俺の幼馴染の母性が強過ぎる
「恭ちゃん、もう朝よ。そろそろ起きなさい」
「ゲッ、柚葉。いつも言ってんだろ! 勝手にひとの部屋に入ってくんじゃねーよ!」
「そう言う台詞は一人でちゃんと起きられるようになってから言いなさい。もう、お母さん情けないわ」
「……これもいつも言ってるが、お前は俺の母親じゃないだろ」
「いいえ、私は恭ちゃんのお母さんよ。誰が何と言おうとね」
「……」
「さ、早く朝ご飯食べないと学校遅刻するわよ。起きて顔洗ってらっしゃい」
「……ハァ」
俺は大きな溜め息を零しながら、のそのそと起きて洗面所に向かった。
そして諸々の支度を終え台所に行くと、既に親父は朝飯を食べ始めていた。
「おお恭介、お前また柚葉ちゃんに起こしてもらったんだってな? どうせ昨日も遅くまでゲームでもやってたんだろ」
「うるせーな。俺の勝手だろうが」
吞気に味噌汁を啜っている親父に若干イラッとしながら、俺はテーブルに着いた。
「はい恭ちゃん。テストも近いんだから、あんまりゲームばっかやってちゃダメよ」
「……」
そんな俺に小言を言いながら、柚葉が俺の前に朝飯を並べていく。
今朝のメニューは焼き鮭と大根の味噌汁、それにほうれん草のお浸しにご飯といったものだった。
いつもながら、実にそつのない朝食だ。
俺など、包丁さえまともに握ったことがないというのに。
「ん? どうかした恭ちゃん?」
柚葉が俺の顔を覗き込んできた。
「……いや、別になんでもねーよ」
「そ。じゃ、早く食べちゃいましょ」
「いやあ、柚葉ちゃんの作るご飯はいつも美味しくて、今日も一日仕事頑張ろうって気になるよ」
「うふふ、それはよかったです」
「……」
親父と柚葉の会話を聞きながら、俺は胸に詰まったしこりを流し込むように、大根の味噌汁を一口飲んだ。
柚葉がこうなってしまったのは、今から四年程前のことだ。
当時俺は中学校に上がって間もない頃だったが、そんな俺を一つの悲劇が襲った。
元々身体が弱かった俺の母親が、病気で他界してしまったのだ。
まだ身体も心も未熟だった当時の俺は、そのことが受け入れられず、寝ても覚めても常に真っ暗な闇の中にいるみたいで、完全に生きる希望を見失ってしまっていた。
そんな俺を見兼ねたのか、隣の家に住んでいる同い年で幼馴染の柚葉が、ある日俺の家に押しかけてきて、
「今日から私が恭介の――いや恭ちゃんのお母さんになる!」
と言い放ったのだった。
子供の頃の柚葉はどちらかと言うと男勝りでぶっきら棒な性格をしており、俺のことも『恭介』と呼び捨てにしていたのだが、その日以来、俺の母親が呼んでいたのと同じ、『恭ちゃん』と呼ぶようになった。
それからの柚葉は、まるで何かに取り憑かれたかのように、俺の母親役を演じ続けた。
元々家事は苦手だったのに、料理も独学で勉強して、今ではプロ並みの腕前になった。
掃除も洗濯も、そつなくこなすようになった。
とはいえ、流石にうちの親父も最初から余所様の娘を、まるで家政婦代わりに家に入れることに対して難色を示さなかった訳ではない。
だが、柚葉の両親の、そして何より柚葉本人の達ての希望で、最終的には親父から柚葉に毎月家政婦代を支払うということを条件に、柚葉を受け入れた。
柚葉は最初家政婦代すら受け取りを拒否したそうだが、それだけは親父は譲らなかった。
こうして柚葉は俺の母親として、おはようからおやすみまで、一日も欠かさず俺の面倒を見るようになったのだった。
何故柚葉がそんな一銭の得にもならないこと(結果的に家政婦代は貰えるようになったものの)を進んでやろうと思ったのかは未だに永遠の謎だが、同い年の母親がいるという状況は、正直言って思春期の男子にとっては恥ずかしいことこの上なかった。
柚葉は学校にいる時でも容赦なく母親面をしてくるので、俺は学校ではすっかりマザコンというレッテルを貼られてしまっていた。
いや、柚葉は俺の幼馴染であって、母親じゃねーんだけど!?
「ハァ……」
登校して自分の席に着くなり、再度俺は大きな溜め息を吐いた。
すると――
「おっ、マザコンの恭介君、今日も悲劇の主人公ぶった鼻につく溜め息ご馳走様でーす」
俺の悪友の武志が、ニヤニヤした薄ら笑いを浮かべながら俺をからかってきた。
「……うっせーぞ武志。お前なんかに俺の気持ちがわかるかよ」
「ああわからないね! 柚葉ちゃんみたいな可愛くてオッパイが大きい母性溢れる幼馴染にママになってもらってる、ラノベ主人公もビックリの役得野郎の気持ちなんて、俺みたいな彼女いない歴イコール年齢の童貞には一生かかってもわからないね!!」
武志は目を血走らせながらまくし立てた。
子供の頃から一緒にいる俺にはわからないが、どうやら周りから見たら柚葉は相当可愛いらしい。
そして確かに胸は高校生とは思えない程デカい。
あれでも俺の母親になる前はツルペタの直滑降だったのだが、母親になった途端見る見るうちに肥大化していき、今ではどこに出しても恥ずかしくない、ヒマラヤ山脈を形成するまでに至った。
母性に目覚めたことで女性ホルモンが分泌され、豊胸効果が得られたとでもいうのだろうか?
……そんなバカな。
「……俺だって彼女いない歴イコール年齢の童貞だぞ」
「お前には柚葉ちゃんがいるだろうが!! 喧嘩売ってんのか!?」
「……朝から元気だなお前は」
「お陰様でなッ!!」
「あらあら武志君、またうちの恭ちゃんをイジメてるの? お母さんは許しませんよ」
自称俺のお母さんこと柚葉が、俺と武志の間に割って入ってきた。
幸か不幸か、俺と柚葉は中学高校通して、毎回同じクラスになっている。
「いやいや違うんだよ柚葉ちゃん。俺は恭介がどんだけ恵まれた立場にいるかわかってないみたいだから言い聞かせてたんだよ。柚葉ちゃんみたいな、最高に可愛いママがいるんだからさ」
「あらあら嬉しいこと言ってくれるわね武志君。――でもいいの。恭ちゃんくらいの歳の男の子だったら、母親が煩わしく感じるのが普通でしょうし、その点は諦めてるから」
お前は俺と同い年だろ。
……ハァ、いつまで続くんだろうか、この茶番は。
「あ、恭ちゃん、今日はお母さんちょっと用事あるから、先に帰ってて」
「え?……ああ、うん」
放課後。
いつもは付いてくるなと言っても聞かずに俺と一緒に帰ろうとする柚葉が、今日に限って何故か一人でどこかに行ってしまった。
……どうしちまったんだ柚葉のやつ。
「ああー、ついに来ちまったかこの日が」
「武志!?」
俺と柚葉の遣り取りを陰から覗いていたらしい武志が、俺の肩をポンと叩きながら言った。
「……どういう意味だよ」
「わかんねーのかよマザコ――間違えた恭介」
「殴るぞ」
「――これだよ、これ」
「え?」
武志は親指をクイクイと上げた。
なっ!?
「そ、そんな……、柚葉に彼氏ができたってのか……!?」
自分で言っておきながら、俺はその言葉を聞いた瞬間、何故か鉛を飲み込んだみたいに胸が重くなった。
「バカな……、あいつに限ってそんな……」
「いやいや、何言ってんだよお前。言っとくけど柚葉ちゃんはうちの学校でも男子人気は一二を争うんだぜ? 可愛いしオッパイは大きいし、何より母性に溢れてるしな! 男は皆、心の底では柚葉ちゃんみたいな子にママになってもらいたいと願っているのさ!」
「そ、そんな……」
今まではいつも一緒にいるのが当たり前になっていたから、柚葉が他の男と付き合うなんてことは考えもしなかった。
でも、冷静になってみれば、俺は柚葉の息子であって彼氏じゃないんだから、柚葉が他の男と付き合うことを止める権利なんかねーんだよな……。
「……クソッ」
だが何故だ?
何故俺の胸はこんなにも苦しいんだ?
自分でも自分の感情が理解できず、俺は乱暴にバッグを掴むと、眉間に皺を寄せながら教室をあとにした。
「精々頑張れよ」
俺の背中に向けて放った武志の言葉が、俺を一層苛立たせた。
ところが、俺が校舎から出た直後、前の方を柚葉が一人で歩いているのが目に入った。
しかし、柚葉は校門とは反対方向に歩いていく。
どこに向かってるんだあいつ?
いや、あいつがどこに行こうが俺には関係ない。
さっさと帰ってゲームでもやろう。
――だが、気が付いたらいつの間にか、俺はコッソリと柚葉の後をつけていた。
何をやってるんだ俺は!?
これじゃ俺が柚葉のことを気にしてるみてーじゃねーか!?
俺にとって柚葉は、いつも母親面してくるウザい幼馴染でしかねーのに!
……でも、柚葉のやつどこに向かってるんだこれ?
柚葉は校舎をぐるっと周り、行き着いた先は人気のない旧校舎裏だった。
こんなところに何の用事があるってんだ?
「やあ柚葉ちゃん、よく来てくれたね」
「お待たせしてすいません、江口先輩」
っ!!
そこで柚葉を待っていた人物を見て、俺は絶句した。
それは我が校一番のイケメンでファンクラブまで存在している、サッカー部のエースの江口先輩だったのだ。
何故柚葉が江口先輩とこんな人気のないところで……!?
「それで? 僕の告白の返事は聞かせてもらえるのかな?」
「……はい」
告白ッ!?!?
あの江口先輩が柚葉に告白ッ!?!?
モデル事務所からスカウトが来ているという噂まであるあの江口先輩に、柚葉が告白されたってのか……!?
……そんな、そんなバカな。
「もちろん返事はイエスだよね?」
キランという擬音が聞こえそうな程、眩しいスマイルを江口先輩は柚葉に向けた。
あんなイケメンにあんな笑顔を向けられたら、どんな女でも秒殺だろう……。
俺は何故かいたたまれなくなって、今にもこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
「……ごめんなさい」
「え?」
え?
が、柚葉の返事は、俺の予想と180度真逆のものだった。
「私は恭ちゃんの母親として、恭ちゃんが立派な社会人として独り立ちするまでは、ずっと側で恭ちゃんを支えるって決めてるんです。――ですから、先輩の告白はお受けできません。本当にごめんなさい」
柚葉は深々と江口先輩に頭を下げた。
……柚葉。
「そ、そんなッ!?」
まさかフラれるとは露程も思っていなかったであろう江口先輩は、露骨に狼狽えた。
「待ってくれよ柚葉ちゃん! そんなの納得できないよ! 恭ちゃんっていうのは柚葉ちゃんがいつも一緒にいる、あの冴えない男のことだよね!?」
悪かったな冴えなくて。
「恭ちゃんは冴えなくなんてありません。ああ見えて少女漫画を読んで感動して泣いちゃうくらい、心の優しい子なんです」
オイ!!
勝手にひとの恥ずかしいプライベートを暴露すんな!!
「くっ!……でも、あいつと付き合ってる訳じゃないんでしょ!?」
「ええ、私は恭ちゃんの母親ですから」
「だったら! 別に柚葉ちゃんが俺と付き合ったって構わないじゃないか! それともなにかい!? 君は女子高生という人生で一番華やかで貴重な時間を、母親役なんてもので無駄にしようってのかい!?」
――!!
「無駄なんかじゃありません。男の子には、母親が必要なものなんです。それとも江口先輩は、お母さんがいらっしゃらないんですか?」
っ!
柚葉……。
「い、いや……、いるけど……」
「ですよね。毎日お母さんにご飯を作ってもらって、部活で汚れたジャージを洗濯してもらって、お布団をフカフカに干してもらってるんですよね? 何よりどんなに辛いことがあっても、お母さんだけは先輩のお母さんとして、先輩を暖かく包み込んでくれてるんですよね?」
「……ぐっ」
「仮に今日突然お母さんがいらっしゃらなくなったら、明日から先輩は生活ができますか? お母さんがいなくて、人生という険しい旅路を歩いていくことができるんですか?」
「そ、それは……」
江口先輩は何か言いたそうだったが、結局は口を噤んだ。
「……わかったよ。今日は僕も引き下がろう。でももう一度ちゃんと考えてくれ。仮にあの男に母親が必要なんだとしても、それを君が背負う必要は微塵もないのだと」
……。
「申し訳ありません。何度言われても私の考えは変わりません。もう何度も考えた末のことですから」
「……くっ!」
江口先輩は苦虫を噛み潰したような顔をしながら、俺とは反対方向にガニ股で去っていった。
後には柚葉だけが残された。
俺の胸の中では、罪悪感やら、自己嫌悪やらの感情がないまぜになって、ドス黒い渦を巻いていた。
「さてと、帰って夕飯の支度しなくちゃ」
っ!?
マ、マズい!
柚葉がこっちに来た!
俺は慌ててその場から立ち去ろうとした。
――が、足元に落ちていたブーブークッションを踏んでしまい、辺りにブーという騒音を撒き散らしてしまった。
何故こんなところにブーブークッションが!?
「っ! 誰かそこにいるの!?」
っ!!
柚葉に気付かれた!
普通小説とかだと、ここは木の枝とかを踏んで気付かれるとこじゃないのか!?
……いや、今はそんなことはどうでもいい。
とにかくここを離れなくては。
俺は一も二もなく背を向けて、その場から走り去った。
「ハァ……」
家に帰ってきた俺は、自分の部屋のベッドで横になって、何もない天井を見上げていた。
どれくらいそうしていただろうか。
暫くすると、玄関の鍵を開けて誰かが家に入ってくる音がした。
柚葉も帰ってきたのだろう。
そのまま柚葉の足音は、真っ直ぐ俺の部屋に向かってきた。
「恭ちゃん、いる?」
コンコンというノックと共に、柚葉の声がドア越しに聞こえた。
俺は返事をしなかった。
「何だ、いるんじゃない。返事をしてよ。反抗期なの? お母さん悲しいわ」
部屋に入ってきた柚葉は、ベッドで横になっている俺を見下ろしてそう零した。
「……やめろよ」
「え?」
「もうやめろよ!! そんな母親ごっこなんか!!」
「っ!……恭ちゃん」
「何でなんだよ!? 何でお前が俺の母親をやってんだよッ!? お前は俺の幼馴染だろ! 俺の母親じゃねーだろうがよ!!」
「……」
こんな言い方をするつもりじゃなかった。
こんな言い方をするつもりじゃなかったのに、一度吐き出し始めた言葉は、堰を切ったように止まることはなかった。
「俺は一度だってお前に母親になってくれなんて頼んだか!? 頼んでねーよな!? それなのに何でお前が俺の母親なんだよ……! もうやめてくれよ……。これ以上俺のために自分の人生を犠牲にしないでくれ……」
「恭ちゃん……」
「本当だったらお前も今頃、彼氏とか作って人生を謳歌してるはずだったんだぞ……」
そうだ……。
柚葉だったら、江口先輩みたいなイケメンとだって付き合えるんだ。
「今からでも遅くない。俺なんかのことは放っておいて、お前はお前の人生を好きに生きろよ」
「……やっぱりさっきあの場にいたのは、恭ちゃんだったのね?」
「……」
俺は無言で布団を頭から被った。
我ながら何ともガキっぽいことをしているなと、顔から火が出そうだったが、今の俺には柚葉の顔をまともに見る勇気はなかった。
「……フゥ」
柚葉は小さな溜め息を一つだけ吐くと、無言で部屋から出ていった。
……これでいい。
これで柚葉のくだらない母親ごっこも終わりだ。
明日から柚葉は、普通の女子高生として、イケメンの彼氏と充実した高校生活を送ればいいんだ。
だが、それから20分程経った頃だった。
鼻孔をくすぐる甘い香りを漂わせながら、柚葉が俺の部屋に入ってきた。
「えっ!? 柚葉!?」
帰ったんじゃなかったのか!?
俺は慌てて起き上がった。
そして柚葉が手に持っているものを見て愕然とした。
――それはバターとメープルシロップがたっぷりかかった、何の変哲もないホットケーキだった。
「恭ちゃん、これ、覚えてる?」
「……」
忘れる訳もない。
これは――
「そう、これは恭ちゃんのお母さんが、恭ちゃんが子供の頃によく作ってくれたホットケーキよ。――私も恭ちゃんと一緒にご馳走になったっけ」
「……柚葉」
「はい、恭ちゃん」
柚葉はそのホットケーキを俺に手渡してきた。
ホットケーキはホカホカと温かい湯気を立ち上らせており、俺の心を優しく包んだ。
「恭ちゃんは勘違いしてるわ」
「……え?」
「お母さんは誰かに頼まれたから、恭ちゃんのお母さんをやってるんじゃないの。私が恭ちゃんのお母さんになりたいからやってるの。……これはお母さんの我儘なのよ」
「……」
「だからもう少しだけ、お母さんの我儘に付き合って。ね? お母さんのお願いよ」
「柚葉……」
聖母のような慈愛に満ちた顔を向けてくる柚葉に、それきり俺は何も言えなくなってしまった。
「さ、早く食べないとせっかく作ったホットケーキが冷めちゃうわよ。食べて食べて」
「……ああ、いただきます」
俺はナイフとフォークでホットケーキを一口大に切って、ゆっくりとそれを口に運んだ。
甘いはずのホットケーキは、涙が混じって、少しだけしょっぱかった。
おわり