第二話 チェルカソフの人々
「まったく、あの子はどうしてこうも面倒事の素になるのかしらね」
「カテューシャ、口が過ぎるぞ。ヴィーカはただあの者を見捨てられなかっただけだ」
日が傾きかけた頃、メルキ部のとあるゲルではそんな会話が交わされていた。カテューシャと呼ばれた女は胸の前で腕を組むと眼前の男を睨めつける。
「あなたはあの子に甘すぎます。もう十四です。メルキの娘として為すべきこともしてないというのに」
その男は赤いシルクの旗袍をまとう彼女の目を真っ向から見据え返した。彼の口元に蓄えられた髭は鋭く威厳に溢れており、天井に届かんばかりのその背丈を一層大きく見せている。
「ではどうする? 骨を折り満足に馬にも乗れないあの者を放逐しろと言うのか? それではメルキの名もこのアルトゥールの名も堕ちる」
「それでも是非そうするべきです。『海から来た人』を迎え入れるなど、メルキにとって、いえ草原にとっても危険極まりないとは思わないのですか?」
「あの者が間者か何かだとでも?」
「疑うべきでしょう」
カテューシャは一歩も引き下がることなく滔々と述べたてる。しかしアルトゥールの方も動じない。
「それはない。であればあの者は自らの手で馬を殺し、腕を折り、その上頭を打って昏倒していたことになる。擬装としては超一流だが場所があまりにもおかしい。スィリブロウの麓の森だぞ? ここからはあまりに遠すぎるし、偶然ヴィーカがそこに行ってなければここに来ることも能わなかったはずだ」
「しかしなぜ一人でスィリブロウなどに居たのかを考える必要があるでしょう」
誰か協力者が居たのでは? カテューシャの言はあくまで推測にしか基づいていなかったが、確かに現実味のある話ではあった。アルトゥールはその髭をしごきつつも頭を振る。
「そうかもしれん。だが、だからといってアル、と言ったか、あの者を今逐い出す理由にはならない」
「十分なります。事が起きてからでは遅いのですよ」
「サーニャはどうなる。五年も経つが、彼女はメルキに何らの邪悪ももたらしていない」
「少なくとも今までは」
その艶やかな黒く長い髪をかき上げながら、カテューシャはアルトゥールに反駁する。眉間に皺を寄せたアルトゥールに向けて彼女は更に続けた。
「大体私はあの子の受け入れにも反対したはずです。あの時もあなたの独断でしたよね。教えて下さい、なぜサーニャを迎え入れたのですか?」
しかしその問いにアルトゥールは答えなかった。彼はその丸太のような腕を伸ばして棚から人の顔ほどもある盃を取り、傍らに吊るされていた革袋から馬乳酒を一杯酌むと一息に飲み干した。
「何にせよ、聞く所によればバリシオも彼らと誼を通じているという。メルキだけが取り残されるのは好ましくない。むしろこれは好機とするべきだ」
「羊の捌き方も知らない野蛮人と政治の話ができましょうか。徒に馬を殺し、大地を血で汚すことを厭わぬ者たちと。それならばバリシオの方がまだましです」
空になった盃を受け取りつつも、カテューシャはアルトゥールに訴え続けた。髭についた馬乳酒を手の甲で拭きとりながらゲルを出ようとする彼の背に向け、彼女は声を落として言った。
「もしあなたがメルキを案じるならばあの者は追放するべきです。そして一日も早くヴィーカをフョードル可汗のもとに嫁がせますように。我らと草原を守り抜く道はそれしかありません」
彼女の言葉にアルトゥールは立ち止まる。彼は振り向きもせず、虎が唸るように体を震わせた。
「あんな狒々爺にヴィーカをやれるか」
アルトゥールは手を伸ばし、棚の上に置かれた尖がり帽子を手に取ると戸をくぐった。夕暮れ時の乾いた風を感じながら彼はそれを頭に乗せる。帽子の天辺に縫い付けられた、風にはためく黄色い長方形の布片は彼だけに許されたもの。夕日に目を細めながら、後ろ手に戸を閉める彼に向かって駆け寄ってくる影がひとつあった。
「お父様」
期待と信頼に満ちた瞳で自らを見上げてくるヴィーカにアルトゥールは思わず破顔しそうになる。だが自らに寄せられている周囲の視線を慮り、彼はその口を真一文字に引き止める。綸言汗の如し、表情などは言うにや及ぶ。人の上に立つ者としては当然の心掛けと言えた。
「あの者はどうした?」
「手当てはもう終わったわ。叔母さんが手伝ってくれたの。そこまで酷くはなかったみたいだけど、完治までは時間がかかりそうだって。今はサーニャが看てる」
「そうか。骨を折ったのだったな? ならそれは仕方のないことだろう」
赤い血の付いたブーツに代わって、今は山羊革の小さな、騎馬向きではない靴がヴィーカの足を包んでいる。ええ、とアルトゥールの言葉に静かに頷いた彼女は、しかし次の瞬間両の手を軽く鳴らした。
「でも聞いて、お父様。包帯の巻き方、上手だったって叔母さんが褒めてくれたの。ちゃんとできてたって」
「ほう、それは。よかったな、ヴィーカ」
アルトゥールがそう頷くと、彼の愛娘は大きく首を縦に振って笑った。その笑顔はまるで羊に寄りかかる童が浮かべるよう。この輝きを以てすれば、この子の嫁の貰い手は草原にあまた溢れているだろうとアルトゥールは思っていた。もちろんそれは親の贔屓目ではあったが、さりとてあながち的外れなわけでもなかった。
「父上」
左方から聞こえたその低い声の元をアルトゥールは見やる。右頬に三日月のような形をした傷を浮かべた若者が、彼の元へと近付いて来ていた。
「ニコライか。どうした?」
「既に噂になっています。『海から来た人』をヴィーカが連れて来たとは真ですか?」
「連れて来たなんて言わないで頂戴。怪我をしてたから助けたのよ」
むっとして思わず口を挟むヴィーカをアルトゥールは手を伸ばして制する。ヴィーカは一瞬だけ不満顔をしたが、すぐにその色を消し去ると一歩下がる。
「そうだ。それで?」
「どうするおつもりなのですか」
「どうする、とは?」
アルトゥールは逆に彼に問い返した。白い翼の意匠をあしらった黒い旗袍を着るニコライは、ヴィーカの方を一瞥した後こう言った。
「父上にも母上にも考えが有りますでしょうが、ヴィーカが助けたのですから、彼の者の処遇はヴィーカの願うようにすればよいのではないでしょうか」
「この問題にヴィーカは関係ない。そして同様にお前もカテューシャも関係ない。メルキの汗はこの私だ」
有無を言わせぬ、厳然たる口調でアルトゥールは言い放った。三秒、ニコライは何も言わずに彼の目を見据えていたが、視線を外すと深く頭を下げた。
「出過ぎでした。お許しください」
「構わん。それくらいでなければ困る。さて」
アルトゥールは振り向いてヴィーカと相対する。関係ない、という彼の言葉を聞いて彼女はにわかに強い不安を覚える。その彼女に対し、アルトゥールは先程と同じ強い声で、しかしゆっくりとこう告げた。
「メルキの汗として、あの者が快癒するまでここで暮らすことを認める。細かい所はお前に任せよう。メルキの名を汚すことのないように、しっかりとな」
それを聞いて再び、彼女の目には明るい光が蘇る。
「ありがとう、お父様。それじゃ、早速」
二人に軽く頭を下げるのも忘れることなく、ヴィーカはアルとサーニャが待つゲルに向かって駆け出した。飛ぶような勢いの彼女の背中を、ニコライはその唇を噛みながら見つめ続けた。それに気付いてアルトゥールは小さく嘆息を漏らす。
「ニコライ、人の心ばかりは」
「分かってます。ですが、俺の心も同じです」
アルトゥールの諭すような声を遮って、ニコライは去って行った。その屈強な背姿に在りし日の思い出を重ねつつ、アルトゥールは改めて溜め息を禁じえなかった。
「そんなところまで受け継がなくてもいいものを」
誰に向けられたわけでもないその言葉は、羊と山羊の群れを追い立てる鞭の音にかき消された。