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法律を笑える人間とは一体何処の何者なのか? 

 『法治』という行為そのものを嘲笑う人間がいる。道理知らずにも程があると言わざるを得ない。法治とは即ち社会形成の為の最低限の行為だ。社会を成り立たせる為には、法の明文化の有無に関わらず一定の法理が存在する。それすら存在しない社会など、この世には存在し得ない。仮に盗人と殺人鬼しかいない社会があったとして、それが社会集団として存在する以上は、互いの間に盗んだり殺したりをしないという前提が存在している事は言うまでもない。マフィアやヤクザが自由気ままに生きていると思ったら大間違いだ。彼らの世界には表の世界よりも厳格で直接的な「法律」が存在するのだ。


法が存在しない世界など存在しない。ホッブズは「万人の万人に対する闘争」を逆説として提示したのだ。チンパンジーやライオンの群れですら社会の法理という物が存在するのだ。より高度な社会生物である人間がどうして互いの契約すなわち『法』から逃れれると思えるのか? ハッキリと言える事だが、『法治』を笑える立場の人間とは「法理の行使者」だけである。つまり権力者だ。コテコテの独裁者が、物の道理を説かれた時に口にする事を思い出して欲しい。彼らは言うだろう「俺が法律だ!」と。



 或いは『国家の法律』とそれ以下の『個別の法』は別の物だと思っているのかもしれない。だが両者は優先権に違いがあっても同一の物だ。『国家の法律』が消失しても、『個別の法』が繰り上がって君臨するだけの話である。アフリカでは、国家の法より掟が優先されるという事が普通にある。市場の人間が盗人に対して暴行加えているのを警官が黙って見ていて、ひと段落ついてボロボロになった盗人に手錠をかけるのだ。仮にこの場で盗人が死んでしまったとしても市場の人間は殺人罪には問われない。目には目を、盗人に対して報復を行う事は地域の法で認められているからだ。


掟の方が君臨している事は世界中に広く存在する。わが国でも、ブラック企業どもは労働基準法をガン無視して「わが社の掟」を押し付けているではないか。今現在のわが国では、正式に訴えを起こせば「わが社の掟」は引き下がる。不良品を出したら罰金は違法であるとか、休憩時間は法律で決まっていて電話に出る必要すら無いとか、一定以上の時間外労働に対しては賃金割り増しが決まっているとか、労働者が賢ければこんなオレ様ルールは無視して良いのだ。


ブラックの経営者が笑うのは哀れな奴隷たちだ。彼らも国家の法の下に存在する。救いの道がそこにあるのに気が付かない、そんな状況でお互いを「腐っている」とか何とか言って、更に労働環境を貶める様をニヤニヤと嘲笑しているのだ。「腐っている」とか「既得権益」これも情緒的で何の明文性も無い言葉だ。立場によって無制限に変わる。ある派遣会社の会長が言うには「正社員は既得権益だ」との事である。餓鬼の如き状態のふたりが「お前は恵まれている」とか言って相争うのと変わりがない。まるで地獄だ。


話がズレたので戻そう。全ての法は同じものである。その上で『特定の法』にとやかく言うのは、マフィアのドンが法律を邪魔だと思った以上の意味を持たないのである。ちょうど、労働者を無給無休で働かしたいと思っているヤクザな人間が労働基準法を邪魔だと思っている様にである。



 法律は所詮人間が作ったものだし、長い年月を経て意味が変わったりする。或いは、法理の正当性の為につまらない儀式を行ったりする。しかし儀式にはするだけの理由が存在するからするのだ。中世欧州には『動物裁判』という物があった。豚だの何だのが殺人罪で起訴されるのだ。現代的な感性で見ればアホ丸出しであろう。人間の法理などと無関係な豚に服を着せて、弁護士を付けて裁判席に座らせるのだ。笑われて当然の滑稽な茶番である。


しかし、この儀式は法理として見るには中々意義深い物がある。中世欧州はアフリカのように様々な法律が入り混じるカオスな状況だった。この裁判は教会法に則て行われたものである。教会法、即ち聖書に基づいて作成された教会の法律である。これを一定の信頼あるシステムとして運用するには、この動物裁判は必要な儀式なのである。全ての存在は神の下に平等であると聖書に記されているではないか。ならば、動物に対しても裁定を下すのは当然の行為である。それが法理と言うものである。成る程、『動物裁判』は茶番だ。しかし、裁きを実行する上で一定の法理を維持しようとする努力だという意味では、法典『俺様の御機嫌』より遥かに文明的で安定のある物なのだ。



 これまで、法理のある世界について語って来た。マフィアだろうが、テロリストだろうが、『法』は存在する。リーダーの御機嫌、解釈でどうとでもなる宗教の法、そして憲法とそれに基づく法律、システムとしてより安定的なモノを志向してきたのが法律の歴史だ。そして法律歴史とは権力の歴史だ。とどのつまり権力とは社会そのものなのだ。そのうえで、法律を笑うとはどういう事だ? 無法状態という物がユートピアだと思っているのだろうか? それとも社会からの恩恵を空気のように思っている仙人気取りなのか? 


きっと和尚打傘で風流な坊主気分なのだろう。髪も無ければ天も無い、法も道徳も無い畜生三昧。反法治主義者の毛沢東が素晴らしいと言う事なのだろうか? 彼は憲法や明文立法に対してクソくらえと言ったのだ。他者を法典『オレ様の御気分』という封建法典より更に古典的で野蛮な法で縛り上げただけだ。しかしそれですら無法状態よりもマシなのだ。「万人の万人に対する闘争」状態とは人間が住める環境で無いのだ。そんな所が素晴らしいと思えるのは人間ではない。身を守る事すら忘れて、他者を蹂躙する事にひたすら喜びを覚える畜生だ。正しく人狼、社会を追われて当たり前の怪物である。




 中世がなぜ暗黒時代であるか? 色々要因が有るだろうが、最大の要因は『自力救済の世界だから』と言う事ができるだろう。『村八分』が重い刑罰として成立するぐらい互いに助け合わないと生きていけない環境であると同時に自分の権利を自分で守らなければならないのだ。故に、多くの者は権力の庇護を求める。確かに多くを失うが全ては失わないかもしれない。しかし自力救済とは何も良い意味など存在しない世界なのだ。権利を奪われた者が、復讐者となり復讐を行う事は権利では無い、義務だ。それだけが唯一の悪行に対する抑止力だからだ。報復を行わない限り、際限なく権利は侵害される。そこには話し合いなどという文明的なやり取りなど存在しない。武士道でも騎士道だろうが、第一の要諦は『舐められたらお終い』と言う事だ。法治が存在しないと言う事はそう言う事だ。


そして、それが国際世界という物だ。なにか戦後の東アジアが平和で太平洋戦争以降に国際緊張という物が存在しなかったというような宗教が流行っているが、北朝鮮という国を見ればそれが幻想だと判るだろう。彼らは自分の利益の為ならば何でもする。拉致誘拐など世界的に見ても犯罪行為に該当する。その他、麻薬、武器、人身売買etc。まともな国家の内ならば間違いなく犯罪だ。だが、そもそも『犯罪』とは国家が決める事なのだ。故に国家ぐるみの犯罪は犯罪にならない。彼らも「自らの行いが犯罪だ」などと口にしない。国際法とやらは存在はする。しかし、そんなものは無視してしまえば何も問題を起こさない。ちょうど、中華人民共和国が、国際司法の判断を無視して、公海上に軍事拠点を設営しているようにだ。

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