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王都の街屋敷には、リリエーシュの屋敷にいる使用人全員が上がってきたので、住む場所が変わったこと以外、イレイェンは不自由なく生活をすることができていた。
ヤンヌ家が抱えている使用人は、たったの四人であった。まず、家令のジュラス。父キャンスと共に領地の運営や、屋敷の管理を行いながら、御者も兼ねている。
次に、庭師のラタム。屋敷の庭園が、常に美しい花々や彩りよい木々で満たされ、イレイェンが好物の林檎を食べられるのは、彼のおかげだった。ラタムは、ジュラスの都合が悪い時に、御者業も行うことができる。
三人目が、侍女のスエラである。彼女はイレイェンとソーニャの侍女を勤めながら、屋敷全体の清掃を司っていた。
そして、最後が料理師のヌラット。言わずもがな、ヤンヌ家の胃袋を握っているのが彼である。食材は自ら買い出しに行き、調理を行って、給仕まで行うのが流儀であるとのたまう。屋敷の清掃の中でも、水回りは彼の領分であった。
ヤンヌ家の使用人は、このようにして兼務ができる選りすぐりの人材であったから、イレイェンとソーニャは生活に困ったことがなかった。
けれど、イレイェンは考える。
優秀な使用人たちがいなくなってしまったリリエーシュの屋敷は、問題ないのであろうか。今頃もぬけの殻である。誰の目も行き届いていないことになる。屋敷が荒廃してしまわないか、あるいは盗人に目をつけられないか、そのような不安に駆られ、それを口にすると、スエラは笑顔で答えた。
「心配はご無用です。父と夫が定期的に顔を出すとのこと。それから、私たちが不在の間は、街長が屋敷を管理するとのことです」
「街長?」
「私が住んでいる街の長です。長もその奥方も親切で誠実な方なので、安心してお任せできますよ。それに、ラタムが月に一度、リリエーシュの様子を見に戻るそうです。ですから、お嬢さまは快く帝都での生活を満喫してくださいな」
にっこりと笑顔を向けられて、イレイェンは肯くことができた。
「わかったわ。ありがとう、スエラ。
——でも、帝都にいるあいだ、旦那さんと会えないのが残念ね」
「いいんですよ。久しぶりに私がいなくて、きっと背伸びをしています」
「そんなこと言って。ちゃあんと、手紙を書くのよ?」
「心得ましたわ」
わざとらしく慇懃に返事をするスエラに、イレイェンはくすくすと笑った。
「ねえ、月に一度戻るっていうのは、ラタムが言い出したことなの?」
「そうですとも。ヌラットは日々の食事のことしか考えていないから、候補に上がらなかったんですけどね。私が行くか、ジュラス様が行くか、ラタムが行くかという話になったら、すぐに自分から名乗りをあげたのです。どうしてか、お分かりになります?」
ラタムの顔を思い浮かべる。肩幅の広いがっしりとした体躯でありながら、器用に剪定をこなす姿がよぎって、ひらめいた。
「あ、わかったわ。きっとリリエーシュの庭が、気になってしょうがないから?」
「そうなんです。あの男、器用に馬を操ったりもしますけどね、結局、頭の中はお花畑の変人なんですよ。自分の庭を踏みにじられていないか、検めに行くそうです。その神経質さをもう少し、日頃の掃除でも発揮していただきたいところです」
清掃の監督官たるスエラは、鼻から息を出して憤然と言うのであった。
「——さて、お嬢さま、完成ですわ」
イレイェンの肩に手を置いて、スエラは鏡の中の彼女に笑いかけた。
「ありがとう」
鏡には、整えられた自分の姿があった、長い髪は下ろしているが、ところどころにねじり編みや三つ編みが施されていて、無造作の中の手間が見て取れた。さりげなく白い造花が編み込まれていて、イレイェンは自然と笑みを浮かべる。着飾るだけで、綿毛のようなふわりとした心地になる。赤いばらのようなは、気持ちを高揚させた。
「よく似合ってるわ、姉さま」
「ありがとう、ソーニャ」
鏡ごしのソーニャもまた同じ赤色をまとっていたが、彼女のそれは室内着で簡素であった。長椅子に軽く横たわりながら、いつものように本を読んでいる。王都に来てからも、ソーニャの習慣は変わらなかった。
対して、イレイェンは領地にいた頃とはまるで違う生活を送ろうとしていた。椅子から立ち上がり、衣装の裾を直すと、顔を引き締める。
これから、リュメール公の夜会へと向かうのだ。
薄い外套を羽織ると、父と共に馬車へと乗り込む。御者はジュラスが担い、伴としてスエラが横に乗車した。
イレイェンのばらの衣装に合わせたのだろう。父伯の衣装は、臙脂であった。足元は黒の革靴が光る。
帝都に上がってきてからというもの、父キャンスは、当主リリエーシュ伯爵として、忙しく出入りをしていた。仔細は聞いていないが、他の領主同様に宮廷に出仕しているという。宮殿に顔を出すようになれば、社交は付きものだ。至るところで夜会の招待状をもらい、足しげく出席を繰り返している。今までのんびりと過ごしていたことが嘘だったかのように、父は多忙な毎日を送っていた。
キャンスが頻繁に夜会に出席するようになってから、イレイェンが同伴するのは今回で二度目だ。初めの一回は、一月前のマルヌーシュ公邸での会と比べて、規模の小さな会であったから、イレイェンは心底ほっとした。あんなに人が多かったら、またあの時の会のようになっていただろう。父が声をかけた夜会は、イレイェンに他者と関わることに慣れてもらうことが目的であったように思う。
そして、今回はリュメール公の主催する会である。三大公爵家の催す夜会となれば、マルヌーシュでの夜会と同等の規模か、あるいは会場が王都となれば、それ以上になるのは明白だ。気を引き締めなければ、くらくらしてしまうことだろう。
「——イレイェンさま!」
リュメール公の屋敷に入ってすぐに、ほころんだ笑顔で近付いてきたのは、タルーシャ子爵の娘エリエラであった。
エリエラとは、手紙を交わす間柄となっていた。先の夜会で再会した彼女は、イレイェンに対し、頭を下げると同時に開口一番に謝罪をしたのであった。
「先月は、本当に申し訳ないことをいたしました」
驚くイレイェンに、エリエラは済まなそうに言った。
「デビュタントに出席できなかったイレイェンさまに対し、自分が緑の衣装をまとった時のことをお話するなんて……、お気持ちを配慮せずに、本当に失礼をいたしました」
「それは……」
「正直に申し上げると、あの時、イレイェンさまがどこかに行ってしまわれた時、わたくし戸惑ってしまって。あとから事の次第を兄に話しましたら、お前が悪いと言われました。説明をされるまで、まったく気付かず……本当に、申し訳ございませんでした!」
まっすぐな金の髪が肩から落ちていくさまに慌てて、イレイェンはかぶりを振った。
「そんなこと。あの時、わたしのほうこそ大人げなかったのです。つまらぬことを気にしました。むしろ、こうしてお気遣いいただき感謝いたします。ですから、どうぞ顔を上げてください」
そこまで言うと、エリエラはおそるおそる顔を上げた。上目にイレイェンを見やる姿はきまり悪げに映ったが、同時に落ち込んでいるようにも見えた。
「……わたくし、時折人の気持ちに疎くて……ご不快な思いをさせました」
あの、という声が出た。そのあとにかける言葉が見つからず、口の中で音を決めることができなかった。
イレイェンはエリエラの気持ちが少しわかった。
あえて行ったわけではなく、意図があったわけでもなく、純粋に思うままに振る舞っただけなのに、人を傷付けてしまった時、なんて浅慮であったのだろうと自分を責める気持ちを。そんな自分と向き合いたくなくて、ガットの店主の前から逃げた自分とは違い、エリエラはなんてまっすぐなんだろう。
気が付けば、その気持ちを音に変え、言葉に変えて、エリエラに紡いでいた。聞き終えた彼女は、目を丸くして、そのあとにほほ笑んだ。
「イレイェンさまは、お優しいのですね」
聞き返せば、エリエラは続けた。
「わたくしのことを気づかってくださっています」
そんなことはないと返そうとすれば、彼女のほうが先に言った。
「——もしよろしければ、お友達になってくださいませんか?」
そうして、手紙を交わす仲となったのだ。




