16、妄想少女は夢見心地
「おはようございます」
千聖君の車に乗り込んだ私は、いつものように朝の挨拶をする。
「おお」
それに千聖君はぶっきら棒に返事をする。
もうお馴染みとなった光景だけど、私たちの一日はこの遣り取りから始まるのだ。
千聖君は普段から無口なので、会話といってもぽつりぽつりと言葉を交わすだけ。
車内は静まり返っているけども、私はこの一時を割と気に入っている。
物憂げな表情で窓の向こうを見つめる千聖君の横顔。
その横顔を、ちらりと横目で覗き見る。
たったそれだけで、まるで空気に溶けてしまったように心も体もふわふわとしてしまうのだ。
単純かもしれないけど、私はこれだけで一日が幸せになれるのだ。
そんな幸せな一日の始まりだけども、今日の私は少し違う。
昨日の昼食時での一件。
みんなでバーガーショップに行くという約束をした事だけども。
あの時の千聖君の雰囲気が少し変だったのが気になってしょうがないのだ……。
千聖君は本当は行きたくなかったけど、あそこで私が出過ぎたせいで断り切れなくなってしまったのではないか。
この出しゃばり女め、なんてことを思ってるんじゃないか……。
あれ以来、その事が頭の中をぐるぐるとしている。
そんな訳で、その真意を確かめないといけない。
ここはもう本人に確かめてみないと何もわからない。
この先に進むためにもこれは乗り越えなくてはいけない壁なのだと。
そう、ピンチはチャンスだと!
チャンスはピンチだと!
いつまで経ってもピンチが巡ってくるじゃない、と。
そういう結論に、四時間部屋に引き籠った末に行きついたわけである。
ちらりと隣を見ると、いつものように物憂げな表情を浮かべる千聖君がいた。
……はう、素敵。
いや、違う違う。
目的を忘れちゃダメよ私!
「……千聖君、……えと、……ご機嫌は、如何ですか?」
もじもじする自分の指を見つめながらそう訊くと。
「……何だそれ?」
う……、何か変な声が返ってきた。
確かにご機嫌いかがはおかしいか?
だからってどう切り出せばいいのか分からないんだけど……。
「どうした、また何か変なモードに入ってるのか?」
「へ、変なモードって何ですか。そんなモードはありません」
「そうか? 最近よくあるような気がするぞ……。最終的に号泣する感じのが」
「や、やめてくださいっ。そういうのはすぐに忘れるのがエチケットというものですよ! もうっ!」
顔を真っ赤にして頬を膨らませる私に、千聖君は「ははっ」と笑顔を返してくる。
ははっじゃないよ、まったくもう。
もう少し乙女の尊厳というものをですね……。
……あれ、機嫌は悪くないみたい?
「昨日の事で機嫌がよろしくないかなと思っただけですっ」
「……昨日の事? 何の話をしているんだ?」
千聖君は、首を傾げてそう訊き返してくる。
あら? 何その反応は?
ちょっと、私は昨日四時間も悩んだというのに、取り越し苦労とか言わないでよ?
「い、いえ、バーガーショップのお誘いを渋々受けていたようでしたので、何か気に障ったのじゃないかと……」
「あー、……」
あ、何か思い出してる!
単に忘れてただけだったの?
ひょっとして私、また余計な事言って蒸し返してしまった?
「や、やっぱり私が何か……」
「というか、お前は大丈夫なのか? そんな所に行っても」
「えっ、私ですか? ……何がでしょう? 特に問題は……」
何の事か分からない様子の私を見て、千聖君は溜息混じりに話を続ける。
「そんな所に行って身体は大丈夫なのかって事だよ。無理するとまた寝込む事にならないか?」
……なるほど。
それであの時、私の方をちらりと見たのか。
実は祥子ちゃんは身体があまり丈夫ではない。
特に胃腸が弱いために、昼食はいつも軽くしか食べられないのだ。
まあでも、食事の量さえ気を付けていれば日常生活には何の支障も無いので、私自身は特に気にはしていなかった。
でも千聖君は……。
「……心配を、してくれていたのですか?」
自分で口にしておいて、その言葉に胸が張り裂けそうになった。
思いもしなかった事に、心臓がとくんと高く鳴り。
全身が震えるくらいに、体中を締め付けてくるのだ。
私はそれを何とか抑えようと、手をぎゅっと握って必死に堪えた。
「ああ、……、そりゃ、まあな」
少し照れた様子で、千聖君はそう答えた。
…………。
…………。
……千聖君は私の身体の心配をしてくれていたのだ。
私は、なんというバカな勘違いをしていたのか。
せっかく心配してれていたというのに、全く気付きもしなかった。
何だか自分のバカさ加減に、嫌気がさして。
千聖君にも、申し訳ない気持ちが強くなってくる。
申し訳なくて、嫌気がして、落ち込む気持ちがあるのだけど。
それ以上に……。
やっぱり自分を気に掛けてくれた事が、もの凄く嬉しい。
むちゃくちゃ嬉しい。
こんなに嬉しい事なんて他には無いくらい嬉しい!
少なくとも、部屋に引き籠ってただけの前世の私にはこんな嬉しい事は無かった!
とにかく、何だか少しだけなのかもしれないけども、千聖君の気持ちがこちらに向いたような、そんな気がするのだ。
いつも無口で、いまいち何考えてるか分からないけど、やっぱり原作の通り千聖君はとても優しい人だ。
その優しさが少しだけ私に向けられた……。
……。
これはもう付き合ってるんじゃないかしら?
やっぱり男女の仲っていうのは、こう気持ちが向き合って成立するわけよね。
だったら、今度は私が千聖君に優しくするとカップル成立? みたいな?
あらやだ、私たちもう秒読み段階じゃない!
えっ、ちょっと待って、でも私たち婚約者なわけよね?
この場合はどうなるの? もっと別のものになるの? 婚約者を超えた婚約者、スーパー婚約者、的な?
よーし、とことん行ってやろうじゃないの、その婚約者の向こう側ってやつに!
うふふ。
うふふふ。
うふふふふふふ。
「どうした、祥子?」
ぬはぁっ!!
「な、何でもありませんわっ!」
いけない、いけない、また妄想の世界にトリップしてしまってた。
確か反省してたはずなのに、途中から何かおかしな方向にいってたような。
やばい、私の妄想なのに自由が利かなくなっている気がする……。
「な、何をそんなに驚いてるんだ? いや、それよりもお腹の方は大丈夫なのかよ?」
「心配してくれて有難うございます。でも大丈夫ですよ、その日は朝食を控えて調節しますので」
「そか……」
心配なさそうな事が分かったのか、千聖君からそれ以上の追究はなかった。
私の心配も千聖君の心配も無くなったところで、私は攻勢に出る事にする。
なんせ、そのために今日はある物を用意してきたのだからね。
「それよりも、皆さんでお出掛けって楽しみじゃないですか? 私、昨日家で色々調べてきたんですよ――」
そう言って、私は自分の鞄へと手を伸ばす。
昨日、四時間引き籠った後、これをチャンスに換えるのだと思い立った私は、お兄様の部屋のパソコンでバーガーショップに関してリサーチをしてきたのだ。
それをプリントアウトして今日持ってきたのだよ。
「――これを見てください」
そう言いながら、茶褐色の高級感溢れるクリアファイルを取り出し、それを千聖君に手渡した。
「なんか、大袈裟なものが出てきたな……」
「い、家にこれしか無かったので……」
私が手渡したのは重要書類なんかが入ってそうなクリアファイル。
私としては、一つ100円くらいのプラスチック製のやつで良かったんだけど、如月家にそんな安物は存在しなかった。
千聖君はその高級クリアファイルを開き、中のファイルに目を通していく。
「へぇ、纏めて資料にしたのか。……というか、バーガーショップって結構あるんだな」
「でしょっ、私も調べてて吃驚したんです。それでですね、資料の前半はファストフード店で、後半はバーガー専門のカフェとかレストランなんかを集めてるんですよ」
私は説明をするために、千聖君の方に身を乗り出した。
資料はこれ一つだけなので千聖君の座る位置まで近寄っていき、指でこの店がどうとか説明するのだ。
はい、わざとです!
わざと資料は一つしか用意しませんでした!
だって、その方がこうやって二人で一緒に見られるからね。てへっ。
そんな事よりも、何よこれ、超楽しいんだけどっ!
超ワクワクするし、合法的に超接近できるし!
デートのプランを二人で考えてるみたいで、もう超興奮が止まらないんですけど!!
はふ~~~。
「ちょっと待て、ファストフードって何だ?」
……え?
そこからなの……?
これ程の上流階級になると、まさかそんな言葉自体を知らないというの?
それは予想外だったわね……。
ファストフード、……えーと、何だっけ?
改めて何だって言われると、何と説明したものか……。
「ファ、ファストフードですか? えーと、ファストフードは、……手軽な食べ物? というか、……注文してからパッと出てくるというか。……そ、そう、速いのファストですよ。美味しい、安い、速い、の三拍子がファストフードです」
多分、そんな意味だと思う。
間違ってたらごめんね……。
「速いのファスト? ふーん、そんなに速く出てくるのか?」
千聖君はパラパラと資料を捲りながらそう訊いてくる。
「た、多分……。場合によっては、注文をしてる最中にはもう出てくるのではないかと」
「いや、そんな訳ないだろ。お前、俺を騙そうとしてないか?」
「し、してませんよっ!」
心外な……。そんないたずらっ子じゃないですよっ。
まあ、ファストフード自体を知らないなら信じられないかもしれないな……。
「いまいち想像がつかないな……。どういう事だ、どんな調理の仕方をしたらそんなに早く出てくるんだ?」
「ある程度は作り置きしておいて、注文を受けたら焼くだけとか、そういう事だと思いますよ。……多分」
私の説明に、千聖君は「ふむ」と頷いている。
「……というか、やけに詳しいけど祥子は行った事あるのか?」
「えっ!? えと、お、お兄様に、教わりまして……。もちろん行った事は無いです」
さすがに前世の記憶とは言えないよね。
もうちょっと気を付けてないと、ボロが出そう……。
正体がバレたりしたら、悪役令嬢ならぬ偽物令嬢なんて呼ばれたりして。
私のそんな心配を余所に、千聖君は顎に手を当てて考え込んでいる。
「うーむ、注文受けてすぐ出てくるってことは、シェフがウェイターのすぐ横にいるのか? いや、それとも各テーブルにマイクがついてて厨房に聞こえるようになってるとか……」
「ウェイターなんていませんよ、お店に入ったらレジで注文するんです。そこで商品を受け取って自分で席まで持っていくシステムなのです」
「おい、増々分からなくなってきたぞ。なんだそれ、自分でウェイターをやるのか? それは客と言えるのか?」
「え、ええと……。さあ、どうなんでしょう? でも、ファストフード店ってそういうものかと……」
そんな事言われても……。
そういうお店だとしか言いようがないよね。
「そういうものなのか……」
またも考え込む千聖君。
その千聖君を、今までよりも近い距離でその横顔を眺めている。
それは、いつもの何でも出来るクールな顔とは違って、少し困ったような顔だった。
なんというか、こういう千聖君も可愛くて良い……。
はふっ。
「よし、行くのやめるか」
ちょっ!!
「だ、ダメですよっ。もう皆と約束しちゃったんですからっ!」
急に何を言い出すのこの人は!?
せっかく、こんな資料まで用意したのに無駄になるじゃない。
「やっぱダメか……。それにしても、こんな未知の世界だとは思わなかったな」
「いいじゃないですか、知らない所にいくのも楽しいものですよ?」
何とか笑顔でその気になってくれないかと、私はニコリと笑ってそう言った。
「それは良いんだが、怜史に笑われそうで嫌なんだよなぁ」
「そこですよっ。私がこうして予習をしてきた理由は、そこにあるのです! 恐らく神楽様は、私たちの右も左も分からない姿を見てほくそ笑むつもりでしょう。ですが、こうして事前に知識を入れておけば、当日は慣れた感じを見せてあの二人の鼻を明かしてやることができるのですよ!」
「お、おう……」
思わず力説してしまったけど、千聖君の反応はいまいちだった。
なんでよっ! もうちょっと食いついてきてもいいじゃない!
私なりに頑張ってるのにっ。
「も、もっと、やる気を出してくださいよ。そんな事ではあの二人に笑われてしまいますよ」
「あ、ああ、そうだな……。いや、お前のやる気に少し驚いてただけだ。じゃあ、とりあえずこの資料を一通り目を通すか」
そう言って千聖君は私が用意した資料を真剣に読み始めた。
私はその読んでいる資料を横から覗き込もうと、さらに千聖君の側へ近寄っていく。
――その時である。
「きゃっ!」
車が交差点を曲がった事により、車体が大きく揺れて私はバランスを崩してしまった。
ちょうど千聖君の方に体を寄せていた私は、勢いに抗う事もできずに千聖君へと倒れこんでしまう。
そして、千聖君の肩にポスっと自分の頬を埋めたのだ。
はっ……、はわっ……、はわわわぁぁぁぁ……。
肩に、肩に、肩に、肩にーーー!!
こここここれは、肩に頭を預ける恋人スタイルじゃないですかっ!!
いいの!? いいの!? いいの、こんな事して!? 後で料金とか発生しない!?
いや、別に発生してもいいか。むしろ、いくら払えばこのサービスを続けられるか教えて!!
はぁぁぁ、千聖君の匂いが~~。
はうぅぅ……。
…………。
……しかし。
……このまま、千聖君の匂いを堪能したいところでは……あるけども。
これはあくまでも、偶然の産物に過ぎないのだ。
なので、いつまでもこのままの態勢ではいられない……。
口惜しい! 物凄く口惜しいけども!
この千聖君の肩から、そろそろ離れないと……いけないっ!
「……ご、ごめんなさい」
私は後ろ髪を引かれる思いで千聖君から離れる……。
ああ、ここで離れてしまったら、今度はいつその肩に触れられるのか。
いつまた、その温もりを感じられるのか……。
いつかきっと、そこにまた帰ってくるから。
その日が来るまで、誰もそこに触れさせないでね。
私以外は触れちゃダメなんだからね……。
なんてバカな事を考えながら、居住まいを正している時だった。
「祥子、この店は他と――」
千聖君が私に資料を見せるため、こちらに身を寄せてきたのである。
はぅっ!!
ち、千聖君の方から……!!
ち、近いっ! 近いよっ!!
体が触れ合ってますよっ!!
だ、だだだ大丈夫? 私、変な匂いとかしてない!? 大丈夫!? 大丈夫だよね!?
くふぅぅぅぅ……。
それにしても、さっきよりも破壊力が凄いような気がするのだ。
興奮の度合いが、これまでに経験した事も無い程だ。
それは多分、千聖君の方から近寄ってきてくれたからなんだろう。
やっぱり、偶然に頬が触れるのとは違うものがある。
だってこれは、千聖君のほうから詰めてきた距離なのだから。
千聖君の体温を、息遣いを、心地の良い香りを、その全てを感じられる距離。
その近すぎる距離の中で、私の五感が総動員して彼の存在を感じている。
私の肩と腕、千聖君が触れている部分がまるで熱を持ったように火照ってくる。
私の感覚は千聖君を感じる為にあるかのように、他のものを排除していくのだ。
心臓の音が喧しいくらいに早鐘を打って私の耳を塞いでしまい、目はグルグルと回って視界を奪っていく。
さらには、呼吸もできないくらいに息苦しくなって……。
とても苦しい。
こんなにも苦しいのに、何故なんだろう。
心地好くて温かくて……とても幸せなのだ。
幸せ過ぎて、意識も体も蕩けそう……。
こういうのを夢見心地というのだろうか。
もうこのまま、召されても後悔はない……。
ああ、もう目の前が真っ白に……。
「おい祥子、聞いて……。祥子? どうした、真っ赤な顔して!?」
ああ、なんだか遠くのほうで千聖君が呼んでいるような……。
「は、……はひ?」
千聖くーん、呼んだー?
「大丈夫か!? 祥子! 祥子!?」
「はひ~~?」
いつもお読みいただき有難うございます(b´∀`)
どんどん書くペースが落ちているような気がしますが、頑張って書いてます……。
次はもっと早く投稿できるといいなぁ……( ゜д゜ )
では、また次回お会いしましょう!