病室のオルゴール
初稿執筆:2015年
僕が耳の病気にかかって、入院して手術をすることになったのは、年末も近い冬の日のことだった。
一応、手術そのものは、簡単な精密検査のあと即日行われることになり、それも無事に済んだものの、事後療養ということで、完治するまでの三週間ほどは、入院措置をとることになった。
僕が入ることになったのは、当然ながら個室ではなく、五人の患者さんが一緒になって入る、共同の病室だった。術後とはいえ、特に聴力が劣化したということもなく、身体は健康そのものだったので、随分と退屈するだろうなあと思いながら、僕は荷物を脇の机に置き、つっかけを脱いでベッドに上がりこんだ。
それでも、窓際のベッドに入れてもらえたのは幸運だったな、と思いながら、ベッドの柵にもたれかかってぼんやりと外の景色を眺めていると、ふと向かいのベッドで、カーテンを開け放し、僕と同じようにベッドにもたれた姿勢のままで、本を読んでいる人がいるのに気がついた。
その人は女性で、しかも僕と同じくらいの歳の、まだ十代とみられる、若くてきれいな女の子だった。顔つきは病人らしく、青白く不健康そうで、表情も暗い陰を落としているようだったけれど、それでもずっと眺めているとつい魅入ってしまうような、顔立ちの整った、ありていに言ってしまえば、僕好みの美少女だった。
こんな子も病気になるんだなあと思いながら、手に持つ本に目を落としたままの少女の顔に視線を這わせていると、彼女はやがて僕のほうに気がついたようで、ぱたりと本を閉じ、それを枕元に置いてから、こちらに向かってニコリと笑いかけてきた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
「今日から入院ですか?」
透き通るような、美しい声音だった。話し好きな性格なのだろう。まさかこんなに気軽に声をかけてくるなんて思っていなかったから、僕はなんだか急に照れくさく感じてしまいつつ、なんとかしどろもどろになって答える。
「ええ、まあ。実は今日手術してきたばっかりで。術後療養が終わったら、すぐに出るんですけどね」
「それはよかったですね。羨ましい」
と、いうことは。彼女は僕よりもいくらか重い病気を患っていて、入院期間もずっと長いのだろうか。だからといって、相手の病気の話を根掘り葉掘り聞くわけにもいかないので、僕は無難に話題を逸らすことにした。
「今日はよく晴れて、いい天気ですね。向こうの連峰までくっきりとよく見えます」
「山ですか。山は、もう見飽きました」
と、少女は言った。しまった、これは墓穴を掘ったかと思ったけれど、彼女は特に気にするふうでもなく、穏やかな微笑を口もとに浮かべている。
「新しく入院する患者さんのあなたに、一つ言っておかなきゃいけないことがあります」
と、彼女は言った。「わたし、だいたい毎日、夜になると発作が起こるんです。とても我慢しきれないほどの痛みではないけれど、そのときにうるさくしてしまうかもしれません。ごめんなさいね」
* * *
少女の名前は、津崎さんと言った。名前は「高華」。音読みで、「こうか」と読むらしい。「きれいな名前ですね」と僕は言った。
「いやだわ、みんな高嶺の花だっていって、ばかにしてくるんです」
「そうですか? 高貴な花って意味だと思いますけど」
「両親は、そういうつもりで名づけたんでしょうね。でもクラスメイトたちは、そう言ってきます。嫌味ではないんでしょうけどね」
そう言って彼女は、どこか悲しそうに笑った。
「高校か……。懐かしいな」
彼女は僕と同じ高校生で、学年も同じ二年生。病院のあるこの町の、隣町にある高校に通っているらしかった。僕の通う高校からもそう遠くない場所にある、偏差値の高い進学校だ。
同い年ということがわかり、彼女は僕のことを「川木くん」と、くん付けで呼んでくれるようになった。
「学校の友達は、お見舞いに来てくれないの?」と、僕は尋ねた。
「はじめのうちはよく来てくれていましたけど、みんな忙しいのかな。学年が変わってからは、月に一度くらいしか来てくれなくなりました」
学年が変わってから、ということは、少なくとも今年の春より前から、彼女はここに入院しているということだ。そんなに長いあいだ、共同部屋に閉じこめられるのって、つらくないのだろうか。確かに、しがない町の小さなこの病院は、個室が数えるほどしかなく、よっぽど重篤な患者さんでないかぎり、入ることができないと聞くけれど。
「家族の人は、お見舞いに来てくれるの?」
そう尋ねると、津崎さんは力なく首を振った。
「親は仕事が忙しくて、週末にしか会いにきてくれません」
「寂しくない?」
「寂しいですよ。だからあなたに、話しかけたんです。勇気を振り絞って」
そう言って彼女は、にこりと笑った。
僕はその笑顔を、とても美しいと思った。
* * *
「川木くんは、好きな音楽とかありますか?」
ふと、津崎さんは僕にそんなことを尋ねた。僕は戸惑ってかぶりを振る。
「特にないな。流行りの歌もこれといって興味ないし。しいて言えば、古い洋楽はたまに聴くかな。ビートルズとか、ローリングストーンズとか、そのへん。取り立てて好きってわけでもないけど」
「変わってますね」
津崎さんはそう言って、口もとに手を当ててくすくすと笑った。
「津崎さんは、何か聴くの?」
僕が尋ねると、津崎さんはなんとも意外なひとことを口にした。
「好きなバンドとか、歌手とかはありませんけど、一曲だけ、好きな曲があります」
「一曲だけ? それってどんな……」
驚いていると、津崎さんはおもむろに、ベッドの脇の机に置かれた棚の引き出しを開けて、中から小さなオルゴールを取り出した。
蓋を開くと、中から柔らかなメロディが流れ出す。それは僕のよく知っている曲でもあった。
オリジナルはフランスのシャンソン曲だったはずだけれど、あまりにも有名で、英語や日本語にも訳されて、全世界で広く歌われている。原題は「Hymne à l'amour」、「愛の賛歌」という曲だった。
「わたしがまだ小さかったころ、お母さんがヨーロッパへ仕事に行っていたときのお土産に、これを買ってきてくれたんです」
「いい曲だよね」
僕が言うと、彼女は嬉しそうに目を細めてうなずく。
「ええ、この曲を聴くと、お母さんのことを思いだすんです。優しくて、きれいで、わたしのことをとても大切にしてくれたお母さんの思い出。今はもういないけど、この箱の中に、お母さんの記憶がぜんぶ詰まっています。ただ美しくて、輝きに満ちた、何ものにも代えられない、貴い記憶」
そんなことを嬉しげに、しかしどこか悲しそうな顔をして話す津崎さんの様子を、僕は茫然として見つめていた。
なんだろう、この感じ。
会ってまだ間もないはずなのに、なんだか彼女が僕にとって、とても大切な人であるかのように思えた。
――いや、そうじゃない。きっと僕たちはこれからなんだ。
隣町の高校に通っているのだから、また会う機会はいくらでもあるだろう。もし僕のほうが早く退院しても、きっと毎日、彼女のためにお見舞いにこよう。友達が来てくれなくて寂しいって、彼女は言ってた。だから勇気を振り絞って僕に話しかけてくれたんだって、そう言ってくれたんだ。お見舞いにきた僕のことを、彼女が歓迎してくれないはずがないじゃないか。
僕はいつしか、津崎さんに心惹かれていた。
魂を奪われるほど。
* * *
最初の二日は――飲んだ薬のせいなのかな。僕も夜ぐっすり眠っていて、そこで何が起こっているのか、わかっていなかった。
* * *
異変に気づいたのは、三日目の晩だった。
苦痛に満ちたうめき声によって、僕は目覚めさせられた。
うめいていたのは、津崎さんだった。彼女はベッドの上で、シーツに爪を立ててかきむしりながら、体をよじらせて身悶えていた。必死に声を出さないよう抑えてはいるようだったけれど、苦しみに歪んだ音は、彼女の口からとめどなく漏れ出てくる。
「う……ううう……うううああ」
やがて彼女はまるで救いを求めるように、震える手を精一杯宙に持ち上げて伸ばし、枕横にあるナースコールのボタンを押した。
数分経ってから、二人の女の看護師が病室に入ってきた。一人は苦しみに耐える彼女の腕をとり――、痛み止めか、もしくは鎮静剤だろう。手際よく注射を打ち込んだ。
そしてもう一人は、なんと棚の引き出しから例のオルゴールを取り出し、苦痛に悶える彼女の耳もとで、蓋を開けたのだった。
柔らかな「愛の賛歌」の旋律が流れだす。
その音色が、きっと彼女の心の支えになっていたのだろう。今はいない、お母さんの優しい思い出が詰まったその音色。
「あああ……あああうう……うあああ」
甘く心地よい音色と、苦痛に満ちた津崎さんのうめき声が重なり、混ざり合い、一体の音となって、病室は一種の異様な雰囲気に包まれていた。
しかし、じきに注射が効いてきたのか、やがて彼女は身悶えるのをやめ、うめき声もだんだん小さくなってきて、そしてついには、うつ伏せになったまま、死んだように眠りに落ちてしまった。
看護師さんたちは、オルゴールの蓋を閉じ、淡々と彼女の体に布団をかぶせ、カーテンを引き、まるでなにごともなかったかのように、病室から出ていった。
* * *
「昨日の晩、うなされてたね。大丈夫だったの?」
翌朝、僕がそう尋ねると、津崎さんは恥ずかしそうに顔を赤くしてうつむいた。
「起こしてしまって、ごめんなさい。うるさかったでしょう」
「そんなことないよ」と僕は言ったけれど、果たしてそれが正しい返答だったのかどうかは、わからない。
「みっともないとこ見られちゃった。恥ずかしいな。……でも、昨日のは全然まし。今までで一番楽だったくらい」
「そうなの?」
その言葉をとても信じることができず、僕は問い返す。
「ええ。だって、覚えてるもの。本当に苦しいときは、覚えてない。頭の中がめちゃくちゃになって、何が起きてるのか、全然わからなくなるんです。そういうときが、一番つらい」
僕はただ驚愕して、彼女の言葉を聞いていた。
「でも、それもじきに終わり。わたし、来週、手術するんです。そうしたら、発作も起こらなくなって、ぐっすり眠れるはずだって、先生が言ってました」
「そうなんだ」
心から嬉しそうに言う津崎さんを見て、僕は安堵した。「よかったね」
「ええ。それまでご迷惑かけるかもしれませんけど、どうか許してください。運がないですよね、わたしと同じ部屋になっちゃったりして。ほかの方にも、悪いと思っています」
「そんなことないよ」と、僕は言った。「病気なんだから。自分を責めるのはお門違いだ」
「優しいですね、川木くん」
そう言って津崎さんは、またあの美しい笑顔を僕に見せてくれたのだった。
「川木くんが退院したら、またわたしのところに、お見舞いにきてくれますか?」
「もちろんくるよ」僕はうなずく。
頼まれなくたって、たとえ拒まれたって、それをやめるつもりはさらさらなかった。
「手術して、わたしの体調がもう少しだけ回復したら、いろんな場所へ連れていってくれますか? 看護師さんが連れ出してくれないような、遠いところまで。わたし、山のふもとの、公園に行ってみたいなあ。あそこの池、ハクチョウが飛来するそうなんですよ。春には、桜がいっぱいに咲き乱れるんです。きれいだろうなあ」
「そうだろうね。おやすい御用だ」
お望みとあらば、世界中のどこへだって連れていってやる、と言いたいところだったけれど、非現実的な話は、冗談っぽく聞こえてしまうのでやめた。
「やったあ。それじゃあ、川木くんが退院しちゃっても、気を落とす必要はないんですね。わたし、その日を心待ちにしていますから。嬉しいなあ」
津崎さんは、心の底から嬉しそうに、そう言って、明るく微笑んだ。
* * *
昨晩の発作が軽いものだったという津崎さんの言葉は、どうやら本当らしかった。
四日目の晩、彼女はさらにひどい発作にみまわれた。
本人も、その日の発作のひどさには、かなり早い段階で気づいていたのだろう。苦しみだしてから割とすぐに、ナースコールのボタンに手をかけていた。
だが、ボタンを押してから看護師がやってくるまでのたった数分間さえも、彼女にとっては耐えがたい地獄の苦しみだった。
枕元に積んでいた本を散らし、リンネを爪で引き裂いて、自らの身体もベッドから墜落させた時点で、ようやくナースたちがやってきて、彼女の腕に注射針を挿し込んだ。
「う……うぐああう……あああがあうぐ……」
今にも口から泡を噴き出しそうな様子で、彼女はもがき苦しんでいた。
ベッドの上に戻されてからもしばらくは、その苦しみが鎮まることはなく、彼女は身をよじらせていた。
看護師が、オルゴールの蓋を開ける。
カリカリと音を立てて回りながら、機械は、穏やかな音色を奏ではじめる。
またしても病室が、異質な雰囲気に飲み込まれた。
「あああ……あががうぐあ……」
声を押し殺して叫びながら、津崎さんは、懐かしい記憶に耳を傾けていた。
* * *
「本当にごめんなさい。昨日は、とてもうるさかったでしょう」
津崎さんは、ばつが悪そうに顔をうつむけてそう言った。僕はかぶりを振る。
「来週までの辛抱だよね。そうすれば、毎晩の発作からも解放される。それまで、なんとか耐え抜こう。僕も応援するよ」
「ありがとう、ございます」
そう言って、津崎さんは、照れくさそうながら、また笑った。
彼女は、胸に抱いたオルゴールの蓋を開ける。
あの音楽が、流れだす。
「そのオルゴール」
と、僕は呟く。「発作が起きてるとき、看護師さんが聞かせてくれてたね」
「はい」と、彼女はうなずく。「この曲を――この音色を聴いているときだけは、すぐ近くにお母さんが立っているような気がするんです。がんばれ、がんばれって言ってくれてるような。どれだけ苦しくても、わたしがそばについているからって。不思議な気持ちですよね」
きっと彼女の苦しみを和らげるのは、鎮静剤でも、痛み止めでもないのだろう。
お母さんの思い出だけが、どこまでも美しい記憶だけが、彼女の生きる力になっているに違いない。
そのとき僕は、そんなふうに思った。
* * *
津崎さんの発作が一番ひどかったのは、手術の前の日の晩だった。
きっと彼女が以前言っていた、「頭の中がめちゃくちゃになって、何が起きてるのか全然わからなくなる」というのが、あの状態なのだろう。
彼女は声を押し殺すのをやめ、ひたすら叫んでいた。
ベッドからずり落ち、床を這いずり回って、ナースコールにも手が届かない様子だったので、僕が急いで飛び起きて、彼女の代わりにボタンを押した。
僕は、暴れ回ろうとする彼女の体を抱いてベッドの上に横たわらせ、汗まみれの手を握っていた。
「がんばれ、がんばれ。もうすぐ看護婦さんが来てくれるからな。そうしたら――そうしたら、この苦しみは、今晩で終わりだ」
しかし、彼女は本当に苦しそうで、今にも死んでしまいそうな様子だった。いったいどうすれば――、と迷いかけた僕の目に、机に置かれた小さな木箱が飛びこんできた。
僕は急いでそれを手に取り、ねじを回して蓋を開く。
「ああああああああああ、ううわあああああああああ」
奏でられる同じメロディ、叫び続ける津崎さんの声。
僕は心臓ごと、引き裂かれそうになった。
* * *
「手術は十時間もかかるんですって。だからわたし、今日は病室に夜まで帰ってきません」
少し心細そうな表情で、しかしむりにでも笑顔を作って、津崎さんはそう言った。
「病室に帰ってきても、今夜は麻酔で眠っているそうなので、夜中に起きたりはしませんから。川木くんも、今夜はぐっすり寝てください」
「そんなことは気にしてないよ」津崎さんを元気づけるため、僕はそう言って笑った。
「でも、昨日はひどいありさまだったでしょう。わたし、何も覚えていないんです。きっと、川木くんにも大変なご迷惑をかけたんじゃないかって、気になってて」
「昨日は、確かに驚いたけど、それも終わった話だ。手術が終われば、もうそんなふうに苦しむこともなくなる。今日はがんばってね」
「はい、ありがとうございます」
「――っと、忘れちゃダメだ。これ、津崎さんにあげるよ」
「なんですか、これ?」
僕が手渡したのは、山のふもとにある神社のお守りだった。父さんに頼んで、今朝、お見舞いついでに持ってきてもらったのだ。
「手術成功を祈るお守り。間に合ってよかった。もしかしたら、手術室までは持っていけないかもしれないけど、そばに置いておくだけできっと効果あるから」
僕がそう説明すると、津崎さんは嬉しそうに顔を綻ばせ、お守りを強く握りしめた。
「ありがとうございます」
彼女の元気な姿がまた見られるように、僕は窓から見える山並みに向かって、手を合わせる。晴れていてよかった。いい日和だ。
きっと大丈夫だろう。なにしろ彼女には、お母さんもついているのだから。
* * *
しかし、夜になっても、津崎さんは帰ってこなかった。
消灯時間がきて、電気が消されて、部屋が真っ暗になっても、それから何分も何時間も待っても、彼女は現れなかった。
僕は一睡もせず、一分一分に期待をこめて病室の扉から彼女が入ってくるのを待ち続けたけれど――、
結局、その願いは叶わなかった。
* * *
朝になって、看護師が一人、部屋に入ってきた。
その人は、津崎さんのベッドのカーテンを開けると、雑多に積み上げられた品々や、彼女の荷物やらを片付けはじめた。僕は、あっけにとられてその様子を見ていた。
「あの……」
いてもたってもいられなくなり、僕はその人に声をかけた。彼女は、煩わしそうにこちらを振り返った。
「なにをしてるんですか?」
「あなたには、関係ないことです」
ぴしゃりと撥ねつけるように、看護師は言った。たまらず、僕は言い返す。
「でも、そこって津崎さんのベッドですよね。津崎さんは、どこにいるんですか? 手術は、終わってるんですよね」
「あ、あなたもしかして川木さん? 川木道也さん?」
看護師は、まるで話をはぐらかすように、僕の名前を尋ねた。
「そうですけど、それが何か?」
「津崎高華さんから、渡すよう頼まれているものがあります」
そうして彼女がベッド脇の棚の引き出しから取り出したものは、あの小さなオルゴールだった。
僕は茫然として、言葉を失う。
「え……なんですか、これ」
「オルゴールでしょう」
違う。そんなことは、言われなくてもわかっている。僕が聞きたいのはそういうことじゃなくて――、
「これ、津崎さんの大切なものでしょう。母親の形見じゃないんですか? なんで僕に……」
「さあ、わたしに聞かれても」
看護師は冷たくそう言って、「あ、それともう一つ」
ナース服のポケットから取り出した「それ」を、ぶらり、と僕の目の前に差し出した。
「これもお返しするように言われています」
それは、山のふもとの神社で買ったお守りだった。
僕が津崎さんに手渡したはずの、快復祈願のお守りだった。
ぶわっ、と僕の目に涙が溢れてきた。
看護師の口から聞かずとも、僕はすべてを理解した。
「な……なんで」
なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。
退院したら、お見舞いにきて欲しいって言ったじゃん。
山のふもとの公園まで、連れていくって、約束したじゃん。
ハクチョウを見て、春になったらお花見をするって、話をしてたのに。
それぜんぶ果たせないまま、さよならも言えないまま、こんな形でお別れなんて、
こんな形で、この世からいなくなってしまうなんて。
そんなのって、あんまりだ。ひどすぎる。残酷だ。
「やめてくれ。いやだ、やめてくれ! やめてくれ、やめてくれ!!」
僕はそれから、声を上げて大泣きした。
* * *
僕はその日の晩、オルゴールの蓋を開けて、音楽を垂れ流しにしたまま、眠りに落ちた。
昨夜、一睡もしなかったことに加えて、涙を流しすぎて、疲れ果てたのだろう。不規則に乱れて脈打つ動悸を抑えつけ、抗いようもなく僕の意識は睡魔に侵食されて消えた。
あれから、すぐに津崎さんのベッドはきれいさっぱり片付けられて、いつでも新たな入院患者を迎え入れられるように整えられた。
主治医の先生が言うには、「もし自分になにかあったら、この大切なオルゴールを、向かいのベッドの川木道也くんという人にさしあげて欲しい」と、津崎さんからあらかじめ言われていたらしい。
手術の成功率が五割を切っていたことを、彼女は口にしなかったが、ちゃんとわかっていた。
――このオルゴールを、わたしだと思って、大切にして欲しい。
奏でられる音色を聴くたびに、自分といた時間を思い出して、懐かしく感じて欲しい。
わたしがお母さんの記憶を大切にしてきたように――。
彼女はそう言ったのだそうだ。
だから、僕はオルゴールを抱いて寝た。開いたままのオルゴールを。
流れ続ける曲を聴いて、いつでもそばに彼女がいるように、
錯覚し続けられるように。
* * *
次の日の朝、僕は目覚めて、自分の聴覚が死んだことを知った。
何も聞こえなかった。風の音も、人の声も、シーツがこすれる音も。
あたりに漂うのは完全な静寂で、無音。
ねじの切れたオルゴールは、回っていない。
自分の存在さえも、かき消されてしまったみたいだった。
それなのに――、
頭の中で、鳴っている。
オルゴールのあの曲が、繰り返し、繰り返し。
止まることを知らずに、何度も、何度も、何度も、何度も。
鳴り響き、奏で続け、そして死んだ聴覚のなかで狂いはじめる。
それに伴い、聞こえてくるのは、
――彼女の悲鳴。
うめき声、絶叫、苦しみに満ちた悲鳴、悲鳴、悲鳴。
頭のなかで、その音は、際限なく大きく鳴り渡る。
「うああああああああああ」
「あああああ……ががあぐうううあ」
僕がいくら願っても、どれだけ耳を塞いでも、鳴り止まないその音は、不協和音に入れかわり、どんどんどんどん、大きく響いてくる。
「やめて、やめてくれ」
僕は呟く。
でも、呟かれたその声も、僕には聞こえない。
「止まってくれ。聴きたくない。もうこの音は、聴きたくないんだ」
ガリガリ、ギリギリと機械は回り、不協和音を奏で続ける。
「いやだ、誰か、消してよ。誰か、この音を消して」
それでも悲鳴は、叫びは、苦痛のうめきは、軽やかなシャンソンのメロディに乗って、僕の頭に響き続ける。
僕は渾身の力をこめて叫んだ。
「誰かあああああああああああ!!」
耳が聞こえないから、どれだけの声で叫んだのかもわからない。周りの患者さんたちが、僕のことを変な目で見たかもしれない。でも耳が聞こえないから、そんなことも気にならない。
僕はひたすら狂いながら、叫び続けた。
殺してくれ、誰か僕を殺してくれ――、と。
喉が焼け切れ、声が出なくなるまで。
――何も、見えなくなるまで。
作者評価:
12月31日、2015年最後の日に、
午前中いっぱいかけて書いた、習作短編です。
ロックバンド「ムック」の『オルゴォル』という曲の
歌詞を自分なりに膨らませて書きました。
現時点での自身の作風、文体を十分出せたのではないかと思います。