8−7
腹立たしさであろうか。あるいは、口惜しさかもしれない。どちらでも良かった。残留しているのは、自責だ。
思い上がっていたのだろう。俺は。
思い上がっていたのだ。
この情動を、近く経験している。腹の奥、胃の腑のさらに奥底、血流の底で感じていた。彼女を傷付けた時に。
悔悟の念に縛られていたのではなかっただろうか。
サイラーシュ侯は、良き人物だった。王会で顔を合わせていた時とまるで印象のちがう、明朗さと年功を備えた人であった。
来し方に囚われた者だと、愚かにも意識しないところで決めつけていたのは誰だ。因習にすがりつく者だと、気づかぬところで境界を作り、 排除していたのは誰だ。
施策の説得に来たはずだ。
だが、あれほど俯瞰した見方をする人物をどう説得しようというのか。
できなかったら、そしたら、どうなる。マルヌーシュの未来は。不毛な土地に喘ぐ領民たちは。
呪いなのだ。
土地の。
祖父の。
一族の。
ゆくりなく、言葉がよみがえった。
たとえ、その文化がおかしくても、その文化を知ろうとすることは、大事じゃないのですか、と。
真理だと思った。けれど、クラエスは真にその意味するところを理解していただろうか。
己の見える範囲で視野を曇らせていたのは、クラエスのほうだった。
あの問答のなかで、気づいた。己の映らぬ部分に。——やっと。
*
通路の二重になった玻璃の外で、薄闇にゆらめていた雪が、雪片の大きな重いものへと変わり、音なく城の敷地に降り積もっている。城館を超えた先、真っ白に染まったパドイユの山肌と、灰色に立ち込めた雲の境がなくなっていた。
雪に閉ざされる時期がはじまろうとしている。サイラーシュ侯に宿りを願い出なければいけないかもしれない。
そうして、振り返った通路の先で、彼女と鉢合わせた。
もの思いに沈んでいたのか、俯いていたイレイェンよりも先に、クラエスのほうがその姿を認めて立ち竦んだ。
足音にはっとした彼女が顔を上げる。大きく見開かれた夕陽色の双眸が、すぐに苦痛にゆがめられた。ぱっと翻って戻ろうとしたイレイェンの左手を咄嗟に掴んだのは、考えるよりも前に体が動いていたからだった。
「……待ってくれ」
イレイェンは振り返らなかった。
「話が……したい」
「…………放してください」
返ってきた言葉に、クラエスは掴んでいた手からゆっくりと力を抜いた。駆けていってしまうのではないかという不安は、杞憂に終わる。
背を向けたイレイェンとのあいだには一セイルの距離もないというのに、東西街道ほどの距離が隔たっている気がした。
「——体の調子は、どうだ……?」
そんなことを訊きたくて声をかけたわけではない。だのに、口からこぼれ出たのは益体もない台詞だった。
「ご心配には……及びません。この通り、息災に過ごしています。冬の旅もできるほどには回復しております」
「そう、か……」
丁寧に話されることが溝を浮き彫りにしているようで、火箸を当てられたような痛みが伴った。
「お話はそれだけですか? そろそろ夕餉の時刻……食堂へ参りませんと」
一歩足を踏み出すイレイェンに、クラエスは否定した。
「それだけじゃない! イレイェン、俺は——」
「——イレイェン嬢?」
角から姿を現したのは、タルーシャ子爵の長子と次子だった。驚いたようにふたりが立ち止まり、自分と彼女を交互に見やる。
気詰まりな空気が、埃の匂いのなかに混じりはじめた。
「あっ……」
うろたえ、戸惑いをあらわにしたのは、イレイェンだった。動顛したように、現れた二人のあいだを旋風のごとく抜けていく。
ダランという名の男とその妹エリエラは、顔を見合わせてすぐに行動した。エリエラのほうがうなずくと、急ぎイレイェンのあとを追いかけていく。
その場には、クラエスとダランのみが残された。
「サロワ伯」
顔をあげれば、奥底に煮える怒りを隠そうとしない双眼とぶつかった。
「彼女に何をおっしゃったのですか」
「ダラン殿には関係のない話です」
ぴしゃりと言えば、むっとしたようにダランが言った。
「では、お言葉ですが、なぜイレイェン嬢は涙を? 彼女は我が家の大切な客人です」
泣いていたのか。
気がつかなかった。
「それも、関係のない話だ」
「いいえ、あります」
言い切ると、令息の強い目が言った。
「——僕は、彼女を慕っています」
騒ぎそうになる心を叱咤した。無言で続きを促すと、ダランは臆面なく応える。
「イレイェン嬢を悲しませたくありません。もし、彼女を傷つける者がいるのであれば、取り去ってあげたいと思います。それは、サロワ伯が相手でも同じです」
「…………」
「伯とイレイェン嬢が交際していたのは知っています。その後、どのような問題があって、彼女が塞ぎ込み、あなたの話をしなくなったのかは存じ上げません。ですが、彼女を悲しませるのだけは、やめてください」
真っ直ぐな純朴な青年の目は、今のクラエスには極寒の地で素肌をさらしているような痛みをもたらした。目を逸らすと、ダランは礼をしてその場から去った。
逃げていったイレイェン。
一度として、目を合わせて話をしてくれなかった。
謝罪を、口にできなかった。
なんと、矮小なのか。当人を目の前にして、大事なことを言えなくてどうするのだ。いくら悔いたところで、意味がないではないか。
したたかに、壁に拳を打ちつける。鈍い音が響く。鈍い痛みが戻ってくる。骨を伝って、痛みが心ノ臓を握りしめた。
ダランのような穏やかな男のほうが、いいのかもしれない。
過去の柵の犠牲となり、傷ついた彼女には、俺のような男では癒してやれないのかもしれない。
そう思うと、ふっと浮上するような心地がする。だが、上がった先は黒泥の海だ。皮膚の肌理という肌理に、泥炭が入り込む。掬い上げれば、油のようにぬめりとした粘りがあった。
「……ちがう」
そうではない。それではいけない。なにがではない。
責任を取るか取らないか、好きとか好きではないとか、そうではない。
ただ、自分が、イレイェンを苦しみから解放してやりたい。
それだけは譲れない。それだけは真実、偽りのない気持ちだ。
〈影ノ病〉であるという事実を知った時から、その気持ちは変わりない。彼女を過去から手を伸ばす呪いの連鎖から、解いてやること。
解放してやれるのであれば、この締めつけられる痛みを堪えることができる。——たとえ、イレイェンとの関係が終わるという結末になったとしても。




