第一話 『海から来た人』
常磐の山裾が無辺にも思えた草原の北に区切りを与えている。鷹か烏だろう、綺麗な編隊を組んだ一群の鳥が山を越えようと翼をはためかせる。その羽ばたきがかき消してしまったのかもしれない、見渡す限り、雲は空のどこにも浮かんでいなかった。
「姫様、どこ行くんですか?」
「ちょっと遠くまで行ってみない? 森の方なんてどうかしら?」
「いいですね、それ。もう夏ですし、きっといい感じの花がいっぱい咲いてますよ」
なだらかな起伏を描く大地の上でヴィーカとサーニャの二人は馬を走らせる。手綱を軽く持ったまま腿の締め具合だけで馬を御すヴィーカに比べると、サーニャの方は少々慌ただしく安定していない様子。そんな彼女を横目で見ながらヴィーカは速度を少し緩めてやる。
「花、ねえ。花なんかどれも同じじゃないの?」
「そんなことないですよ。本当に綺麗なやつは一目で分かりますから。そうだ、いいのがあったら姫様の髪飾りにしましょう。きっと似合いますよ」
「そんなのやめて頂戴。花飾りはみんなやってるけど、私は好きじゃないの。知ってるでしょ?」
そうですけど、と返しながらサーニャはヴィーカの髪に目を向けた。腰の辺りまで伸ばされていながら何らの装飾品もそれは帯びておらず、風になびく毛先も無造作に広がってしまっている。しかし輝く太陽に勝るとも劣らないブロンドの素晴らしさは、サーニャを始め多くの女たちの羨望の的になっていた。
「確かに姫様はそのままでも十分美しいですけども……あたしはもったいないと思いますよ。姫様の髪、そんなに綺麗なのに」
「ニコライみたいなこと言わないで頂戴」
「本当ですってば」
くすりと笑ったヴィーカに対し、せっかく褒めたのに冗談だと思われたサーニャは口を尖らせた。しかしそんな彼女の表情にヴィーカはいよいよ吹き出してしまう。
「姫様!」
「ふふ……ごめんね、サーニャ。怒らないで頂戴。でも悪い気はしないわ。ありがとう」
「もう、本当なんですってば」
諦め半分、憧れ半分に呟きながら、サーニャは自らの襟足に手を伸ばす。手櫛でひとつ撫でつけてみるが、癖の強いそれはすぐ元通りに丸まってしまった。
「あたしも髪伸ばしたいんですけどね」
「伸ばせばいいじゃない」
「どうせみんなこの辺で丸まっちゃうから伸ばしても仕方ないんですよ」
「リボンか何かで縛ってみたら?」
「昔やりましたけど、駄目でした。まとまって丸まっちゃうだけで」
そんな言葉を交わしながら彼女たちは北に向けて進んで行った。峨峨として東西に伸びゆく稜線の足下で僅かにその肩を寄せ合う木々。年間を通して雨の少ないこの地では、人の背よりも高い植物は山より注ぐ川沿いにしか生息しえない。二時間ほど馬上で揺られ、二人はその森の入口にたどり着いた。
「お疲れ様。すぐに水飲ませてあげるからね」
そう言いながら森に入ろうとしたヴィーカだったが、サーニャは彼女を呼び止める。
「待って下さい、姫様。馬から降りませんと」
「どうして?」
「枝がかなり茂ってます。顔を傷つけたりなんてしたら大変ですよ」
自らは早々に徒になりつつ、サーニャは彼女にそう告げた。しかし、その言葉を聞いたヴィーカは露骨に顔を歪ませ、自らを見上げるサーニャに短く言葉を投げる。
「あなたには関係のないことでしょ」
「しかし、姫様、万が一──」
「待って、静かに」
弱々しくも食い下がるサーニャの言葉を遮り、ヴィーカは耳を澄ませる。サーニャは突然の物言いに困惑するが、それでも彼女に言われた通り口を閉じた。ヴィーカは手を耳に添え、かすかに聞こえた音をもう一度拾おうと試みる。
「サーニャ、何か聞こえなかった?」
「いえ、あたしは全然、特には何も」
サーニャには聞こえていないようだったが、葉擦れの間から漏れ聞こえる音をヴィーカの耳は確かに捉えていた。ヴィーカは音のする方に向かうべく森の中へ進もうとする。だが、そこで彼女は一瞬立ち止まり振り返る。彼女を見つめるサーニャの目。数秒の後、ヴィーカはひらりと馬から飛び降り地に足を着けた。安堵の表情を浮かべたサーニャには背を向けたまま彼女は言う。
「多分馬だと思う。息が聞こえるの。小さいけど、早くて、荒い。サーニャ、見に行きましょ」
「分かりました」
二人は引き綱を取ると森の中へと踏み込んだ。なるべく獣道から外れないようにしながらヴィーカたちはその音の源に近付いてゆく。初めは何も聞こえず半信半疑で歩を進めていたサーニャにも、徐々にその馬のものと思しき喘鳴が聞こえてきた。ただ事ではない。二人の脳裏をよぎったその予感は正しかった。
「サーニャ、あれ」
茂みを抜けて小川のほとりに出たその時、ヴィーカは思わず息を呑んだ。彼女が指差す先を見てサーニャはあっと声を上げる。清流のせせらぎの傍らで、一頭の馬が四肢を折って倒れていた。その胸に開いた風穴からは止めどなく血が溢れ、周囲の新緑のみならず流れる水までもを赤く染めていた。
「ひどい、誰がこんなことを」
死の一歩手前の苦しみという凄惨な光景にサーニャは手で口を覆い、目を逸らした。ヴィーカも耐えきれずにうつむくが、しかし馬が彼女の視界から消え去る直前、彼女はある重大なことに気が付いてしまった。無理矢理顔を上げ、その目で確かめた彼女は口を開く。
「ねえ、サーニャ」
「何ですか?」
「あの子、鞍が着いてる」
その言葉を聞いて、おずおずとサーニャも横たわる馬を直視する。血の赤さに気を取られなければ一目瞭然、ヴィーカの言う通りあの馬には鞍や鐙、更には手綱も着けられていた。
「誰かが、乗ってたってことですよね」
「ええ、きっと。探さないと。その人も怪我してるかもしれない」
「そんな、やめましょうよ姫様。危ないですって。もし姫様に何かあったら」
「何にしてもあの子を放ってはおけないわ。サーニャ、手伝って頂戴」
そう言うとヴィーカは手早く引き綱を手頃な枝に結び付け、血溜まりの中へと進んで行く。サーニャは思いっきり頭を振って覚悟を決めるとヴィーカに倣ってその後に続いた。ヴィーカは一瞬もためらうことなく黒いブーツを赤く染め、馬の横にしゃがむと、小川の水を手で汲んで馬の口元へと運んでやった。
「ほら、水よ。飲みたかったんだよね?」
もはやその息は絶え絶えで、彼女たちをここまで導いた音もほとんど聞こえなくなった。それでも、その馬は差し出された水を彼女の掌から飲んでゆく。
「サーニャ、傷はどう? 看て頂戴」
それを見て涙を流しそうになったサーニャだったが、彼女は目頭を押さえるとヴィーカの横にしゃがみ、馬の傷口に目を凝らす。彼女はとにかく血を洗い流そうと川から水を掬って傷口の辺りに慎重に垂らしてゆく。すると丸く開いた風穴がその姿を現した。その見慣れない形をヴィーカはいぶかしむ。
「何なの、これ? どんな鏃を使ったらこんな傷に」
「矢じゃありません、姫様。これは、多分、銃です」
「銃? 何、それ?」
「何て説明すればいいんでしょうか。とにかく、弓矢よりも強力な武器です。人だって殺せます」
そう言っている間にも新たな血が溢れてくる。サーニャは両手で思いっきり圧迫して止血しようとしたが、彼女の細腕では意味などないに等しかった。
「この子、ここまで自力で来たんでしょうか」
「でしょうね。きっと水が飲みたかったんだと思う」
三杯目を飲み干したところでその馬は小さく一声いなないた。ヴィーカは無言でその肩の辺りに手を伸ばし優しく撫でる。
「姫様、もう……」
「そうね。押さえるのはやめてもいいわ。でもお願い、この子の傍に居てあげて頂戴」
無駄と分かっている努力を続けるサーニャにそう告げ、ヴィーカは立ち上がって周囲を見回す。そして彼女は血溜まりの一隅が細く伸びていることに気が付いた。その更に向こう側にはへし折れた灌木が絡み合い、血の筋はそこで一旦途切れている。奥の様子は葉っぱに遮られて窺えないが、どうやら開けている場所のようだ。彼女はゆっくりとそこに向かい歩き出す。
「姫様?」
「あっちに人が居るかもしれない。見てくるわ」
「なら、あたしも」
「その子が岩に寄りかかったら来て頂戴」
そう言い残し、ヴィーカは灌木の手前まで行く。
「誰かそっちに居る? 居るなら返事をして頂戴」
彼女は緑の壁の向こうに呼びかけるが、返答はない。しかし、もしかしたら口をきけない程の大怪我という可能性もある。幸い薙ぎ倒された木々は彼女がそこを通り抜けることを十分に許していた。彼女は反対するだろうサーニャの顔を一瞬だけ脳裏に思い浮かべ、そして、それを打ち消すと灌木の向こう側へと飛び出した。
五色の草花が伸び広がるその空間。そこはちょうど南中した太陽の恵みを全身で浴びていた。しかしその上には決して華やかではない暗い赤が零されている。その筋を辿って視線を動かしたヴィーカは、左手にある木の根元に一人の男が横たわっているのを見つけた。
「ねえ、大丈夫? しっかりして」
彼女はその男のもとへ駆け寄り数度肩を叩いた。それに反応して男は顔を上げる。泥に汚れてなお明るい茶髪、サファイアのように青い瞳。驚くほど端正なその顔立ちはまるで女みたいだとヴィーカは思う。
「頭を打ったのかしら? ねえ、聞こえてる? 何か言って頂戴」
ヴィーカはその男の横に両膝をつく。徐々にその目の焦点は合い始めており彼女はひとまず安堵。しかし彼女は眼前の男の服装があまりにも奇妙なことに気が付いた。いったいなぜこんな窮屈そうな服を着ているのだろう、と彼女は不思議がる。少なくともこんな恰好をしている人を彼女は今まで一度も見たことがない。
「ねえ、あなた……どこから来たの?」
彼女が尋ねたその時だった。突如男は背を起こして何事か口を開く。
「え? 今何て? もう一回──」
聞き取れず困惑したヴィーカを無視し、男は再び彼女に言葉を差し向ける。それはおそらく先程と同じ内容。だがヴィーカにはその音が何を意味しているかまったく分からなかった。ただかろうじて分かることは、この男がどうやら混乱しているようだということだけ。彼は更に続けて言葉を発してくる。
「ねえ、待って。落ち着いて。何を言ってるの?」
信じがたいことだが、どうやらお互いに相手の言っていることが分からないのだとヴィーカは気が付いた。夢でさえ見たことのないこの状況。しかし彼女は必要以上に狼狽することなくすぐさま果断に行動する。
ヴィーカは彼の左手を取り、両の掌でそれを慈しむようにぎゅっと包んだ。同時に彼に向けて小さく頷きながら明るく笑いかける。するとすぐに男は口を動かすのをやめ、目を丸くしながらも彼女のことを見つめてきた。目は口ほどに物を言う。自分は害を与えるつもりはないというヴィーカの思いはその男に伝わり、彼も彼女に向けてにっこりと笑い返してきた。
「分かってくれた、のかな」
彼女は安心し呟くが、実のところ状況はそこまで好転したわけではなかった。いや、それどころかむしろ悪化しているかもしれない。突如男は苦悶の声を上げ、ヴィーカの手を振りほどくと自身の右前腕を押さえた。
「どうしたの? 腕? 腕が痛いの?」
そんな質問をしたところでもちろん返事は返ってこない。苦しむ彼を前にヴィーカは再び当惑する。
「わ、私はメルキ部のアルトゥールの娘、ヴィーカよ。ヴェロニーカ・アルトゥーロヴナ・チェルカソヴァ。あなたの名前は? どこの部から来たの? ねえ、何か私の言ってることが分かる? 何か、何でもいいから……ああ、もう、どうしたらいいのよ!」
困り果てて彼女は天を仰いだ。まさか言葉が通じないことが、そしてそれ以上に目の前で苦しむ人をどう助ければ分からないことがこれほど辛く、もどかしいこととは彼女は知らなかった。
「姫様?」
聞き慣れた声にヴィーカは振り向いた。少し目を赤くしたサーニャが灌木の茂みを越えて来ていた。
「サーニャ、助けて頂戴。この人、何でか知らないけど何を言ってるか全然分からなくて」
「分からない? 待って下さい、その人、もしかして」
そう言うとサーニャはヴィーカの横まで走って来る。ヴィーカの横に座った彼女は、すぐさま痛みに苦しむ男に何事かを言う。それは何とまさしく彼の言葉だった。男は驚きながらも彼女に助けを求める。一人理解が追い付かないヴィーカをよそに、男としばらく言葉を交わしてからサーニャはヴィーカの方に向き直った。
「遠駆けをしてたら誰かに襲われて、馬から振り落とされた、落馬した拍子に腕を折ったかもしれない、腕から落ちてしまったから、って言ってます。それで、その、できたら助けてほしいと」
「あなた、この人を知ってるの?」
とまどいながらもヴィーカはそんな疑問をサーニャにぶつけた。だが彼女は首を横に振る。
「いえ、知らないですけど」
「じゃあどうして何て言ってるか分かったの?」
「それは、えっと、後で説明します。それより早くこの人を助けてあげましょうよ、姫様」
男は今もなお腕を押さえて痛みに苦しんでおり、その痛ましい声にヴィーカは頷いた。
「そうね、分かったわ」
しかし助けるといっても出来ることは限られており、せいぜい手頃な枝を折って添え木にし、ヴィーカが持ち歩いていた包帯で彼の右腕を巻き、あとはサーニャが持ってきていた絨毯を木陰に敷いて安静できるよう寝かせてあげることくらいが関の山だった。二人で協力して処置を終えた後、彼女たちは絨毯の余ったところに並んで腰を下ろした。
「これでひとまず落ち着きましたかね」
「ええ。でも、早くメルキに戻ってちゃんとした治療をしてあげないと。変な風に骨がくっついたら大変よ」
そう言ってヴィーカは仰向けで横になる彼の顔を見る。随分落ち着いたのだろう、もうその息は整っている。
「さて、サーニャ。説明して頂戴。何であなたとこの人は喋れるの?」
「この人が話してるのは、あたしの故郷の言葉と同じなんです」
「それじゃあこの人は『海から来た人』ってこと?」
「そうなりますね。あたしと同じで、この人もきっと海の向こうから来たんですよ。」
『海から来た人』。ヴィーカはそれを話には聞いていたが、目の前のこの男は予想していたそれとは随分と違うなと思った。彼女は再び彼の顔を見やる。その時ふと、お互いの目が合ってしまい、ヴィーカは何とはなく彼にもう一度笑顔を向ける。すると彼も笑い返して、それからヴィーカに向かって話しかけてきた。
「今、何て言ったの?」
ヴィーカはサーニャに尋ねる。慣れない上に少々面倒だが、サーニャを介すれば彼と十分に会話が出来るとヴィーカは思い始めた。
「えっと、助けてくれてありがとう、お礼をしたいが、今は何も出来なくてごめんなさい、だそうです」
「そんなの気にしないで頂戴。こっちが勝手にやったんだから」
サーニャはヴィーカの言葉を故郷の言葉に直し、彼の言葉をヴィーカが分かるように訳して二人の間を取り持った。それは恐ろしいほどに頭を使う作業であったが、彼女は精一杯言葉を紡いでいった。
「僕はアルフォンソ、アルフォンソ・オリオールだ、と。アルって呼ばれてる、もしよろしければ、名前を教えてもらえないか、と言ってます」
さっき言ったのにと言いそうになりかけて、ヴィーカはそれを喉元で押し止めた。今度はあんな雑にじゃなくて、ちゃんと威厳を持って名乗ろう。そう思って、アルの方に向き直ったヴィーカはひとつ咳払いする。
「私は、メルキ部のアルトゥールの」
しかし、そこでふと彼女は口を噤んだ。
「姫様?」
奇妙に思ったサーニャがヴィーカに声をかける。アルもその雰囲気を感じ取ったのか、不思議そうに彼女を見つめている。ヴィーカは考えていた。それは駄々にも似た我が侭かもしれない。意味のないことかもしれない。それでも、誰か一人にだけでもいいから。
十数秒の沈黙の後、ヴィーカはしっかりと顔を上げると言った。
「私は、ヴィーカだと、そう伝えて頂戴」
それを聞いたサーニャは少しだけためらったが、彼女は正確に訳してアルに伝える。それに対してのアルの返事は訳すのを待つまでもなくヴィーカにも理解出来た。これだけの笑顔で言うことなど、どんな言語でもきっと同じだろう。サーニャの言葉はそれを証明していた。
「ありがとう、ヴィーカさん」