7−1
「え……?」
イレイェンは初め、意味するところがわからなかった。水面に投げられた石があっという間に空気を呑み込み、あとからぼこっと泡になって浮かんできたかのように、しんとした室内に、異様に大きく声がもれた。
とても大事な告白をしたはずだった。一世一代の、告白だった。
けれど、どういうことだろう。
クラエスは、なにを言っているのだろう。
「……どういう、意味?」
「——そのままの意味だ」
断じるクラエスの表情は、冷たかった。まるで、見知らぬ他人に戻ったかのような冷たさを感じて、白藍の瞳に背筋が凍った。
「君が、双子がいるという秘密を隠していることを知っていた。そして、その双子が実は存在しないということも知っている」
だから、隠さなくていい、と。
繰り返された言葉に、胃の腑に氷の塊がのしかかった衝撃を持て余した。
信じてもらえていないのだ。
クラエスは、わたしの言ったことを信じていないのだ。
双子などいない、と。そんな嘘はつくな、と言っているのだ。
これ以上ない、裏切りだった。
決意を固めるまでに、どれほど悩み、苦しんだろう。眠れない日々もあった。嫌われてしまうのではないか。忌まれてしまうのではないか。
双子である、という事実を伝えることは、イレイェンにとってそれほど痛みを伴う作業だった。——なのに。
「……信じない、というの」
「イレイェン」
そうじゃないと言うクラエスに、イレイェンは抑えつけられた気持ちが、ぐいっと顔を出すのを感じた。
「……わたしが、双子じゃないって。嘘だって、言っているのでしょう?」
「嘘だとは言っていない。ただ、事実を言っている。君は自分を双子だと思っているが、君には双子の妹はいない。それは、幻だ」
「…………わかったわ」
やはり、信じていないのだ。目尻に、水が浮かんだ。まばたきをして、その水を呑み込む。
「ソーニャを連れてくればいいんでしょう? そうしたら、あなたもわかるはずだわ」
待っていて、と言い残すと、応接間を出た。扉を開け放つと、微動だにせずに従者のアルンが立っている。ぴくりとも顔を変えないその顔が、不気味だった。
ゆっくりと階段を上がっていくと、重たい気持ちが板に染み込んでいく。
クラエスが、最初の一言で信じてくれないとは思っていなかった。考えると、胸の内側がじくじくと傷んだ。だが、言ってしまった以上、あと戻りはできない。信じてもらうためには、ソーニャをクラエスに会わせるしかない。
昨夜、妹は言っていたではないか。
姉さまの味方だ、と。
だったら、妹に証明してもらうのが一番の得策だ。
階段をのぼりきった先が、イレイェンたちの居室だった。静かに自室の扉を開け放つと、西陽の入らない部屋は薄暗い。
「ソーニャ!」
叫ぶと、橙の闇に声が吸い込まれた。静まり返った室内には、人のぬくもりを一切感じない。
「ソーニャ……?」
窓辺に、ちらちらと赤金色の光の粉が散っていた。ちょうど、闇のなかに消えるところだった。イレイェンは消えゆくさまに魅入った。
光が溶け込んでしまうと、はっとした。
妹は、どこに行ったのだろう。
いつもなら、部屋にいる時間帯だ。なぜ、こんな大事な時にいないのだろう。
「ソーニャ?」
虚しく声が木霊した。部屋にいないとわかると、辺りの部屋を片っ端から開けて、呼びまわった。使用人たちの部屋がある三階に上がっても、返事がないと、急に不安が足元から這い上がってきた。
二階へ、降りる。もう一度自室を覗き込む。いない。
一階へ、降りる。名前を呼ぶ。叫ぶ。
だが、返事はどこからも返ってこなかった。
「——いないだろう?」
階下で呆然としていると、クラエスが横に立っていた。白藍の瞳が、再び胸を刺す。
恐怖が、胸の底を巻いた。あらがおうとして、イレイェンは首を振った。
「ちがうわ! いるわ! ソーニャはいるもの!」
「——お嬢さま! どうされたのです?」
騒ぎが聞こえたのだろう。驚いた様子で、スエラと、庭師のラタム、料理師のヌラットが顔を出した。
イレイェンは、気付いたらスエラの腕にすがりついていた。
「スエラ! ソーニャはどこ? どこかに行ったの? ねえ、どこにいるの?」
「落ち着いてください、お嬢さま。何があったのです? ソーニャお嬢さまならお部屋に——」
「いないの! いないのよ! どこにも! 捜してもいないのよ!」
頭のなかと目の前のできごとが、ぐちゃぐちゃと混ざっていくようだった。渦を巻いて、ぐるぐると、茶器が回るように。
不意に吐き気をもよおして、イレイェンは寸前で口を押さえた。生理的な現象に、今度こそ眦に涙が浮かんだ。息を吸い込む。ゆっくりと吐き出す。そうすると、少し気分が楽になった。
余裕が出ると、閃くものがあった。
「……そうだわ」
「理解したか?」
つぶやきに、無情なクラエスの声が応答した。
イレイェンは、ゆるくかぶりを振る。
「さっき、言ったわ。わたし、さっき、言ったんだった」
思えば、視界が晴れたようだった。簡単な事実を証明すれば良かったのだ。
イレイェンはにっこりと笑って、クラエスの目を見た。
「どうやら、ソーニャはどこかに出かけているみたい。だから、会わせることができないけれど……でも、クラエス、あなたもソーニャに会ったことがあります」
「俺が、いつ?」
「さっき、言ったでしょう? 舞踏会の前に、あなたが我が家を訪れた時。そう、あの時。挨拶をしたでしょう? あれは、わたしじゃない。あれが、妹のソーニャよ」
勝ち誇った気分だった。盤上遊戯にて勝利した時の快感。今、感じているのはその愉悦だった。
これで、信じてもらえる。
わたしが言っていることを。双子だから、これまで苦しんできたのだということを。クラエスに信じてもらえるのだ。
「——それこそが、君に妹がいないという証明になる」
透明な声が響いた。
「俺はあの時、誰にも会っていない」
声は、断罪の声だった。
束の間、イレイェンは言葉を失って、けれど、首を振って否定した。
「いいえ。だって、あなたは、舞踏会の日にわたしの言葉に肯いたわ。挨拶だけでごめんなさい、と言った言葉に。クラエス……あなたは、気にしてない、と」
「ああ。だから、あれが違和感のきっかけだ。なぜ、会っていないはずのあなたにそんなことを言われたんだ、と」
怜悧な瞳は、イレイェンの喉から音を奪う。
「あの日、俺が訪れたのはリリエーシュ伯に会うためだ。着いてすぐに、ジュラス殿に案内をされて、リリエーシュ伯に会っただけ。あの日、君とは会っていない。それは、ジュラス殿とリリエーシュ伯に尋ねれば、わかることだ」
わなわなと震える。
手指が、腕が、唇が。
イレイェンは、けれど負けるわけにはいかなかった。負けてはいけない闘いだった。
「…………そうなの。そう。知っていたの」
「ああ」
「……そう。そしたら、ごめんなさい、クラエス。わたし、嘘をつきました」
怪訝な目が、こちらを見た。
「ほんとうにごめんなさい。たしかに、わたし挨拶をしたと言ったけれど、あれは嘘。ほんとうはしていなかった。あの日、わたしは自分の部屋にいて、あなたを試したかったの。わたしの嘘に引っかかるかどうか。それで、引っかかってくれたから、ごめんなさい、ついむきになってしまいました」
「試す?」
「ええ。わたしの嘘に乗ってくれるかどうか。だから、つい。ごめんなさい。わたし、意地汚かったのです。けれど、信じてください。まだ、会っていないけれど、ソーニャはいるのよ。それは、ここにいるスエラたちが証明をしてくれるわ」
ほほ笑んだが、クラエスは笑ってくれなかった。
その目に浮かんでいるのは、憐憫だった。
「——訊いても、いいか」
「ええ」
「嘘をついた、と言ったな。だが、嘘をついたとしたら、なぜ、そんなことをした?」
「言ったでしょう。あなたを試すため」
「そうだな。じゃあ、なぜ、試すようなことをした? なぜ、あの時、ほっとした?」
「だって、それは……」
——ソーニャに、クラエスを取られたくなかったから。
にわかに、頭のなかで、齟齬が生じた。
クラエスは、ソーニャに会っていない。ソーニャは、クラエスのことが好きだということは否定したけれど、会って挨拶をしたことは否定していない。イレイェンは、その現場を見ていない。
では、ソーニャが挨拶をしたというのは事実なのか。ソーニャが、挨拶をしたということは誰が証明をするのだ。それとも、妹の嘘なのだろうか。妹が嘘をついていたとしたら、すべての辻褄が合う。
「やっぱりソーニャを捜さなきゃ……」
「もうやめよう、イレイェン」
やめよう、という声が、いつになく優しかった。語りかけるように、あやすように、クラエスは銀の髪をゆっくりと横にふる。
「ソーニャという妹は、いないんだ」
「——ちがう!」
そんなことはない。
イレイェンは、言い聞かせる声を押しのけて、侍女を見た。
「スエラ! 知っているわよね? ソーニャをあなたは知っているわ。お願いだから、クラエスに言ってあげて。ソーニャはいるって。双子だって。わたしたちは忌まわしい双子なんだって」
「お嬢さま……」
「お願い、スエラ」
懇願すると、スエラは弱った顔で言葉を詰まらせる。
なぜ。どうして、すぐにそうだと言ってくれないのだ。
「スエラたち使用人は、君に合わせているだけだ」
「そんなことない! だって、ソーニャと話をしているもの。現に話をしているわ。それは、ほんとうのことよ。わたしもスエラたち自身も見ていることよ」
「じゃあ、スエラたちからソーニャに話しかけたことはあったのか?」
「そんなこと……」
たくさんある、と言おうとして、固まった。
ない。記憶にある限り、スエラたちからソーニャに発信をしたことはない。いつも、イレイェンを経由してやり取りをしている。
「……そんな」
イレイェンは、スエラ、ラタム、ヌラットを順繰りに見た。一様に戸惑いを隠せない様子で、イレイェンを見つめている。
「——イレイェン」
ふわりと、あたたかいぬくもりに包まれた。クラエスの香りが、イレイェンを包む。
「現実を見るんだ」
——現実。
「……ソーニャが、いない……?」
体の底から這い上がってくるものがある。寒気のようなもの。正体不明のなにか。
鏡を覗き込んで映るのは、分け目のちがう自分だ。
「いなかったら、わたしは一人……?」
鏡が、粉々に砕け散る。破片が、いくつものイレイェンを映す。
「じゃあ……」
不意に破片の一部に映ったのは、死顔、だ。
「……じゃあ、双子じゃないってことは、お母さまが死んだのは……、わたしの、せい?」
額の裏に浮かび上がる。母の笑顔。病んだ顔。死顔。耳の奥で聞こえる。自分の笑う声。心配する声。泣き叫ぶ声。そして、お前のせいだというしゃがれ声。
なにかがイレイェンの足にからみついた。それは、そのまま、ずぶりと底に引き込んでいった。




