5−1
言葉遊びをしようと提案をしたのは、エリエラからだった。
灌木のあいだを抜け、トウヒやモミの根を踏んで、森を進む。シダの葉が茂るなかで歩を進めていると、長年降り積もった枯れ枝がさくさくと音を鳴らした。見上げれば、針葉樹の木々に茶色の実がなっている。
「うーん、あまいと言えば、林檎」
イレイェンが長靴の底で枝を踏むと、折れた音が心地よく響いた。
「林檎と言えば……、リュメール」
エリエラが悩んだように言う。
「リュメールと言えば、羊」
続けて、ダランがすぐに言った。
「羊と言ったら、毛糸」
「毛糸と言えば、糸紡ぎ」
「糸紡ぎと言ったら、面倒くさい」
ダランがそう連想すると、エリエラから甲高い非難の声が発せられた。
「だから、兄さまはよくお逃げになっていたのね!」
「だって、ずっと座っていると飽きるじゃないか」
早朝、帝都を出発してから、街道沿いの森の入り口で馬から降りた。すでに半時ほど歩いているが、森のなかを歩くのはさして苦ではなかった。まもなく、目的地に到着するはずだった。
「タルーシャでは、糸紡ぎをするの?」
「たまによ。わたくしたちは領主の家だから、経験として子どもの頃にやったの」
「糸紡ぎはもっと南のほうがよくやるね。ミリェルさまのいたルソーラとかは、その中心だ」
「……そうなのね」
知らなかったという言葉を呑み込んで、今聞いたことを頭の中で繰り返す。あとで調べようと、心に書き留める。
イレイェンとエリエラたちが、くだけて話すようになったのは、何がきっかけだったのだろう。いつの間にか。すでにもう馴染んでいる。最初は違和感があったはずなのに。
くだけるようになって、距離が近くなったと思うのは不思議な感覚だった。
「着いたわ!」
開けた場所は、草地だった。陽の光が差し込んでいて、ぽかぽかとした心地が体を包んだ。ささやかに流れる小川は、以前見たものと同じ流れだろう。せせらぎは、丘陵で聴く音と森のなかで聴く音では、ちがって聞こえた。この空間だけに響いているような、そんな音だった。
イレイェンたちのあとから間もなくして、スエラとフォンヌ家の使用人ふたりがあとに続いた。適当な場所を見つけると、辺りの小石を取りのぞいて、てきぱきと敷物を敷いていく。その光景を眺めていると、ふと奇妙な考えが頭をよぎった。
どうして、わたしはぼうっと過ごしているのだろう。
スエラたちを手伝えば、すぐに皆で昼餉にすることができる。だのに、それが当たり前だと思っていることに、ひらめきのように気が付いた。
「——やることはあるかしら?」
スエラに声をかければ、ぎょっとされた。驚いたのはスエラだけではない。フォンヌ家の使用人たちも手を止めて、イレイェンを見る。エリエラとダランも、青い目を皿にした。
何か変なことを言っただろうか。四人の反応から、奇をてらったことを口にしたらしいことがわかる。
一番早く気を取り戻したのはスエラだった。穏やかに言う。
「ありがとうございます、お嬢さま。これは、わたくし共で調えるのでお気づかいなく」
フォンヌの使用人たちも目顔で肯いた。
「わかったわ」
いい思いつきだと思ったのだが、それは良しとされないものなのだ。
手持ち無沙汰で、イレイェンは引かれるようにして、小川の淵まで足を進める。ざくざくと草を踏みしめながら、こうして何気なく踏みつけている小さな草花たちに、名前があるのかもしれないという思いがよぎっていく。庭園で愛でられている草花と、野に育つ草花は何が違うのだろう。
小川の水は澄んでいた。透き通る水を眺めていると、白藍の色を思い出して、左胸が打った。
クラエスは今、何をしているだろう。宮廷に出仕している時間のはずだ。彼は今、何を考えているのだろう。
「なぜ、さっきのような問いを?」
腰を下ろして川面を見つめていると、ダランが同じように腰を下ろして尋ねた。
イレイェンは少し驚きつつ、
「ただの思いつきです」
と答える。驚きが言葉を丁寧にさせた。
なるほどという相槌の声に、何か言われるのだという予感を覚えた。
「職のある者から、当然ある仕事を奪ってはいけない」
禁止の言葉にして、存外やわらかく聞こえるのは、ダランの雰囲気のなせる業なのだろう。イレイェンは青い瞳に視線を合わせた。
「さっきの発言がそれに当たるの?」
「そうだよ、イレイェン嬢」
ダランが自然に目をそらした。小川に手を入れながら答える。
「使用人たちは、ぼくたち貴族の世話をすることで俸禄をもらっている。世話をすることを取り上げてしまったら、俸禄をもらう道理がなくなってしまう。それが何につながるかわかる?」
「お金がなければ……、自分や家族を養うことができない。賃料だって払うことができなくなるわ……」
ダランが首肯した。
「そうだ。だから、やろうとしている行いが思いつきであれ善意であれ、結果を考えておかなければならない」
諭されているのだ。思いつきで行動してはならない、と。誰かの上に立つ者がわきまえなければいけないことなのだ、と。
「ご助言ありがとうございます」
イレイェンが目礼をすると、ダランは明るく言った。
「でも、ぼくはイレイェン嬢の思いつきは良かったと思う」
「仕事を奪ってしまうかもしれないのに?」
「そうだね。けど、その思いつきは、使用人たちに対する思いやりだ」
「そんなことないわ。そのほうがみんなにとってご飯を早く食べることができていいなと思ったくらいよ」
善人ではないのだ。自分は。
ソーニャの顔が頭をかすめた。
「うん。そしたら、皆のことを考えた思いやりってことだ」
「わたしはそんなこと考えてないわ」
「そうかもしれない。でも、少なくとも、ぼくは好感を持った」
ダランの存外まっすぐな視線と目が合った。イレイェンは何とはなしにその視線を受け止める。
今度は、褒めてもらっているのだ。イレイェンは気恥ずかしくなった。
「……ありがとう」
「そう言ってもらえると、ぼくも気持ちがいい。だから、彼らにも彼らがやったことに対して、礼を言えばいいんじゃないかな?」
その言葉に、ダランを見た。
彼が一番言わんとしていたことが伝わってきた。
「……そうね。そうするわ」
立ち上がると、イレイェンはダランに言う。
「ありがとう、ダランさま」
「どういたしまして」
にっこりと、ダランが人好きのする笑みを浮かべた。
イレイェンが戻ると、敷物にはすでに昼餉が整っていた。
「準備をありがとう」
言えば、スエラとフォンヌ家の使用人たちが笑顔で応対してくれた。笑顔を向けられて、ダランの言ったことが正しかったことを知る。心がふわりとなった。
籠の中から出されたのは、野菜と肉をはさんだガットと、皮革に入った茶だった。キリエや玉葱、根菜のあいだに、香草と塩で味付けをし、炙った鶏肉が入っている。その具が分厚いガットにはさんであった。
スエラが食べやすく切り分ける。食前の言葉を口にしてから、そっと頬張った。鶏肉がやわらかく、かむと香草と塩の味がほどよく充満する。しゃきしゃきとした食感がやわらかさに混ざった。ガットは、噛めば噛むほど小麦の味が出て、ずっと噛んでいられそうだった。
食べ終えると、皮革から小さな器に茶が注がれる。ほのかにあたたかな茶がイレイェンの喉を潤した。
「そういえば、イレイェンさま」
一息ついたエリエラが、イレイェンに言う。
「まもなく、社交季は終わりでしょう。どうされるの?」
「父と共に、リリエーシュに帰るつもりよ」
王宮舞踏会が終わって二週ほど経っている。夏の終わりが近づき、まもなくして秋が来れば、貴族のほとんどは帝都から下って自らの領地に戻り、冬支度に入る。けれど、一部帝都に残る者たちもいる。
エリエラが尋ねているのはそのことだ。
「では、わたくしたちと同じだわ。でね、もしよろしければなんだけど——」
落ち着きのない様子でエリエラが言葉を溜める。
イレイェンが首をかしげると、青い目をきょろきょろとさせながら、エリエラが言った。
「冬のあいだ、こちらにいらっしゃらない?」
「タルーシャに?」
「ええ。タルーシャはいいところよ。寒いけれど、パドイユに降ってしまうから、意外と雪は少ないの」
どうかしら、と提案をするエリエラの目には期待が満ちていた。瞳がきらきらと輝いているのを目にすると、無碍にはできない。
父やソーニャ確認をしなければならない。——それに、クラエスにも。
それ以外は、冬のあいだリリエーシュではない別の場所で過ごすのは、とても魅力的な響きを持っていた。動き回ると熱を出していた少し前と比べて、今ならどこに行ってもだいじょうぶな気がした。
「考えておくわ」
イレイェンは答えると、手をゆすぐために立ち上がった。




