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貨幣論からみる、我が国の狂った経済観念が何処から来たのか?

貨幣にまつわる論は『金属主義』と『表券主義』の2種類に大別される。現実の貨幣運用はどう見ても『表券主義』に従っているが、金属主義とその亜流にどっぷりとハマっている人達が、ハイパーインフレが~とか度々口にしているのである。このエッセイでは、金属主義あるいは商品貨幣論の誤りを主として語る。


お金の価値の議論を見ていて思うのは、”子供銀行券では何も買えない”という事と”店に商品が無いから買えない”というのは別の問題であるはずだが、実にこれらを混同した議論が見られる。いや、ハッキリと言ってしまうとリフレ批判やMMT批判でハイパーインフレが~とか過度のインフレが~とかいう意味不明な言動のほぼ全てがそんな馬鹿さ加減のひど過ぎる誤りをしているのである。我が国の経済学がどれ程馬鹿らしいか、一言で言い表せる。世界で唯一、戦乱抜きで経済成長率マイナスという偉業を成しえたクソ学問である。



 貨幣について、経済学のテキストではそれがさも当然のように嘘で始まる。

その嘘とは、原始社会は『物々交換』だったが、便利な”交換手段の商品”が登場した、コレが貨幣であるとの説明である。実際の起源は後述するが、貨幣が商品だとすると、じゃあその”商品の価値をどう決めるか?”という問題が生じる。商品貨幣論の始まりでは、お金は金銀であり、お金自体に商品としての価値があるとした、これが金属主義である。しかし、金銀が希少だと言っても、別に皆が皆金属の塊が欲しい訳ではない。実は、この便利な商品説は全く説明として成立していないのである。そんな不完全な論説も紙幣が金と交換される頃までは、なんとなく支持されていた。


それすらも兌換紙幣の廃止とともに終わり、お金がお金のみで存在するようになると、商品貨幣論はお金の価値について、お金自体に価値は無く、『貨幣は市場にいる誰もが欲しがるから貨幣として流通している』などと言い出した。これは具体的なお金、つまりお金として、貝殻だの黄金だのを最初に欲しがったのは何故か? という事についてまったく説明できていない。これは完全に循環論法である。


この循環論法を現代経済に無理やり当てはめた結果、各国の通貨について、なんか知らんが中国で元がアメリカでドルが多く使われており、多く使われているから、それぞれの国で基軸通貨に設定されているなどと主張する事になった。つまりは中国でドルが、アメリカで円が基軸通貨となる事が、なんか知らんが起こりえると主張している訳だ。賢明な読者は、もう古典派経済学が抱える病巣が見えてきたのではないか?


 以前のエッセイでも書いたが、古典派は自分たちの『こうあってほしい』という物語を前提に、法則だのなんだのをでっち上げている。そして、彼らの物語の世界には、労働基準法やら環境破壊や独占など企業活動の制限なんて存在しない。それで世の中が成立すると本気で思っているのである。天体望遠鏡で物事を見ている古典派の人たちは、30年後だか100年後、最終的には、素晴らしい未来が待っているから問題ないなどと言っている。この手の主張は、方向性が逆なだけでハイパーインフレを連呼する人たちにも共通している言動である。完全に詭弁だ。我が国にはびこる経済学というのは、そういうど~しようもない代物なのである。


だいたい、このなんか知らんがハイパーインフレになる論は根本的に論理破綻している。なぜなら、この説の通りにハイパーインフレになると仮定するなら、そもそもハイパーインフレを観測する事など不可能だからだ。


少し考えてみよう。山積みの札束でパン一個しか買えないのなら、誰がそんな苦労をしたがるだろうか? そして、誰がそんな紙屑を受け取りたがる? 自国通貨の選択が市場原理で決まり、市場が賢明な調節機能を持っているなら、そんな”不良商品”は早晩破棄されるだろう。こんな商品の引き受け先は古紙再生業者以外にあり得ない。よって賢明なる市井の人たちは、ハイパーインフレになる前に、別のお金に切り替えているはずである。しかし、現実としてハイパーインフレが観測される事がある。ドイツやジンバブエの人たちは、山盛りのお金をえっちらおっちら運ぶのが好きな変わり者の集まりなのだろうか?


ちなみに、経済学ではそんなアホとしか思えぬ変人の群れを想定する。セイの法則では価格が下がると需要が増えると言う。古紙再生業者が紙として購入する以外に、いったい誰がお金として使用するのか理解に苦しむが、経済学ではそういう風になるという事になっている。



 この商品貨幣論をさらに奇妙で意味不明な代物に変質させていったのが、古典派経済学の抱える大嘘である。彼らは市場は自由なのが良いなどと度々口にする。とにかく、異常なほど市場原理を貴ぶ。産業革命あたりの経済史を見れば、経済合理性というヤツがどれだけ非倫理的で短期利益ばかり重視するか、否が応でも理解するだろう。だから市場には一定の規制が必要なのだ。それに、政府が介在しないとして、市場は自由なのか?


経済学者の言を見ていると、ゲームが下手なのだろうなと思う。最終出力が大きな選択と、初動が早い選択肢のどちらが強いか? 初動の早さを重視する方が絶対に勝率は上がる。レースで勝つのに、最高速度を気にする必要は無い。先に前に出て、ひたすらレース場にバナナの皮だの爆弾だのをバラマキ、相手になんのアイテムを渡さないようにすれば勝てるのである。


同じように、市場は自由だ~とか言ってるが実際には生存するための選択肢は恐ろしく少ない。バブル崩壊以降、企業はこぞってコストカットを実施した。それがもっとも正解だからである。ただ、それだけの話だ。しかし、不可思議な事に、現代の古典派経済学はなにか経済合理性を突き詰めると、道徳的正しさなども担保されるなどと主張している訳である。単に力こそ正義だと言っているに過ぎない。




 商品貨幣論のそもそもの誤りは、物々交換により商取引が行われていたという認識である。原始社会において、物々交換によって商取引を行っていたという歴史的な状況・物的証拠は一切無い。ではどうしていたかというと、貸し借りで成立していた訳である。お隣さんが、何かくれたら何かお礼の品を渡す、あるいは何かを手伝う。別に何のことも無い、現代でも田舎に行けば普通に存在する風習である。貨幣とは、貸し借りの記録が起源であり、その本質は負債の記録である。故に、今現在、財務省がせっせと国債の総額を減らした結果、デフレを悪化させているという訳である。


そして、なにが通貨であるかを決定するのは国家である。こんなことは現実を見て考えれば至極当たり前な話である。労働基準法には、賃金について通貨を支払うべしと書かれている。市場が判断するというなら、経営者は何で支払っても良いという事になる。経済学の戯言ではマクロな視点でみて、自然淘汰されるからどうのというが、それは賃金未払いの裁判などを経て起きる事である。結局のところ、彼らがマクロな視点がどうの言うのは、彼らの物語にとって『過程』は不都合過ぎるから無視しているだけである。


この世界の何処にも、まともな統治能力がある国で、自国通貨を押しのけて他国通貨が流通している国なぞ存在しない。たったそれだけの現実が彼らには見えないのである。


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― 新着の感想 ―
[一言] 先進国においてハイパーインフレが発生するのは戦争で負けた時くらいでしょう。 にも拘らず、なぜハイパーインフレに常に警鐘を鳴らすのか理解に苦しみます。 寧ろ、何らかの意図があってわざと警鐘なら…
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