第四話 名前
草原にはこんな諺がある。肉を食おうと思ったら家畜を殺して食い、何か飲もうと思ったら家畜を絞って飲めばいい。遊牧を生業とする彼らにとって、例えば一頭の羊を屠って捌くことは何ということのない日常の一幕に過ぎないのだ。
とはいえども、やはりそれを初めて見る者にとってはあまり気分のいいものではないことも確かである。真っ青な顔をしたアルは地に膝をつき、手で体を支えながら吐物と共に失った呼吸を取り戻そうと大きく口を開いていた。
「何も全部見なくていいって言ったじゃない」
彼の背を撫ぜるヴィーカはそう肩を竦めた。朝一番に現れ、どうやって屠るのかを見てみたいと言ったアルは途中で何度も吐きながらも結局、羊が肉と骨と皮と毛に別たれるまで見届けたのだった。
「あれの何が嫌なのかしらね」
かつてサーニャが哀れな羊の声を聞くや否や卒倒してしまったことを思い出して、ヴィーカはそんな疑問を口にした。彼女にとっては屠殺の様子など昇っては沈む月と太陽くらいに見慣れたものであり、アルが抱いていた惨酷という感覚などはまるで理解の外にあった。
「姫様、持ってきましたよ」
革袋を手にしたサーニャが走って来る。彼女は袋口を縛る紐を解き、アルの口元に寄せてあげた。死にそうな声で礼を述べた彼はそれを手に取って一口、二口と羊乳を流し込み、胃液で焼き切れそうになった喉を潤していく。それでようやく落ち着きを取り戻した彼は、ゆっくりと立ち上がるとひとつ深呼吸した。
「アル、大丈夫?」
そんな彼を心配して尋ねたヴィーカだったが、サーニャはそれが自らへの質問かと勘違いしてしまった。
「ええ、大丈夫だと思いますよ」
何の気なしに答えたサーニャに彼女は憮然とする。
「あなたに訊いてないわ。私はアルに訊いてるの」
思わずヴィーカは刺々しい声を彼女に向けてしまう。申し訳ありません、とサーニャが慌てて謝っても彼女は返事をしない。何て煩わしいのだろう、と彼女は心の中で苦々しげに唾棄した。
「自分から見たいって言ったのにごめん、でももう大丈夫、だそうです」
「そう」
おずおずと申し出るサーニャに、ヴィーカは短くそれだけを告げた。彼女は訊こうと思っていたことを全て胸の奥にしまい込み、口を横一文字に閉ざした。
アルはもう一度羊乳を口に含んでからその袋をサーニャに返し、それからサーニャと言葉を交わし始める。ヴィーカには理解することの能わぬ、彼らの言葉を。どうしようもない溜め息を噛み殺し、ヴィーカは彼の背後にある屠殺場の方へ視線を向ける。そこから男たちが羊の各部位をゲルに持ち帰って行くのが、そしてまた別の羊が連れて来られようとしているのが見えた。
その羊は血の匂いを嫌って屠殺場に進もうとしない。羊の習性として、山羊を先頭に押し立てれば彼らはどこへでも安心して行く。山羊が羊の群れの中に混じり、群れ全体の二割から三割を占めているのはその為である。だから、羊を屠る際は普通山羊を誘導して集団で屠殺場に向かわせるものなのだが、たかだか一頭を屠るくらいで群れを動かすのも確かに面倒ではあった。羊の傍らの男が持つ鞭は山羊の代わりとでも言うべきだろう。拒みに拒み、甲高い声を上げて引き返そうとする羊に向け、その男は鋭く鞭を振り上げた。
痛ましい破裂音に続いて悲痛な鳴き声が響く。しかし、ヴィーカの耳に入った音はそれだけではなかった。小さく詰まった短い悲鳴。その声の主は、アルだった。
悲鳴を上げた彼はまるで殴りかかられたかのように体を強張らせ、雷鳴に怯えるが如くその耳を塞いでいた。再び鞭の音が聞こえてくると、彼はより一層耳を押さえる手に強く力を込め、少しでも音から遠ざかろうとうずくまる様にその背を曲げる。その肌には一瞬にして汗が浮かび、口は呪文のように何かひとつのことを言い続けていた。一見異常にしか見えないアルのそんな行動に、ヴィーカは掛ける言葉さえ思いつかない。
「やめて! その音を出さないで!」
その時、サーニャが尋常ではない剣幕で叫んだ。そして男の返事を待つこともせず、彼女は体を震わすアルの手を取り鞭の音から引き離すべく駈けてゆく。
「え? サーニャ、待って、どこへ」
「ごめんなさい、姫様。とにかく、行かせて下さい」
アルを引きずるようにしながらサーニャは絶叫した。そのまま彼らは行ってしまう。何ひとつ訳が分からないヴィーカを残したままにして。
「どう、して?」
ヴィーカはそれしか言うべき言葉を持たなかった。羊の末期の声も今の彼女の耳には入らない。どうしてアルは鞭の音に怯えていたのだろう、どうしてサーニャはすぐにそれに気付けたのだろう。だが、何よりも。
「どうして……何も言ってくれないの」
彼女は唇を噛み締める。怒りや悲しみや、焦りや不安がないまぜになって真っ黒になった心に潰されそうになりながら、ヴィーカはゆっくりと歩き出した。思えば今日はまだ何も食べていない。空腹を癒せば、きっとこの感情も澄んでいくだろうと願いながら、彼女は家へと歩を進めて行った。
その途中、彼女はふと立ち止まった。彼女の目に留まったのは四人のメルキの娘たち。ヴィーカとさほど歳の変わらない彼女たちは円を描くようにして座り、かしましくお喋りしながら花飾りを作っていた。独りでいるとどうしても、あの円の中に自分も入りたいなどという、諦めたはずの欲望が鎌首をもたげてきてしまう。互いに嫌な思いをするだけだと何度も、何度もヴィーカは自身に言い聞かせる。それでもヴィーカは彼女たちから視線を逸らすことが出来ない。
「ねえ、そこの君」
ふと聞こえた声にヴィーカは振り向いた。初めて見る顔の男が二人、馬に乗って彼女に近付いて来ている。バリシオの訛りは感じなかったから、おそらくこことは違う場所に住んでいるメルキの者だろう。
「何かしら?」
「今、時間あるかな。一緒にお昼でもどう? 俺たち、西の方から来たんだけど、君みたいな可愛い子がここに居るなんて知らなかったよ」
先頭を行く男は馬上から軽薄な声でヴィーカに呼びかけた。遠駆けは単なる馬術の訓練だけではなく、このように他所の集落を訪ねての親善交歓──有り体に言えば女漁り──という側面も持っている。遠駆けは男がするものだという観念はそういう点にも依るものだった。
さて、誘いを掛けられたヴィーカは思案する。馬から降りず声を掛けてきた辺り、彼らはこの手のことにまるで慣れていないように思える。それ以前に、まさかこのヴェロニーカ・アルトゥーロヴナを知らないということが彼女には全く信じられなかった。
「そうね、ご一緒させてもらおうかしら?」
だがどちらであろうと構わない、と断じた彼女は首肯した。知っていて誘いを掛けているなら受けてみるのも一興だし、本当に知らないのなら彼らにいい教訓を与えることが出来るだろう。
「本当? おい、やったぜユーラ。聞いてたか?」
「もちろんさ。やったね」
馬上の二人は大袈裟に快哉を叫び、嬉しそうにその手を取り合った。ヴィーカの読み通り、彼らはここに来るどころか他所で女を引っ掛けること自体が初めてだったのだ。最初の一回目で成功という想像以上の成果は彼らを勢いづかせる。
「俺はマクシム。シーマでいいよ」
「それで、こっちはユーリイ。ユーラって呼んでくれ。ねえ、君の名前は?」
ああ、本当に知らないのか、とヴィーカは心中笑ってしまった。ここで名を偽って眼前の二人に夢を見させることも彼女は出来た。だがそれは結局、互いに傷を残すだけだと十分に彼女は理解している。柔和にほほえんだ彼女は、威厳に溢れた声で名を告げた。
「私はヴェロニーカ。ヴィーカで構わないわ」
彼女の名を知り、二人の若者はその紅潮した頬を引き攣らせた。見る見るうちに血の気を失っていくその顔。ほほえんだまま何も言わない彼女の視線に射竦められながら、彼女を誘った男は震える声で尋ねる。
「あなた様は、まさか、ヴェロニーカ・アルトゥーロヴナ・チェルカソヴァ様では、ないでしょうか」
「そうよ。ここには私しかヴェロニーカは居ないわ」
その瞬間、あっと声を上げた二人は転がり落ちるように馬から飛び降り、地に膝をつけると頭を下げて許しを乞うた。
「申し訳ありません、姫様。どうか、どうか、先程までのことはお忘れになって下さい」
「姫様、知らなかったとはいえとんだご無礼を。どうかお許し下さい」
彼らの口から流れ出るのは遙か昔から使い古されてきた常套句。時と場合と場所を間違えなければ常に一定の意味を発揮するそれは、本心を隠したい者ほど好んで使うものだ。
「構わないわ。気にしないで頂戴。こちらも嫌だったわけではないのだから」
そしてヴィーカもまた、同じような使い古しの表現を口にしていた。彼女が見せたくなかったのは、自分から招いておきながらこの状況に痛んだ自身の心と、何度も何度もこの名の力を知らしめられていながら、それでも一分の期待を捨てきれていない幼稚な理性だった。
脱兎の如く逃げ出した二人の背を眺めるのも早々に切り上げ、ヴィーカは再び家路を急いだ。空腹はいよいよ増してきており、先程話している時に腹の虫が騒がなかったのは幸運だった。
ヴェロニーカ・アルトゥーロヴナ。その名が自らに投げかける影の大きさを、彼女はこの上なく憎んでいた。ありのままの自分を覆い隠し、ありもしない自分を作り出すそれは、しかし、どんなに憎悪の炎を立ち上らせたところで消し去ることは出来ない。
誰かの力になりたいという彼女の願いは実のところ、自分のことを、『姫様』ではなく『ヴィーカ』として、見てもらいたいという思いの裏返しに過ぎなかった。少なくとも彼女の中ではその二つの事象は表裏一体を成す存在だったのだ。だから、アルとサーニャが何も言ってくれなかったあの時、ヴィーカはきっと理由があるはずなのだと分かっていながら、一抹の寂寥が心に穴を空けるのを止められなかった。
そして、徐々にヴィーカは気付き始めていた。アルとサーニャが仲睦まじくしているのを見るのを好まないのは、サーニャをアルに取られてしまうと思ったからではなく、むしろその逆であったということに。『海から来た人』でありながら、自分から最も遠い存在でありながら、自分を最も近くで見てくれているアルを独り占めできないことが悔しかったのだ。
ふと、彼女は立ち止まって足許を見た。ぽつりと一輪だけ咲いた白い花。ヴィーカはしゃがむと、それを摘んで顔の前に持ってくる。
「あなたの名を私は知らないけど」
そよ風の中、彼女はその花に囁きかける。
「美しく咲いていることは分かるよ。ねえ、あなたが花を咲かせたのは、名前があるからではないでしょ?」