6−12
黄昏色の衣装を身にまとったイレイェンを目にした時、クラエスは言葉を失った。思わず口元が綻びそうになるのを慌てて覆って繕うと、滲みそうになる気持ちを抑えながら、その姿を認めた。
ランスリー婦人の技工が尽くされた衣装は、イレイェンによく似合っていた。人々でひどく混雑している回廊で、陽に照らされたかのように映った。
磨けば光るだろうと言ったシェレーヌの言葉を思い出す。輝いて見えた。
「——手を」
「手……?」
「私の腕へどうぞ、お嬢さま」
戸惑った彼女は遠慮しなくていいことを告げると、ためらいがちにクラエスの腕に手をかけた。少し引っ張ると、イレイェンが不安そうに見上げたので、それでいいと声をかけた。
大広間へと向かうさなか、腕にかけられた手がわずかに震えていた。ちらりと窺うと、顔が強張っている。
その手の緊張をほどくためにふれると、なめらかな肌を感じた。
「この間は、夜中にいらっしゃったので驚きました」
不意な言葉に、クラエスは固まった。先日の訪問のことだろう。〈影ノ病〉という言葉が脳裏にちらついた。
すでに眠った頃合いと思っていたが、上の階から馬車が止まるのを見たのだろうか。
「……あの時間しか空いていなかったんだ。遅くにすまなかった」
リリエーシュ伯が、イレイェンに何か話したのだろうか。あるいは、眠っていた彼女を馬車の音で起こしてしまったのかもしれない。
深更の訪問は不躾ゆえに、ただ詫びをいれた。
「——いいえ。こちらこそ、挨拶だけでごめんなさい」
挨拶? なんの話だ、と足を止めそうになる寸前で呑み込んだ。あの時は、短時間の訪問で、一度もイレイェンと顔を合わせていない。挨拶をしたのは、ジュラスという家令とリリエーシュ伯のみ。彼女は、なんのことを話しているのか。
病、という言葉が、再び鋭くちらついた。
「気にしてない」
合わせた様子で返答すると、ほっとしたようにイレイェンが息をはいた。
大広間に着いてすぐに辺りを見渡すと、イセルの顔が目に入った。イレイェンに会わせろと喚いていたことを思い出す。目が合ったイセルは案の定飛びついた。
「サロワ伯、そちらのご令嬢は?」
楽しそうな声音である。
「リリエーシュ伯のご息女だ」
「イレイェン・ヤンヌと申します」
膝を折るイレイェンを目にしながら、イセルがにやにやとした笑みを向けてきたので、黙殺した。
「お初を、イレイェン嬢。イセル・ファルスと申します。ゲイシュ伯を戴いております」
イセルが名乗ると、あとからあとから沸き立つように周囲の貴族の子息や令嬢たちが名乗りはじめた。おろおろとするイレイェンをそろそろ連れ出そうかと思った矢先に、それは起こった。
「最近、噂されているのはこの方でしたのね。サロワ伯が、ミリェルさまのご息女に媚を売られているらしいって」
南部の領主婦人だった。周囲の者たちがどっと笑うのを見て、イセルがしまったという顔をしている。イレイェンは、意味を解すと顔を赤らめた。
咄嗟にクラエスは、イレイェンを引き寄せた。
「それは、大変不快な噂だな。私のほうが彼女を口説いているというのに」
頬に口付けると、抱いたイレイェンの体温が上がった気がした。窺い見れば、戸惑った様子の彼女がいる。
「この衣装だって、私が贈ったものだ。——そうだろう?」
「ええ。クラエスさまに合わせて作っていただきました」
促せば、イレイェンがはっとして力強い目で肯いた。そうすると、周囲のほうが置いてきぼりを食らったようだった。適当な謝罪を受け取って、集団から抜ける。あとは、イセルがなんとかしてくれるだろう。
不快な思いをさせたことを詫びると、イレイェンは首を振った。次はがんばりますと告げる声に、クラエスは複雑だった。
ひと通り踊り終えると、カルメル侯から話しかけられたことに、クラエスは驚いた。
いつもの通り、貴族らしい言いたいことを匂わせる様子だったが、衣装を気に入ってもらえたことは思わぬ収穫だった。
これで閑古鳥が啼いているランスリー婦人の店に変化があるかもしれない。思うと、興奮が隠せなかった。イレイェンを口説くことが一義であったが、それがこういった形で影響するとは思わず、つい喜びを口にした。
だから、良かったですね、と笑うイレイェンがどこか寂しげであることに気づかなかった。
挨拶回りに行くことを伝えると、イレイェンが薄く笑った。
「では、わたしもそのあいだにエリエラさまたちに会ってきますね」
同行してくれるものだと思っていたクラエスは、少し気持ちが沈んだ。 誤魔化すように、笑い返した。
「そうか。わかった。ではまたのちほど」
はいと言って消え去る背中に、久しく忘れていた虚が声をあげるようだった。
振り払うようにして挨拶回りに集中していると、幾分か時間が経っていた。途中、王族入場と極光の姫君による舞を目にする。終わったところで、肩を叩かれた。
「さっきはすまなかった!」
仰々しく亜麻色の頭を下げたのはイセルだ。おい、とたしなめて、目立たぬように壁際に引っ張ってから、クラエスは気にしていないことを告げた。
「少なくとも俺は、な。お前が謝るべきはイレイェン嬢だ」
「イレイェン嬢は……?」
「友人のところに行くと言っていたが」
「娘ならもういないぞ」
ひょっこりと顔を出したシェレーヌが言った。豪奢な巻き髪が周囲を圧制するかのごとく存在を放っている。
「いない……?」
広間を見渡して、フォンヌ家の兄妹を見つける。たしかに彼女はそばにいなかった。
いったい、どこへ?
周囲に目を走らせながら内心で不安を覚えつつあると、それを後押しするかのようにシェレーヌがけろりと言った。
「ついさっき、一人で会場を出ていった。何やら沈んだ顔をして、な」
「どうして、止めなかった?」
供をつけずに広い王宮を出歩いたら迷うだけではない。夜会や舞踏会の規模は大きくなればなるほど、胡乱者がはびこる確率も高くなる。貴族の従士や御者などに混じって、狼藉を働くような輩だ。
語気を荒くするクラエスに、シェレーヌのほうは悠然としていた。
「たわけ。わたしは彼女と顔見知りでもなんでもない。止めて欲しかったら、あらかじめ紹介をしておけ。だいたいあの娘が出ていったのは、お前のせいであろう」
「どういうことだ?」
「女が舞踏会場で顔色を悪くしていたら、たいがい男のせいだと相場が決まっている」
「なんだそれは」
わけがわからない。
げっそりとした。
「とにもかくにも、早く迎えに行ってこい」
「ああ、そうする」
「俺も行こうか?」
イセルが提案してきたが、クラエスは首を振った。
「大丈夫だ」
イレイェンを捜すのに、それは面白くない提案だった。




