官僚について
よく、財務省の責任について論じると「政治家が悪い~」とか「財務省はちょっと暗躍しているだけ~」みたいな認識の方がおられる。成程成程、政治家に責任がない訳でも、国民に責任がない訳でもないのは確かではある。しかし、こんなモノは詐欺師が「騙される奴が悪い」とのたまうのと何の違いも無い。こういう方は『伝統』という概念も、この国がアメリカでは無いという事もご存じないのだ。
この手の官僚擁護の典型的な言説が『省庁に政策を決める権限はない』である。
この手の言説を行う方の脳内では官僚組織は完全に中立的な存在であり、政治的な活動をしないという事になっておるのだろうな、という感じである。
少し歴史を振り返ってみれば、こんな権限云々が現実無視の認知不協和だと判る。王は、その権威も権限も貴族より上であり、貴族は王に従うモノである。じゃあ貴族は王に反乱などしなかったのか? 王は貴族のメンツを無視しても問題が無かったのか? 答えはNOだ。歴史は反乱まみれでどちらが王か判ったもので無い。
権限を持っている事とそれを行使できるかは関係が無いのである。それは現在の我が国でも大差が無い。官僚の人事政策において、法律よりも各省庁の「しきたり」や「伝統」の方が優越されているという現実がある。2014年に、内閣法が改正され各省庁の人事が内閣人事局に移行したが、まったく機能していない。2018年に財務事務次官の後任を選ばなければならなかったのだが、麻生太郎財務相が国際金融部門トップの浅川雅嗣財務官を次官に横滑りさせようとしたが、官僚たちの強い抵抗に遭い、最終的に主計局長だった岡本薫明氏が順当に昇格した。財務省の「主計局長が事務次官に昇格する」という伝統が優先された訳だ。戦後、主計局長から次官になれなかったのは、わずかな例外があるのみである。
政治家が官僚を選ぶわけでないし、ましてや国民が選ぶわけでもない。
じゃあ政策は? 閣僚が政策を決定して、それに官僚が従うんじゃないのか?
これも答えは、ほとんどNOである。
そもそも政策を決定する為の情報を誰から得ますか? 答えは各省庁である。
官僚の協力なしに政策立案など不可能だし、実施など出来ない。
官僚が少しずつサボタージュするだけで、政治家の足を引っ張る事が出来る。
そして国民に首を切られるのは政治家であって、官僚ではない。
こうした官僚機構の統治の重要性は、まったく認知されておらず軽視されている。
オスマントルコが何故滅び、アフリカの失敗国家が何故あんな悲惨な事になるか?
官僚組織の腐敗が最大の問題である。
もっとも我が国の場合、『腐敗』というのは誤りであるか。
元々財務省はそういう組織だからである。彼らの目的は『国民が豊かに暮らせる財政』ではない。財務省の存在意義は『健全な財政』なのである。法律にそうハッキリ書かれている。今この時において、彼らはその精神を過剰な迄に実践しているだけである。彼らにとっては高度経済成長期というのは苦渋と辛酸の時代だった訳だ。あの時代は健全な財政ではないから評価に値しないと彼らはハッキリと言っている。要するに、彼らにとっては国民がど貧困で苦渋と辛酸をなめている方が幸福だって事である。
そんな病的な思想の組織が、各省庁にたいして持つ影響力は絶大である。各省庁には財務省から派遣された人員がいて、そいつを通さない限り、絶対に閣僚に予算の説明などしてはならない。そんな失礼はあり得ないという事になっている。そういう出向官は各省庁どころか各都道府県にまで派遣されており、そのひとりのパワハラぶりが暴露されたのだが、その言動たるやすごいものである。そいつの部下にちゃんとお伺いを立てたにも関わらず、知事の要請で事業の説明をした職員に詰め寄ったのである。「財務省主計局の了解なしに首相官邸に説明にいくようなもん。そんな愚かなことをしたところは、予算は悲惨なことになる。どう落とし前をつけるんですか!」だそうだ。
お判りだろうか? 舌先三寸で各省庁の予算はどうとでもなると彼らは公言して憚らない訳だ。こうした各省庁への緊縮押し付けの調教は大変効果が出ており、彼らの提出する予算や事業計画は末期戦めいた悲惨な代物ばかりだ。
自衛隊でも装輪装甲車を戦車として運用するなど、素晴らし~お財布の事を考えた防衛計画を立てている。緊縮大好きで前線国家から後ろになったから防衛サボりまくりのドイツですら、とうの昔に退役したF4が現役とかいう有様。世界中のF4マニアが国が動態保存していると殺到しておる。F4が現役だなんて誰も信じない。そのぐらいF4という機体は骨董品なのである。そのF4をF35と入れ替える訳だが、財務省の素晴らし~コスト感覚ではコレを代替する為には自衛隊予算の別の何かを削らなければならないそうだ。足らぬ足らぬは工夫が足らぬ。太平洋戦争の反省はどこへやら? 狂った精神主義がこの国を覆っている。
そもそも、この財務省VS各省庁の戦いは必敗の構図が作られている。
なにせ責任は各省庁にあり、予算案を提示する為に苦労するのは各省庁だからだ。
財務省側は、彼らが持ってくる予算案を蹴るだけでよい。
これを繰り返していくと、各省庁も財務省様の御意向を理解するという訳だ。
完全にノミの実験のノミである。
だいたい、財務省という省庁は権力を持ち過ぎである。
政治家が財務省に対して、人事権も行政権限も事実上持ち合わせていないのに対し
財務省は、警察力に等しい、否それを圧倒する権力を持っている。
それは、『税務調査権』である。
国税庁は財務省の下部組織であり、そのポストは財務省のキャリアが占めている。
国税庁は、財務省に支配されず独立した省庁であるなどと謳うが、この体たらくで誰が信じる?
警察力は確かに強力な権力である。しかしそれゆえに乱用には厳しい目線がかけられるモノである。
同じぐらいの目が税務署に向けられているだろうか? 答えはNOだ。
邪魔くさい政治家やその周囲を徹底的に調査すれば、『疑い』程度のモノは出てくるだろう。
そうすりゃしめたモノ、マスコミに記事を書かせる。いつもの手である。
その典型のひとつが森友問題だ。
”官僚の忖度”やら政治家が官僚に口を出すから~といったシナリオを誰が考えたのか?
マスコミが記事を書く前に下書きがあったようにしか思えない。
なんにせよ、官僚が自爆特攻すれば、政治家などどうとでもなるという事実が明るみに出ただけではないか。そして、人事権すらまともに持ち合わせていない大臣に何が出来るのやら?
前述した2018年の事務次官の後任とは森友問題で更迭された福田淳一の後任の選抜である。
その場で選ばれたのが、森友文書問題で渦中にあった官房長を務めた岡本薫明である。
森友文書問題とは、政治家の責任では無く官僚の暴走である。野党による無茶苦茶な質問要求などの背景はあるにしろ、その責任は財務省が負うものも非常に大きいのである。その場面で”譲歩させられた”のは政治家の方であるというのが我が国の現実だ。マキャベリも言ったが、行使できない法律を施行する事ほど害悪なモノは無い。単に、権限は政治家にあるから~という言い訳に使われるだけの代物と化している。そして財務省は一切お咎め無しに好き放題し続けるという訳だ。