経済学の問題
理論が美しいかどうか、あなたがどれくらい賢いかは大事ではない。事実が伴っていなければ全ては間違いなのだ。リチャード・P・ファインマン
そもそも経済学がどうのという以前に、科学とはなんぞや?
もっとも狭義の意味における『科学』とは自然科学である。
すなわち、「自然世界で起こる物事を説明するもの」である。しかし、科学の説明で「起こる理由を説明する」というが、これは『結果』であり、『過程』を全て省略した説明である。『なぜ』の前に、何が起きているのか? いつ起きているのか? そういった事が全て判らなければ『なぜ』の説明など出来ようはずがないではないか。何故を説明するだけで良いなら「雷は菅丞相が落としている」でも説明にはなっている。いわゆるオカルトと科学の境界は実際には極めて曖昧なのである。
我々が科学だと思っているモノとは、ニュートンなどが起こした17世紀の科学革命後に定着した「物事の説明のやり方」である。それは『数学を自然現象の理論付けに用いる』という事であった。だが、目端の利く詐欺師にかかれば数式を利用してインチキな説明する事など容易い事である。という事で、現代的な科学の定義とは『再現・検証可能な物事の説明』と言うべきなのであろう。この前提を満たしたもっとも筋の良い仮説が、現状で正しい科学となる。
そういう意味で、量子力学や天文学の一部は科学では無いとも言える。未だに仮説である。
しかしそれらの分野の努力は凄まじい、真理や真実に対する真摯さがそこにはある。
いずれは科学になれるのかもしれない。
さて、経済学の話に戻そう。
理系文系の分け方は日本独特らしいが、経済学がどちらに分類されるか判るだろうか?
答えは文系である。理系とは理学、自然科学そのものである。すなわち、物理学、化学、生物学、地球科学、天文学、数学だ。経済学はもっともらしく数式を用いているが、自然科学では無い。
そう、ここが全てのねじれの始まりである。自然科学は楽な学問である。要するに、再現と検証が可能でさえあれば「現状では最も正しい」というお墨付きが貰えるからだ。勿論、完全な純粋な環境を整えたりするのは大変な労苦が必要なのだろうが。しかし、経済学などの非自然科学はもとよりそんな事は不可能なのである。経済とは社会という人間活動の内にあるものであり、純粋な環境など存在しないし、再検証の方法など想像すら出来ない。何を言おうが仮説に過ぎない。そこが非自然科学の難しいところである。
例えば歴史学を考えてみよう。すべてを知るには全く足りないピースから過去を想像し、逆方向の予言者とすら揶揄される。定説は簡単に覆り、教科書の内容も変わりまくりだ。そんななか「指導者はこう選択する法則性がある。コレは絶対的な法則だ!」とか言ったらどう扱われるか? せいぜい月間ムーの記事か怪しげな本程度の扱いしか受けないだろう。
経済学の最も罪深い点はこの点にある。非自然学問でありながら、あたかも自分たちが自然現象を観測している振りをして、熱力学法則のような『普遍的法則』をでっち上げたのである。しかし、彼らが参照できたデーターは『モノ不足の世界』だけだった。生産力は貧弱で、輸送力も脆弱、何もかも現代から見れば黎明期も良いところの世界だ。農作物を作っても都市に運べず、打ち捨てられ腐ってる。そんな程度の世界である。しかもその断片。
いわゆる経済学というのは、20世紀初頭には異論が噴出し、『事実として』、大恐慌に全く対応できずに消えた学説であり、1970年代に起きた、『極めて政治的要因による供給制約』を普遍的事象のように扱い、金利政策により需要をコントロールしたから状況が改善されたのだと、トンデモ本よりトンデモな事を言っている宗派の事である。
いわゆる異端の宗派のひとつである、トマ・ピケティが「21世紀の資本」を出し世界的なベストセラーになった。その著書における学問としての部分は「資本主義では歴史的に所得分配の格差が拡大する傾向にあり、それは今後も続くだろう」という部分に集約される。この『仮説』はずっと昔から存在していたモノである。コレの証明のためにピケティはデーターを集め日本語版で700P以上の本になったわけである。
コレは、いわゆる経済学に対する「資本主義の発展とともに富が多くの人に行きわたって所得分配は平等化する」への反論である。資本主義を自由放任に任せれば間違いなくそうなるのだろう。だが、いわゆる経済学というのは、あの大恐慌を悪化させた自由放任主義
レッセフェール
を実施していた宗派と1mmも変わらない連中なのである。
経済学というのは、宗派が変われば言ってる事が全く違ったりする学問である。
誠実さと熱情を限界まで希釈した量子力学の世界なのである。
意味不明を生み出す原因は、ほとんど政治的な要因と一番最初についた嘘だ。
『経済学は自然科学』であるという嘘である。
古典的経済学派が有する前提。経済人だの、完全市場だの、貨幣ベール論なんてものは、学問的都合から生じた仮定に過ぎない。ちょっと考えればわかる事だろう?
人間が、そんなに経済合理性を第一に考えて動くか?
生ごみ食って酒も女も娯楽を一切をせず、過労ギリギリのラインで働いて、考える事といえば、利益の数字を上げる事だけ。そんな変人がどれだけいる?
全てのモノ・サービスは同じ? 市場に関する全ての情報が参加者で共有されてる?
はじめっからフィクションだろ。そんな前提だと商業そのものが成り立たんわ。
カネが増えると、正比例でモノの値段があがる?
カネがあっても必要とされない商品の値段があがるわきゃねぇだろ。
『事実として』、今の日本では従来の経済学では全く説明できない事柄が起きている。日銀当座預金を何百兆も発行して、金利が上がらない、インフレにもならないというのは、あり得ない事なのだ。さて、このように仮説と事実が食い違った時、科学ならどう対応するのが正しいのか?
仮説を修正して、事実に即した仮説を打ち立てる。
コレが人類が延々と続けてきた科学の正道である。
そういった、科学とは何なのかという事が判らない人間は、恥も外聞もなく「仮定と事実が違ってる。コレは事実が違うからだ」とか、もっとひどいと「仮定と違うから事実が崩壊してしまう」なんて事を言ってしまう。或いは、その程度はかわいいもので、どこぞの問題集だかをめくりながら答えれば済む程度の事柄を絶対権威のように持ち上げ、下らないレッテル張りに終始し、挙句の果てには「自分は正義のためにやってるんだ」などと、科学的正当性などみじんもない個人の美意識で、なにやら自分を高みに置こうとしだす。
そこには、現実の問題に対する意識なんて無く、誠意というものは、勿論欠片も無い。