7−3
ミリェル・タラーヌは社交界の華だった。
彼女が姿を現せば、会場はぱっと明るくなり、微笑めば皆が和んだ。鈴のような声はあたりによく響いたが、不快な顔をする者は誰もいなかった。男爵家の令嬢ではあったものの、公爵家や侯爵家の令嬢と相違ない教養を持ち合わせていたので、ミリェルの周りには常に老若男女問わず多くの者がいた。
若い頃のキャンスは、その様子を遠巻きに見るくらいだった。伯爵位を継いだ責任感から、社交の場では利になる関係の者としか付き合いをせず、意味のない食事会や夜会には一切顔を出さなかった。
だから、ミリェルが話しかけてきた時にはたいそう驚いた。なぜ、こんなつまらない男に話を振るのだろう、と。思ったことをそのまま口にすると、ミリェルは心地のいい笑い声をあげながら、
「だって、いつも難しそうな顔をして。眉間がしわだらけになったら不憫だと思ったから」
そうのたまうのだった。
どんな人と付き合うにしろ笑ったほうがいいというのが彼女の持論だった。試しに、縁を持ちたいと思う人がいたら、わたくしが縁をつないであげましょうと言うので、興味本位で伝えてみたところ、今まで話したことがない人物だったにもかかわらず、翌週にはすっかり打ち解けていた。
してやったり、と笑うミリェルに、キャンスも両手を上げざるをえなかった。そのうえ、キャンスがリュメールとマルヌーシュの間柄について話せば、真剣にその話に耳を傾け、あまつさえ適当な意見もしてみるのだから、キャンスはすっかり参ってしまった。
リリエーシュから遠く数週間かかる南のルソーラ領を三度訪れ、結婚の許しをもらうと、キャンスはミリェル・タラーヌと緑の誓いを交わしたのだった。
ミリェルがリリエーシュの屋敷に入ることで、屋敷のなかは明るくなり、領民からは以前にも増して友好的な言葉をかけられるようになった。身分や場所を問わず、人を惹き付ける魅力を持った彼女から学ぶことは多く、当時のマルヌーシュ次期領主と王会や社交を通して、親しい間柄を築けるようになったのは、彼女のおかげだった。
そうやって結んでいった縁をもとに足場を広げ、リュメールのなかで人脈を広げながら、マルヌーシュと友好を持つようになった頃、ミリェルがイレイェンを出産した。
難産だった。
母体に負担がかかった出産だったことから、新たにサスエルという使用人を雇い入れた。サイラーシュ侯爵領出身のこの使用人の登場が、不幸の始まりだった。
ミリェルは産後一年経っても、予後がよくなかった。帝王領に上がるような遠出はとても無理で、調子のいい日に乗馬ができるくらいが精々だった。明るいミリェルは自分のことは気にせず、帝王領で社交季を迎えるように言ったが、キャンスはその言葉を鵜呑みにはせず、その年は領地で過ごした。
だが、二年目もミリェルの体調は優れず、キャンスは悪いと思いながら、今まで培った縁を無碍にしないために、その年の社交季を帝王領で過ごした。
以降ミリェルは死ぬまで、帝都に上がることなくリリエーシュで生活した。社交は好きであろうに、代わりに娘のイレイェンに愛情を注いで過ごした。体が思わしくない時は、サスエルに頼んでいたようだが、愛娘と直接過ごす時間を大切にしていた。余力がある時には、領内の街や村にも視察に出向き、領主の細君としての振る舞いは完璧だった。
ゆえに、キャンスはミリェルの変調を見逃していた。年々、具合を悪くしていった彼女は、イレイェンを産んで八年目の冬に眠るようにして息を引き取った。
冬場は屋敷にこもっていることが多いにもかかわらず、その日、キャンスはたまたま街のほうに出向いていた。ラタムが橇を走らせて連絡を届けにきたが、戻ったところでミリェルの死には間に合わなかった。
茫然自失という言葉がふさわしいだろう。
彼女を失って、なくなったなにかは、キャンスのなかで溶けて消えてしまった。彩り豊かった日々は、雪で真っ白に塗り替えられてしまったかのようだった。
キャンスは、屋敷を避けるように領内の視察に頻繁に出るようになった。家にいると、どこであろうとミリェルの影がちらついて、二重窓を見るだけで「寒いわね」とつぶやいた彼女の姿がよぎる。そうなると、もうだめだった。喉の奥がひりついたようになり、瞼を閉じると陽に輝く金の髪が思い出される。その影を振り払うように、外に出た。
だから、娘の異変に気付かなかった。
ある日、夜遅く帰宅すると、珍しくイレイェンが起きていた。
「どうしたのだ? イレイェン。はやくお眠り」
「……眠れないの、お父さま」
「こわい夢でも見るのか?」
「…………うん」
一緒に眠ってもいいか、と尋ねる娘の様子で、察すれば良かった。その日、久しぶりに抱いて眠った娘のぬくもりに癒されたのは、キャンスのほうだった。イレイェンが眠れずに過ごしていることなど、つゆほども想像していなかった。
数日後、イレイェンは発狂した。
時計塔ノ鐘を突いたような叫びだった。屋敷中に響いた声は尋常ならざるものだった。夜更けの闇を裂く叫びは、段々と擦り切れていき、キャンスやジュラスなどの使用人たちが駆け付けた時には空間が歪んで見えた。
「イレイェン?!」
「お母さまお母さまお母さまごめんなさいごめんなさいわたしのせいわたしのせい」
同じ言葉を繰り返すさまは、壊れてしまったかのようだった。揺すって、はっとすると滂沱の涙を流す。
抱きついて泣く娘の様子に、キャンスは狼狽した。抱きとめながら、部屋の隅で薄ら笑いを浮かべる乳母の姿を捉える。キャンスは、直感で感じた。
「何がおかしい、サスエル」
指摘されたら堪えきれなくなったのだろう。下品な哄笑をはじめた乳母は、キャンスを指さした。
「ざまあみろ! 伯爵!」
「サスエル」
「奥方が死に、娘もイカれた。どれもこれも、お前がリュメールを顧みないせいさ!」
「…………」
「なぜ、マルヌーシュなんかと手を組んだ! リュメールの! サイラーシュの! かつての苦しみを忘れたか! 裏切り者め!」
サスエルは誹りつづけた。感情的な言葉はやがて、この八年で知らない事実に置き換わっていった。
「うちは、マルヌーシュの通行課税の煽りをくらった! そのうえに、あの飢饉と寒波! 夫と息子はあれさえなければ、死ななかった! マルヌーシュが、あんなことをしなければ……!」
「あの飢饉の……」
犠牲者だったのか。
サイラーシュの恨みが深いのは知っている。知っていたが、被害に遭った人間と直面するのは初めてだった。
「私のこの苦しみを知っていたか、伯爵! お前にわかるはずがないだろう! だから、わからせてやろうと思ったのさ!」
「……どういうことだ」
「奥方がだんだんと弱っていく姿を目にするのはどんな気持ちだったろうねえ。さぞや、いやだったろう? 今は娘が狂っている。イレイェンさまには、囁いてやったのさ! お母さんが死んだのはお前を産んだせいだよ、ってね。寝床で語ってやったのさ。毎晩ねえ」
キャンスは、ようやく悟った。悟ったところで、なにも出てこなかった。熱い炎も強い悲しみも、感情を感じる器官が麻痺してしまったかのように。
「いいざまさ!」
サスエルは、再び笑った。不気味な声で、笑い転げた。
感じることのできない頭で、裁断を下す。ジュラスに、乳母を外の納屋に閉じ込めるように命じた。狂ったように笑い続けるサスエルが連行されていくのを横目に、泣いて気を失ったイレイェンを抱えて、寝台に横たえてやった。
人払いをすますと、夜の静けさが部屋を満たしていった。
「私の……」
私のせいだ。
ミリェルの産褥が良くなかったのは致し方なかったことだろう。だが、マルヌーシュと親交を深め、サイラーシュの人間の怨恨を受けたのはキャンスの振る舞いによるものだ。
マルヌーシュが通行税を設けて、穀物の買い占めを行い、リュメールの人間が逼迫したことと、飢饉が起きたことは無関係だ。なんの因果もない。だが、飢饉が起きたことで人死にが多く出たのは事実。そして、どうしようもない悲しみを晴らすために、恨みが生まれた。
サスエルの恨みは、道理だ。恨みの対象が、キャンスだったのは偶然だ。ただはけ口が欲しかっただけに過ぎない。道理ではなく、感情なのだ。
そう。わかっている。わかっているが、己の振る舞いによって、恨みの対象に選ばれ、結果として、最愛の細君が殺され、娘が病んでしまったら、いかに筋道を考えたところで、後悔するより他ないではないか。
麻痺していた感情が、卒然と戻ってきたかのようだった。
ぐっと溢れ出たものが、イレイェンの横たわる寝台に落ちていく。
サスエルへの怒りと憎しみが腹の中で沸き起こる。ミリェルを失った時の気持ちが押し寄せてくる。
「——すまぬ……!」
イレイェンだけでも。せめて、イレイェンは。ミリェルとのつながりである娘だけでも、必ず助けなければ。




