第三話 隊商
ケエスエスト。グラシアス。この一週間でヴィーカはその響きを何度聞いたか分からなかった。もう今では彼女もサーニャが訳すのを待つまでもなくその意味を理解できる。
「『海から来た人』はみんなああなの?」
ひっきりなしに『これは何か(ケエスエスト)』と問い、教えてもらう度に毎回『ありがとう(グラシアス)』と丁寧にお礼を述べるアルは、遂にヴィーカにそんな疑問すら抱かせていた。当然、それを聞いたサーニャは苦笑交じりに首を横に振る。
「まさか、そんなわけないじゃないですか。こんなに何でも知りたがる人は普通居ないですよ」
「まあ、やっぱりそうよね」
そう返しながらヴィーカは立ち上がった。その手には馬乳で一杯になった桶があり、彼女は重たいそれを両手でしっかりと支え持つ。ヴィーカが母馬から離れたのを確認したサーニャは母馬の傍に押さえていた仔馬を解放してあげた。仔馬に一瞬だけ乳房を吸わせ、その後人間が割って入って乳を頂く。乳搾りはメルキでは女の仕事なのだ。
「すみません、姫様。手伝ってもらっちゃって」
「大丈夫よ。叔母さんには無理言ってお願いしちゃったし。これくらいはしないとね」
話しながらゆっくりと歩き、彼女たちはサーニャのゲルにたどり着く。それは厳密に言えばサーニャを引き取った、ヴィーカの叔母夫婦のゲルであるが。
そしてそこには今もう一人の客が居る。借りた旗袍の大きさは丁度いいとはいえ、その頭に乗せた尖がり帽子はまだどこか座りが悪そう。僅かに見える明るい茶髪は彼がメルキの者ではないことをはっきりと示している。彼の姿を戸の前に見つけたヴィーカは声を上げた。
「アル」
その声に気付いたアルは自由に動かせる左手を振って彼女に応じる。一方右手は未だ包帯でくるまれており、フェルトの三角巾で吊られていることが遠くからでもよく分かった。彼女の元へ向かいつつ手を差し伸ばすアルの言葉は、サーニャによってヴィーカに届けられる。
「僕が持つよ、だそうですけど」
「ありがとう。でも大丈夫。怪我人は自分のことだけ心配してて頂戴」
丁重にヴィーカが断ると、アルも軽く頷いてその手を引っ込めた。ヴィーカは彼の申し出が嬉しくないわけではなかったが、男の客人に、しかも怪我人に手伝ってもらったとあっては彼女のプライドに関わるところだった。ゲルの横に桶を置いたヴィーカはぱっぱと手を振り、掌に筋と共に刻まれた痛みを紛らわせる。
「これでおしまい?」
「はい。乾燥チーズ(アーロール)はもう屋根の上にやっておきましたし、馬乳酒もちゃんとかき混ぜましたから」
「大丈夫そうね。それじゃ、行きましょうか」
サーニャがアルに行こうと告げると、アルは嬉しそうに頷いた。今日は西からの隊商がメルキを訪れる日だった。彼はそれを見たいと言っていたのだ。
隊商は既にやって来ており、ゲルの建ち並ぶ辺りからは少し離れたところで商品を広げていた。年季の入った茣蓙の上には絹そのものや絹の服、陶磁器、漆器やガラスなどが溢れんばかりに並んでいる。どれもメルキでは取れない、あるいは作れないものばかりであり、多くの人がそれを求めて銀細工や色とりどりの宝石、フェルトの絨毯などを手にそこに集まっていた。もしここを空から見下ろせたならば、メルキの男たちの尖がり帽子が輝いてさぞかし綺麗なことだろう。
ヴィーカがアルの様子を窺うと案の定と言うべきか、彼は息を呑んで周囲を見回していた。華やかで賑やかな品々はアルにとっては見るのが初めてなものばかりで、思わず彼はそちらに引き寄せられてしまう。
「楽しそうね」
ヴィーカは満足げな声を漏らす。サーニャもそんな彼女の言葉に相槌を打つ。
「そりゃあ楽しいですよ。あたしも初めて見た時はびっくりしました。こんなに見たことのないものがあったんだ、って思いましたから」
昔の自分に重ねて親近感でも感じているのだろう、サーニャもアルと同じくらい楽しそうにしていた。ふと立ち止まったアルは彼女の名を呼び上げる。
「サーニャ、これは何?」
呼ばれたサーニャは、茣蓙の前にしゃがんで白磁の皿を手に取るアルの元へと駆け出す。ヴィーカはその後ろからのんびりと歩きつつ、雑踏の中で小さく呟いた。
「今日もいつも通り、ね」
しばらくの間三人はその辺りを散策していた。アルが興味の赴くままに見て回り、サーニャが『これは何?』に対応できるようその傍らに付き従う。ヴィーカはそんな二人の少し後ろを歩いていた。
アルとサーニャは彼らの言葉で話しながら、時々声を上げて笑ったりしている。あれは何かに似ている、とかそんな話をしているのだろうとヴィーカは思っていた。ここ一週間、ずっとそんな調子だった。それは当然と言えば当然のこと。アルが話を出来る相手はサーニャしか居ないのだから。自分とサーニャの位置を入れ替えたところで何にもならないということくらいヴィーカは解っている。
なのに、どうしてだろうか。目の前を並んで歩く二人を見ていると、彼女は胸の奥につかえるものを感じた。それが何と呼ばれるべき感情なのか彼女には分からず、ただ楽しそうに話す二人を見ているくらいなら目を閉じてしまいたくなる自分に驚く。
「羨ましいの?」
ヴィーカがぽつりと呟いたその言葉は、思った以上に自身の感情に合致していた。だが、では何が羨ましいのだろうか。その答えを見つけるためにはしかし、彼女はあまりにも恵まれ過ぎていた。姫君として生まれた彼女は自らの独占欲の強さと、その裏返しである嫉妬の深さをまだ自覚していなかった。
「ヴィーカ」
ふと聞こえた、自分を呼ぶ声に彼女は引き戻される。彼女を呼んだのはアルだった。その掌には一本のリボンが乗っている。純なる白の練り絹は陽の光に照らされてまるで自ら輝いているよう。それが自身に差し出されていることにヴィーカは気が付いた。
「それを? 私に?」
戸惑いながらも、ヴィーカは手を伸ばしてそのリボンを受け取った。柔らかくなめらかなその手触りが彼女の肌をふわりと包む。こんな上等なものを何と交換したのだろう。不思議がる彼女がアルの横を見やると、商人がちょうど銀色した円い物を懐にしまうところだった。
貰っていいの、とヴィーカはアルに言葉ではなく目で尋ねる。するとアルはほほえみながらゆっくりとひとつ頷き、彼女に向かってこう言った。
「助けて、くれた、お礼」
その響きにヴィーカは驚愕した。たどたどしくはあったものの、それは確かにメルキの言葉だった。いつの間に覚えたのだろうか、サーニャに教えてもらったのだろうか。思うことは色々とあったが、しかしヴィーカは何よりも嬉しかった。純粋な贈り物は彼女にとっては初めてのことだったから。どこかの部の汗や族長、あるいはその息子たちが贈ってくる珊瑚の首飾りや金のかんざしなどよりも、この素っ気ない白絹のリボンの方がはるかに貴重なものに彼女は感じた。
「気にしないでって言ったのに」
そう言いながらも頬が緩むのをヴィーカは止められない。つい先程まで感じていた胸のつかえは気付けばもうなくなっていた。それに取って代わったのは手に乗るリボンの優しい暖かさ。せっかくの贈り物をいきなりポケットに押し込んでしまうほど彼女は野暮ではない。髪を結うのは随分久しぶりのことだったが、彼女の手は彼女よりもその動きを覚えていた。幼い頃にそれを自らに教え込んだ母の顔をヴィーカは思い出す。後ろ髪を一本にまとめて結った彼女はえくぼを明るく弾ませた。
「グラシアス、アル」
それははにかみ気味の小さな声だったが、アルの耳は聞き逃すことなどなく、彼は彼女に一言を返す。どういたしまして、と言ったのだろうとヴィーカは思った。本当にそうなのかは分からない。だけど、きっとそうだろうとヴィーカは確信していた。
「大事にするからね」
もう一度シルクの清らな感触を確かめながらヴィーカは小さく呟いた。そんな彼女の肩を誰かがぽんぽんと叩く。彼女が振り向けばそこにはサーニャが居た。
「姫様、そのリボン」
「アルがくれたの。どう、似合ってる?」
「はい、似合ってます、似合ってますよ! あたしのも見て下さい、ほら、これ!」
その瞬間、ヴィーカは耳を疑った。続いて彼女はその目をも疑う。彼女の眼前に広げられたサーニャの右手。その小指に光るガラスの指輪は、小さくこそあるがヴィーカの絹のリボンと同じくらいの価値があるだろう。
「それ、って」
「こんないい物もらえないって言ったんですけど、助けてくれたお礼だからどうしてもって言われて。どうですか、姫様、これ、似合ってますか?」
絶句するヴィーカにサーニャは欣喜雀躍して問い掛けた。そこには何らの他意もない。ヴィーカもそれは解っていた。ただでさえ余所者のサーニャは贈り物というだけでも縁遠いものだったのだから。彼女がどれだけ喜んでいるか、ヴィーカには想像するに余りある。
「ええ、似合ってるわよ」
なのに、ヴィーカのその声は今にも消え入ってしまいそうに虚ろだった。私にだけじゃなかったんだ。そう思うと、彼女の胸はひどく痛んだ。
その時だった。突如、雷鳴にも似た音が青空に響き渡った。ヴィーカたちをはじめメルキの人々と商人は驚いてその身をかがめる。隊商のラクダもメルキの馬も一様にいななき前足を上げた。ただ一人、アルだけは身じろぐ素振りひとつ見せず、その音のした方角に向けて目を瞠ったと思うと、瞬く間に駆け出していた。
「待って、アル!」
離れゆくその背をヴィーカは追いかける。どこ行くんですか、姫様。そんなサーニャの声も今の彼女の耳には入らなかった。ざわめく人々をすり抜けてアルは走る。ヴィーカも彼に着いて行こうとしたが、かわしきれずに誰かに激突してしまう。
「ごめんなさい、通して頂戴」
彼女にぶつかられたメルキの男は舌打ちして振り向くが、相手がヴィーカだと分かるや否やその頭を下げて道を空けた。しかしその僅かな間に彼女はアルを見失ってしまう。彼の姿を求めて彼女は周囲を見回す。ちょっと待って下さい、追いついたサーニャのその言葉と時を同じくして再びあの音が彼女の鼓膜を震わせた。更にそれに続いて群衆の歓呼と拍手が沸き起こる。
「すげえ、本当に鳥を落としたぞ」
「音に驚いて勝手に落ちたんじゃないのか?」
「いや、あの黒い煙でだね。あれは怪しいぞ」
長い鉄の棒のような物を肩に担ぎ、得意げに手を挙げ歓声に応える商人の前で、口々にそんなことを言う者が十数人居た。ヴィーカはその中にアルの姿を見つける。彼が周囲の人々をかき分け、前に出て商人と対峙したのを見て彼女も彼を追う。その集団の中に彼女へ道を譲らぬ者は一人も居ない。ヴィーカとサーニャが現れると、商人は予期せぬ上客に驚いた様子だった。
「これはこれは、お姫様。何か御入り用でございましょうか。申し訳ありません、今この者をどかしますので。昼から酔ってるのか、話がまるで通じませぬ」
へつらい笑いを浮かべる商人は、何事か言い続けているアルを追い払おうと彼の胸を突き飛ばした。その行為は、今の彼女に声を荒らげさせるには十分過ぎた。
「何をしているの、やめて頂戴! アルは酔ってるわけなんかじゃないわ!」
「は、いや、それは、失礼しました。お許し下さい」
ほとんど聞いた覚えのないヴィーカの怒声に、商人は驚懼し周囲の空気も一瞬で凍りつく。その静寂で彼女は自身の軽率さに気付かされた。南無三、彼女は呼吸を整えると、意識してゆっくりと言葉を選んでゆく。
「その人は『海から来た人』なの。何か、あなたに聞きたいことがあるみたいだから答えてあげて頂戴。サーニャ、お願い」
「はい、分かりました」
そう言って進み出たサーニャはアルの言葉を聞くと、ヴィーカの機嫌を損ねてしまったのではないかと怯えている商人に多少の同情を込めた声で尋ねていく。
「その銃はどこで手に入れたのですか?」
「二週間前、バリシオに行った時『海から来た人』も来てまして、その者たちから手に入れました。値は張りましたが、こんな珍しい物は他にないので」
商人が肩に担いでいるあれが銃というものなのか、とヴィーカはそこで初めて理解する。
「バリシオの者も銃を求めてましたか?」
「ええ。ですがあまりに高いので、ほとんどの者は出来ませんでした。フョードル可汗が銃十挺を馬百頭と交換したと評判になってましたかな」
「馬百頭? 冗談はやめて頂戴」
耳を疑ったヴィーカは口を挟んだ。草原の民にとっては単なるケモノではなく、自らの誇りであり、地位の証でもある馬を百頭も差し出すなど、彼女にはとてもではないが信じられなかった。商人は手を拱かせながら、私も見たわけではありませんので、とこれ以上の怒りは買わぬよう最大限の努力をしていた。そんな彼に向けアルは更に質問を続ける。
「その『海から来た人』はどこから来てましたか?」
「南から来たそうですから、ラフレンシアの港からと思います。サンミエールではないことは確かですが」
商人の返答にアルは口元に手を当てた。彼はそのまま十数秒ほど考え込む。半ば隠されたその顔からは誰も何も読み取ることが出来ない。一体アルは何が知りたいのだろうと三人が思い始めた、その時、彼の口からは疑問の形をした、しかし確信めいた言葉が零れ出た。
「ひょっとして、銃を持ってきた者たちはあなたたちにアルゲントゥム、というものを知らないかと尋ねてきませんでしたか?」
「どうしてそれを御存知で? 何かそのことを知ってるんですか?」
ぴたりとそれを言い当てたアルに商人は驚きを隠せない。ヴィーカもサーニャも同様の視線を彼に向けるが、しかし当のアルは愛想笑いを浮かべて会釈するだけ。
「いえ、もしかしたらって思っただけです。邪魔をして申し訳ありません。ありがとう」
しかし、それが『もしかしたら』に基づく物ではないことは明らかだった。商人の元から離れるやアルはすぐに思い詰めた表情を浮かべ、思慮を巡らし始める。彼のその顔をヴィーカはじっと見逃さなかった。
彼女は彼の助けになりたかった。スィリブロウの麓の森で、うろたえる彼の手を握ってあげたときのように。でも実際にはアルの傍らにはサーニャが居て、しかもヴィーカの言葉はサーニャなしではアルに届かない。望めど叶わぬ現実を前にして、白絹のリボンをほどくことが彼女に出来る唯一のことだった。