紅葉〜くれないば〜
――気が付けば、男はこの地に辿り着いていた。
コートの襟を立て、微かに体を震わせながら、それでも男は歩き続ける。ただ、どこへともなく。
山深い土地。
今は色鮮やかな赤や黄色に染まり、えもいえぬ美しさを見るものに与える。はらはらと落ちていくそれは、さながら天からの贈物のよう。
ひとしきりそれを見やって、男は再び歩き出す。あてどもなく。
ただ彷徨う様に歩き続けた男は、見晴らしのいい小高い場所まで着くと、そこで脱力したかのように腰を下した。
小さく溜息を漏らし、眼前に広がる絵にも似た風景を見渡した。
……なにもない、風景。あるのはただ美しい自然だけ。いや、それこそがすべてなのかもしれないが。
今のこの季節では、同じものを見つけ出すのが困難なほど、多くの色彩に埋もれている。
美しい景色。まるでこの世ではないような……。
落ちていく色彩の欠片は、黄金色。紅色。名もないような、複雑な色。
男はただ、それを見つめる。
……男は、何もかもを失った者だった。
仕事のために一人の女を失い、その代わりに違う女を手に入れた。違う女は男にいろいろなモノを与えてくれる筈だった。新しい仕事、新しい生活、そして幸福。
実際、女は幾つかのモノを与えてくれた。新しい家庭と、家族。そしてこれからの幸福。それらが得られるはずだった。
しかし、男はそれを失った。与えられるその前に。
男には、仕事しかなかった。だから仕事のために女を捨て、新しい女を手に入れたのに。その仕事のために、男はその女をも失った。残ったのは、やっぱり仕事だけだった。が、その仕事すら、男は失った。……いや、捨ててきた。
もう、なにも残っていなかった。そして男は唯一残った、しかし残り滓のように自分そのものを失うために、あてどなく動き始めたのだった。
『むかしはねぇ、ここにもいっぱい人がいて、賑やかだったのよ』
そう言ったのは、むかし付き合っていた女。仕事のために捨てた女。
女は懐かしむ目で景色を眺め、そう言っていた。――それは、過去の出来事。
初めて愛した女と初めて旅行した先が、女の故郷だった。
何もない、山深い土地の、更に奥まった辺鄙と表現するに相応しい場所。
『だけどね、いなくなってくの。少しずつ。なにもないから、ここは。だから、ある所へ行くの。私も、その一人なんだけれど』
そう言って、寂しそうに微笑んだ顔は、別れたときのものと同じであったことを、男はまだ覚えている。
そんな女と言った場所に、ここはよく似ている。
もしかしたら同じ場所なのかもしれない。無意識のうちに、男はこの地を選んでいたのかもしれなかった。
それほどに、愛した女だった。それでも、別れたことを後悔していなかった。ただ、仕事のために娶った女には、悪いことをしたと思っている。
愛しているわけではなく、愛の言葉を口にすることもなく。ただ仕事のためだけに手に入れた女。それでも女は優しく、暖かかった。男に安らぎを与えてくれた。そのほかにも、たくさんのものを。そして、もっと与え続けてくれる筈だった。
つい先日、可愛い盛りの娘と共に失った。
無残な事故だった。
* * *
――はらはらと、自然の一部が風邪に舞う。
『おかえりなさいませ』
風に乗って、どこからか声がした。
『おかえりなさいませ』
再び、声。女のそれ。次第に近づくその声に、男は声の主を捜す。
『おかえりなさいませ』
とうとう声は、男の背後まで近寄った。振り返る。
……そこには、白い着物を纏った、この世のものとは思えないほど美しい女が立っていた。
『おかえりなさいませ、おまえさま』
「お……おれ、は……」
女は艶然と微笑む。無効の景色が、風に揺れた。
何も言えないでいる男を前に、女は微笑すると、優雅な動作で踵を返した。物音立てずに歩き出す。男はつられるようにして、女の後を追った。
辿り着いたのは、更に深い山の中の、今にも朽ち果てそうな庵だった。女は庵の扉を開くと、男を招いた。男はただ黙って従うことしかできなかった。
中は思ったほど荒れていなかった。簡素すぎるほど何も置かれていないそこは、随分と昔の風景にどことなく似ている。
「君はずっとここにいるのか?」
茶を供され、湯飲みの中身を飲み干したのち、男は問う。答えは笑みと共に返ってきた。
『はい』
「さみしくはないのか」
『はい』
「でも、なにもない場所は不便だろう?」
『いえ』
「都会には、行かないのか」
そう尋ねたのは、女がどことなく別れていた女に似ていたからか。
『はい』
答えた女の顔は、あくまで平然としていて。何も気にすることはないのだと言いたげな、仄かな笑みを浮かべている。
『おまえさまは、なぜこのちに?』
問うた女の声は、静かに染み込むような不思議な音色を湛えていた。男は今までのことを女に話し始める。まるで術に掛けられたかの如く、男は淡々とそれを話して聞かせた。
『おかわいそうに……』
そう、悲しげな声で慰めの言葉を口にし、女ははらりと涙を零す。
その姿があまりにも人間離れしているような違和感を覚えながら、男は女に捕らわれた。
「でも……君に逢えた」
そう、決心の言葉を口にし、男はひとつを手に入れる。
「君がいれば、もうなにもいらない」
だから……。
男が言葉を継ぐ前に、女は頷いた。それが、はじまりだった。
一体、どのくらいの月日が流れたのかは、もう分からなかった。そんなことは、もうどうだってよかった。
つらつらと、微睡むようなゆっくりとした時間の流れの中、男は平安を手に入れた。
ただのんびりと、日がな一日を女と共に過ごす。
なにもせず、ぼんやりとしたまま。
それは甘い蜜に浸っているような感覚。それとも母体中のような。ただ、ひどく安心する、もうこれ以上のものは要らない程の、至福。
女は男に寄り添い、更なる安穏を男に与える。男はそれを受け入れる。
――なにもかもが、ゆったりと流れていく。
何もない山奥にあるたったひとつ。
それがすべてだった。それこそが、すべてであった。
それは、男に与え続けるものであった。
もう、何もいらない。これだけでいい。それほどのもの。もうこれ以上の幸せはない。
この幸福を、男は失いたくなかった。
ずっとこうしていたい。ただ何もせず、静かにのんびりと過ごしていたい。それだけでいい。いや、それしかいらない。ほかはもう、なにもいらない。
男は微睡みながらそう考える。
静かな大自然の中、自分も自然の一部となってずっとこしていたい。
さながら、女の住まう庵は繭。母体。
そこに還り、もう何もかもを遮断してずっとそうしていたい。それが望み。それこそがすべて。
……そう、あり続ける筈だった。しかし、夢は醒める。
夢だからこそ、醒めるのであった。
* * *
時間の流れの緩慢なこの庵の中で、男は気怠いような、それでいて冴え冴えとしたような曖昧な感覚のまま、女の膝枕で過ごしていた。
例えようもないほど美しい女の面をぼんやり眺め、闇より深いその髪に指を絡めながら、至福の時を過ごす毎日は、飽きることなく、それでも止まることもなく流れていく。
女は不思議な存在だった。
その容姿もさることながら、着ているものも、話す言葉も現実離れしすぎている。それでも、この女にはそれが一番合っているような不思議な感じがする。違和感なく、纏っているその雰囲気こそが、不思議な女の存在を確かなものとしていた。
――いつか男は、女に問うたことがあった。名は、と。
すると女はただやんわりと笑み言った。
『ななど、ありませぬ。どうとでもおよびくださりませ』
そう言って、口を噤んだ。
別に気になるほどのことでもなかったため、男はその後、話題とすることはなかった。男にとってこの女は、自分の手に入れた唯一の至福である。名など、どうでもよかった。この女が今こうしてここにある、女がいさえすれば、他のことなどはもう、どうでもいいことだった。
しかし、妙に気になった。この女は何者なのだろう、と。
人里離れたこんな山奥にただ一人住み、どうやって生活していたのか。いや、今だって、どうやって生活しているのか……。
そのあたりのことは、男には分からない。ただぼんやりと時を過ごしているが、実際人が生きていくには必要なものは数多くある。それくらいは分かるが、どうやって女は生活しているのだろう、生活していたのだろう。
――それが、夢の醒める瞬間。
意識は冴え渡っていく。まるで霧が晴れていくかのように。
女は一体、なんなのだろう。
妖か、それとも魑魅魍魎か。
それでも、恐怖だけは、男は抱けなかった。
今こうして至福のときを過ごせいてるのは紛れもなく女の御蔭であるし、男はそれを欲していた。女の正体など、詰まるところどうでもよかった。
ただ、このときが続けば……。それだけが願いだった。
それなのに、気になった。気になってしまった。
だからつい、口にする。
「君は……なんなんだ?」
その一言で、夢は完全に醒めた。
突然風が吹き荒び、庵は煙のように風に消えた。女の髪が風に舞う。そして女の姿も……風と共に消えていた。
「これは……一体…」
覚醒は、次第に早まる。夢から現への変転。
「おれは…一体、何をしていたんだ」
記憶は曖昧なまま、それでも甘い夢をみていたのは、ぼんやりと覚えている。
「ここは、どこだ?」
そうして、何故こんな所にいる。
自問して、思い出す。何もかもを失った自分に終止符を打とうと、ここを訪れたことを。死を考えていたことを。
混乱している記憶を呼び覚ましながら立ち惚けている男の前に、気付けば女が立っていた。
もしかしたらこの女は、山に棲む魔なのかもしれない。
男はそう思いながら女の顔を見る。ひどく悲しげな表情をしていた。
「お前は何者だ?」
不審げに声を上げると、女は静かに首を振った。長い髪が風に舞う。
不思議な感覚がした。この女を知っているような……。
白い着物を身に纏い、着物と同じように白い、美しすぎる面と、闇の一部であるような長い黒髪と。控えめすぎるほどの表情。
『おかえりなさいませ』
静かに響く、女の声。
そのひとことで、男はすべてを思い出す。――甘い、至福の時を。
「き、み……は……」
『おかえりなさいませ』
「戻って…帰ってきたよ、おれは」
『おかえりなさいませ』
「だから、帰ってきた。君の元へ」
そう言った男の言葉に、女は悲しげな表情のまま首を振った。
『おかえりなさいませ』
「だから……っ!」
苛立だしげに言った男に、女は涙を零しながら首を振り続ける。
『もう、ここにとらわれてはなりませぬ。……おかえりなさいませ』
「どういう…ことだ」
言葉の意味が分からず、男は呟く。
『あなたさまは、ここにいてはならぬかた。だからもう、おかえりなさいませ』
「でも…君はここにいる。ならばおれも」
すると更に悲しみを深くさせ、女は駄々をこねるように首を振る。
『なりませぬ。とらわれてはなりませぬ。もう、おかえりなさいませ。ごしょうです』
「頼む。ここにいさせてくれ。ずっと、君の元に……」
『なりませぬ。なりませぬ。ごしょうですから、おかえりなさいませ。あなたさまのようなかたは、
ここにいてはならぬかた。なのに、まよいこんでしまっただけのこと。もとのせかいへおかえりなさいませ。それが、ことわりともうすもの』
泣きながら言う女は、妖だとしても美しく。そして儚い存在だった。
『おまえさまとともにいられればと、おもうこともありました。でもそれは、ねがってはならぬこ
と。かなうことないもの。おまえさまとは、すむせかいがちがいまする。だから、もうおかえりなさいませ。このきもちをわかってくださりますならば』
「…………」
男は何も言えなかった。
『おたのみもうします。もう、おかえりなさいませ』
泣きながら同じ言葉を繰り返す女は、ただただ美しく。悲痛な想いはいやと言うほど身に沁みる。
男は身を切られる想いで、それでもやっとのことで頷いた。
「帰るよ」
そう口にすれば、女の表情は更に悲しさを増すだけで。それでも、頬を伝う涙そのままに、女は笑みを向けた。
『おかえりなさいませ』
儚い笑顔を男に向けたまま、女は言う。最後の言葉を。
――風が吹く。女の髪がたなびく。
風は様々に彩られた木の葉を散らしながら去っていく。風に、女の最後の言葉がのせられた。
ざざ。
さ、ざあっ。
その一つ一つに意思でもあるかのように、木の葉は勢いよく風に舞う。そして……。
風は過ぎ去った。
その場には、男が残された。
やはり、残されたのは、男だけであった。
「おれには…何も残されはしないのか」
呟いた男のそばを、優しい風が通り抜けた。
『おまえさまにのこされたものは、たくさんございます。ただ、それにおまえさまがきづかれておらぬだけ……』
そんな声を、聞いた気がした。
そして男は、歩き出す。
* * *
どこをどう辿ったかは分からなかった。
男は気づけば、駅にいた。
まだ、あの夢のような出来事を覚えている。戻れるならば、戻りたいとさえ思う。
しかし、それはできなかった。
女の悲痛な願いを壊したくなかった。我が身を引き裂かれる思いで、男は決断したのだから。どんなことがあっても、男は帰らなければならないのだから。
でも、どこへ。
それすら見失っていることに男は愕然とした。
そもそも、どこにいたのだろう。夢のような日々は、どこにあったのだろう。
女と過ごしたのは、どこにあったのだろう……?
ホームに滑り込んできた列車に乗りながら、男はふと、車窓を眺める。
色とりどりの紅葉に、そして多くの自然に包まれた美しい場所。
――戸隠。
あぁ、そうか…。
彼女は…。紅葉だったのだ。
実は、信州在住の某ミステリ作家さんが主催していた
「ミステリアス信州」というキャンペーンで投稿を予定していた作品で、戸隠の鬼女(貴女)もみじを題材に書いた作品でもあります。