてた…のかな?
……。
な、なんか、良い雰囲気のような気がするよ……?
同じ思い出を話したりって、シチュエーションとしては凄く良いんじゃない?
よ、よし、これを切っ掛けにもっと良い雰囲気に。
ああ、でも何喋っていいか分からない……、ど、どうしよう……。
つ、月が…、月が綺麗…とか? きゃー、そんなの言えないー!!
えーと、えーと…。
「ち、千聖君も眠れなかったのですか?」
うにゃぁ、色々考えてもこんな事しか思い付かないとは……!!
しかも、面と向かう事は出来ないので、横目でチラリと見ながらだし…。
「眠れないというか…、あ、そうだ、葉月の具合はどうだ?」
そしてここで汐莉さんの話…。
うう、今は汐莉さんの名前は聞きたくなかったよ……。
「え、ええ、噛まれた所も大した傷ではなかったようで、今はぐっすりとお休みなってますよ…」
検査の結果が出て、結局毒蛇の類では無かった事が分かって皆でほっと胸を撫で下ろした。
まあその後も元気に夕食をお替わりしてたので、さっきの心配を返せって皆で突っ込んだんだよね。
あの姿を見て、もう心配ないって皆で安心したのに……。
「そうか、それは良かったな」
辺りは薄暗いけど、千聖君の顔から笑みがこぼれたのは見えた。
「良かったですか?」
その千聖君の笑みに胸を締め付けられて。
「ん? 良くなかったのか?」
「……いえ」
少し嫌な訊き方をしてしまった。
「何だよ、何か言いたげだな」
「何でもありません」
何と言うか、ちょっと拗ねたい気持ちというやつだ。
まるで子供のようだけども、ちょっとは私の気持ちも考えてくれてもいいじゃないかというお願いみたいなものでもある。
だから私は、そんな願いを込めて少し頬を膨らませるのだ。
千聖君はそんな私を見て、やれやれと溜息を吐きながら。
「あー、で? お前の方はどうなんだ?」
取って付けたように私の事に話を変えてくる。
「……私、……ですか?」
ふん、今さら私を気にする振りしてもだめなんだからね。
私をそんなチョロインみたいな扱いにしないでよね。
「いやだから、体調の方はどうだって」
そんなね、私の体調とかね、気にする振りしちゃってもね……。
「……昨日の事でしたら、今はもうなんとも――」
「いや、そうじゃなくて…。今日は祥子にもかなり無理をさせてしまっただろ? 足が痛くなったりしてないかと思ってな」
そんな…、私の足を気遣ったりとか。
そ、そんな事で、誤魔化されたりしないん…だからね……。
「そ、そっちですか。そうですね、たぶん明日は筋肉痛が酷そうですね…」
「ああ、祥子は運動不足だからな」
むっ!
「これは、誰かさんのせいなんですからねっ。そこの所をちゃんと分かってますかっ?」
誰の為に無理をしたかをちょっとは考えてくださいっての。
もうちょっと私を労わるとかね、そういうのがね…、ほんとにもう!
「わ、悪かった…。ちょっと俺の言い方が悪かったな。祥子は体も弱いし普段から運動をしてないからな、心配してたんだよお前の事を」
え…?
心配?
わ、私の…事を?
そ、そんな事で…、えっと…、あれ? 何だっけ?
あれ、私は何で怒ってたんだっけ?
「……気にして、くれてたんですか? 私の事……」
「そんなの当たり前だろ」
あ、ああ、当たり前……!?
当たり前って、……言いました?
当たり前って、どういう事? 千聖君が私を心配するのは当たり前って事?
そ、そそ、それは、一体どういう意味なんでしょうか?
し、心配するのが、当たり前な間柄…という……ことでしょうか?
い、いいの? 勘違いしちゃうよ!?
「そ、それは、ありがとうございます。……むふ」
おっと、少し変な笑い方が出ちゃったよ。
いかんいかん、令嬢はむふとか言わないからね。
「……でも、不思議なんだよな」
「……何がでしょう?」
「あの時、何故だか分からないけど妙に一位を取らなきゃいけない気がしたんだよ。今から思えば何をそんなに固執してたのかまるで分からないんだが、あの時はそうしなきゃいけない気がしたというか……」
…………。
……そ、それって、私のせい?
誰かさんのせいとか言っちゃったけど、……私のせいじゃない?
あ、あれ?
やばい、なんか逆切れとかしちゃってたような……。
あ、あれー!?
「ふ、ふふ不思議です…わね。そんな事が、あるだなんて……」
「何どもってるんだよ?」
「べ、別にどもってなんて…!」
思えば、これもこの物語の力なんだよね…。
こうやって無理やりにでも話を大筋からは外れないようにしてくるんだよ。
千聖君がやってきて舞い上がっていたけど、一気に今の現実に引き戻された。
どうやら私はこの物語の力をまだまだ甘く見ていたのかもしれない。
こんな風に操られるように人が動かされるのだとしたら、千聖君が私に良い感情を持ってもそれも動かされてしまう。
それじゃ…、出来る事が何も無くなってしまう。
何も変えられなくなってしまう……。
このまま、やっぱり変える事なんて出来ないんだとしたら、私はどうしたら良いんだろう……。
再び私の目の前を深い闇が覆い、気分が沈んでいく。
「急に静かになって、どうした?」
「い、いえ、何でも……」
千聖君は口ごもる私を見ながら「それで」と言葉を続けた。
「祥子は、ここで何してたんだ?」
「…………」
「どうした?」
「……月を、眺めていました」
「…月? ああ、今日は綺麗な満月だな」
私の言葉を聞いた千聖君は夜空を見上げてそう言った。
いつもなら、凄くドキッとする言葉だったと思う。
だけど、私の心の中にある不安がそうはさせてはくれなかった。
「月って、大きくて綺麗で……、夜空を見上げてまず目に入るのが月なんですよ」
「まあ、そうだな…」
「月を見て、月の物語なんかを考えて、お団子とか食べたりして。そうやって月を見ていると、まるで他に星は無いみたいじゃないですか?」
「……そういう風に夜空を見上げる事が多いかもな。……これは、何の話をしているんだ?」
「千聖君が訊いたんじゃないですか、何をしてたかって。月を見ながら考えていた事ですよ。月は物語の主人公みたいで、他の星たちは主人公を盛り上げる脇役たちで、星が一つ無くなっても普通の人は気付かないんだろなって、……そんな事を考えていたりしたわけです」
自分もその星の一つかもしれない、そう考えると目頭が熱くなった。
「なるほど……」
「変ですか? 私がこんな事を考えたら」
私がそう訊くと、千聖君は月を見上げながら少し沈黙した。
私がそれに、どうしたのと訊ねようとすると。
「……『月をこそ眺めなれしか星の夜の深きあはれを今宵知りぬる』っていう歌があるのを知ってるか?」
一つの和歌を、千聖君は詠みあげた。
「なんですか、それ?」
「建礼門院右京大夫っていう平安時代の歌人が詠った歌だよ」
「……ごめんなさい。勉強不足でよく知らないのですけど、それはどういう意味の歌なんですか?」
「いや、こんなの知ってたからって別にどうって事はないんだけど……。右京大夫は壇ノ浦の戦いで恋人を失ったんだが、ずっとその失意の中にいた右京大夫がふと夜空を見上げた時に、初めてその星々の美しさに気が付いたという歌なんだ。大切なものを失って初めて気付かされた物悲しくもある歌なんだけどな」
千聖君は饒舌にその歌の意味を話してくれた。
「凄く情緒のある歌ですね……。では、星が消えたとしても、その方のように気付いてくれる人がいると……?」
そんな彼に私がそう訊き返すと。
「それもあるだろうけど、この歌には凄い所があってな。この歌が切っ掛けとなって、それ以降に星を詠む歌が多くなったんだ。つまり、それまで月を愛でる事が多かった人々の目を他の星たちに向けさせたっていう事だよ」
千聖君は生き生きとした目をこちらに向けてそう話してくれた。
「それは…、凄いですね。でも、それが――」
「つまり何が言いたいかというと、主人公なんてのは見る人によって変わるんじゃないかって事だ。歌を一つ詠むくらいで人の目が変わるんだからな、主人公が誰かなんて見る人や読む人次第って感じがするだろ?」
読む人、次第……?
その言葉が私の頭の中で何度も繰り返される。
その千聖君の言葉はまるで魔法みたいで。
真っ暗に感じていた私の目の前に、ほんの少しの光のようなものが照らされた気がした。
「そうですね。確かに、そんな気がします」
さっきまで深い闇の中にいるようだった私の心が、一気に軽くなった。
そうか、こうやって見上げるだけで、別に月を見る必要は無くて、どの星を見たって良くて…。
そんな中に私の星があっても良くて。
その事を千聖君が教えてくれて……。
何より千聖君にそう言われたのが嬉しくて仕方なかった。
まだ、どうすればいいのかなんて分からない闇の中だけど。
少しだけ希望のようなものが見えた気がした。
「はは、ようやく顔が明るくなったな」
そう言って千聖君はその顔を綻ばせた。
その千聖君の顔に、私の心臓がきゅっとなる。
「お、おかげ様で……」
「さっきまで暗い顔してたからな、お前はこっちのほうが良いよ」
千聖君はそう言って、私の頬を軽く指で触れてきた。
胸が、高鳴る…。
なんだ、これ…!?
きっと顔も真っ赤だろう。
これはまずい……。
とてもお見せできる顔ではないくらいに、今の私は参ってしまっている。
こんなにも心が絞めつけられるのは、今まで感じた事が無い。
切なくて、苦しくて、恥ずかしくて。
でも心地が良くて…。
この気持ちはあれだ……。
「千聖君、……ありがとうございます」
私は震える声を抑えながら千聖君にお礼を言った。
どうしても言いたくなって、何とかその言葉を絞り出した。
「何だよ改まって」
「な、何となくです…」
月明りの差す中に、千聖君の笑顔が見える。
まるで月の光がきらきらと反射するように、その笑顔は輝いていた。
思えば転生した当初はこんな笑顔を見せなかった。
原作の中でも、祥子ちゃんにこんな表情を見せているシーンは無い。
ここはお話の世界で、そのシナリオは変えられないものなのかもしれないけど。
私のしている事は無駄な事なのかもしれないけど……。
それでも、変えられた事もあるみたいだ。
「千聖君……」
格好良くて、頭が良くて、何でもできて…。
「あのね…」
無口で、不愛想で、不器用だけど…。
「何だ……?」
実は凄く優しくて思いやりのある人。
そんな千聖君が……。
「……何でもないです」
いつもお読みいただきありがとうございます(/・ω・)/
今回で二章的なものが終わりです。いかがだったでしょうか?
次回からはゆっくり更新にしようかと思っていますが、評価いっぱい頂けましたら早くなるかもしれません。(/ω・\)チラッ
ではまた次回にお会いいたしましょう




