第十六話 会談
メルキ部冬営地の中心部にある、他のそれよりも一際大きいチェルカソフ家のゲル。その周囲は今、総鉄拵えの大槍を地面に突き立て、辺りを睥睨する六人の戦士によって護られていた。否、監視されていた。
ゲルの壁の傍で聞き耳を立てることなどおろか、近付くことすらその戦士たちの強烈な眼光は許していない。メルキの人々は興味のない振りをして、視線を下げてその傍を通り過ぎることしか出来なかった。
巨岩の如き頑健さ。それを大樹に見紛うその身体に示す彼らは、『六槍』と呼ばれその名を知られていた。草原の覇権を握るバリシオ部の可汗、フョードル・フョードロヴィチ・ウラーノフの近衛隊として。
「久しいな、アルトゥール汗。『風を呼ぶ鷹』よ」
ゲルの中、四足の低い椅子に腰を下ろすフョードルはそう口を開いた。その頭を覆う尖がり帽子の先端には煌めく銀糸で刺繍された黄色の布片がある。帽子の鍔から見え隠れする総髪と、口元を覆い隠す髭には黒よりも白が目立っている。しかし、その濁り一つない大きな双眸は、爛々とおぞましいほどに黒く光っていた。
フョードルと相対して座るアルトゥールは、普段とは違う尖がり帽子を被っていた。紅玉や翡翠の象嵌は変わりないが、帽子を彩る布片は紫色。黄金の糸で華々しく縁取っているとはいえ、その色の違いは両者の実際の距離よりも遙かに遠い何かを示し表していた。
十年前の戦争で、時の汗レフを喪ったメルキ部はバリシオ部の覇権を黙認することを強いられた。あくまでフョードルがアルトゥールに要求したのは黙認だった。その為、名ばかりの同盟――その実態は従属要求――を受け入れさせられ、メルキ部がバリシオ部の傘下に組み入れられることはなかった。ただフョードルは、メルキがバリシオに対し、バリシオが持つあらゆる権利を侵害しないことだけを求めた。
この戦略は実にフョードルという男をよく表していたと言える。後世の史家は言う。レフ汗を喪ったメルキをバリシオが従属させられなかったのは、メルキはあくまで『頭』をもぎ取られただけであり、その一万余の戦士はいまだバリシオの脅威たりえたからだった、と。だがそれは誤りである。レフ汗という良くも悪くも強力な指導者を喪ったその時のメルキには、再結集を謀り、フョードルに新たな一撃を喰らわす力などはなかった。
フョードルは、敢えてメルキを覇権の外に置いたのだった。バリシオ部に匹敵しうる唯一の勢力、メルキ部を従属させてしまうのは利益よりも不利益が大きいということを、この生まれついての戦略家は知っていた。
バリシオの覇権の中にメルキを組み入れてしまえば、メルキはその中で不動の第二勢力となってしまう。二番手はいつでも一番手に取って代わる力を持っているものだ。だが二番手が居なければどうなるだろう? 一番手の後が三番手ならば?
覇権の外に置かれたメルキは急速にその求心力を失っていった。つまり、今までメルキが従属させていた諸部はメルキから離れていった。当然だ。弱い庇護者の元を離れて強い庇護者に助けを求めるのは、水が低い方へと流れるのとまったく同じ道理なのだから。
しかし、メルキを除いた草原の部族は全て、その勢力はバリシオに遠く及ばなかった。もちろん全部族で連合でも組めば上回っただろう。だが、核なくしてはそのような団栗同士の協力など望むべくもなかった。そして、その核になり得る唯一の勢力は、バリシオの唱えた覇から放り出され、隠然たる公敵とされていたのだった。
さもなければ二番手メルキを旗頭に、反バリシオの火が草原を燎く可能性は決して低くはなかった。体制というものは、外側よりも内側から破壊される可能性の方が遙かに高い。逆に、外側に共通の敵さえ作り出すことが出来ればそう簡単には壊れない。強度を増すことすらあるのだ。むしろ適度な刺激が在った方が望ましいとさえ言えるだろう。それをフョードルは知っていた。
このように第二勢力メルキを除外することによって、バリシオの覇権は盤石になった。十年前のメルキに対してフョードルが取った、初めは惰弱と非難され、後には寛容と賞賛されるあの措置は、そのどちらでもない冷徹で明確な戦略に基づいていた。フョードル可汗とは、そういう男だった。
「息災で何よりでございます。フョードル可汗。草原の覇者、『鋼の牡鹿』よ」
だから、彼の突然の訪問の意図を未だ読みとれていないアルトゥールは恭しく礼をしながらもその心中は全く穏やかではなかった。必ず何か狙いがある。だが、その狙いは一体何だというのか。
そんな心の乱れを抑えつけ、歓迎に相応しい穏やかな表情を見せるアルトゥールにフョードルはにやりと歯を剥いて応じた。
「わしとて新年早々、病を得る程にはまだ衰えておらん」
「それは重畳。さあ、召し上がって下され」
そう言ってアルトゥールは首を巡らし、後ろに控えていたカテューシャを促した。壁際に据えられた革袋の傍らに立つ彼女は、西方産であるガラスの大杯を馬乳酒(*21)で満たすと、それをフョードルに捧げながら微笑んだ。
「どうぞ。我が家のアイラグにございます」
客としての礼に遵い、フョードルは両手でその杯を受けた。それを口に運ぶ前に、彼はじっとカテューシャの笑顔を見つめ、言った。
「変わらず美しいな。エカテリーナ・セルゲヴナ・チェルカソヴァ。前に会ったのはいつだったろうか?」
「四年前の大遊祭(*22)の折だったかと思われます」
「四年前。そうか、四年前か」
確かめるように、噛み締めるようにフョードルは繰り返す。アルトゥールは必死で耳を澄ませ、フョードルの隠された意図を読みとろうとする。一方でカテューシャはただ柔らかに微笑をたたえ続けた。彼女には、もうそれだけで精一杯だった。可汗を迎える汗の妻が、頬を引きつらせることなどあってはならないのだ。
目の前のこの男が、レフを殺した。その思いは普段はどれほど抑えつけて、忘れ去っていたつもりでいようとも、やはりこうしてその顔を見ると彼女の心に湧き起こってくるのだった。ヴィーカに対して幾ら冷たく振る舞うことが出来ようと、ニコライに対してどれだけ厳しい理を唱えられようとも、彼女はやはりひとりの妻であり、そしてひとりの女であった。
そんな彼女に比べると、アルトゥールには仇を前にしてまだ余裕があったと言える。だがそれは決して、彼が情に疎いということを意味しはしない。アルトゥールは男であり、夫であり、族長であり、そして汗であった。ヴィーカの失踪の際に狼狽しきり対応を誤ったことは、彼に二度と同じ失態を許しはしなかった。
「あの年にそなたの息子ニコライ、『翼持つ槍』は初めて親指の名人(*23)の栄冠を掴んだのだったな? よく覚えておるぞ。彼の者の頭の上から爪先までの黒染めを」
草原の男たちは名を二つ持つ。だが全員がではない。一部の限られた、力ある者たちだけが二つ目の名を贈られることを許されるのだ。自らで自らの二つ名を決めることは認められない。それは決して仲間内や親戚間での綽名などと同じではなく、その者の誇りと共にある神聖な称号だった。このような公的な会合の場では、必ず並べて述べねばならないほどに。
「覚えていらっしゃいましたか。幸甚でございます」
それ故、フョードルがニコライのことをきちんとその二つ名『翼持つ槍』を付けて呼んだことはカテューシャの凍り付いた口元を僅かに溶かした。それはフョードルが、ニコライのことを一人前の男として見ていることの証左でもあったから。
だが、次の瞬間、フョードルの口から零れ落ちた言葉は彼女の目を僅かながらも、強く開かせた。
「我が妻ナスターシャも、四年前から岩に(*24)寄りかかっている」
そして、それはアルトゥールも同様だった。我が妻。心の中で彼はその言葉を繰り返した。フョードルは透明な大杯に溢れんばかりに注がれたアイラグを一口で飲み干すと、目を閉じ首を振って賞嘆した。
「久しい。実に久しい。かように美味いアイラグを飲むことなど。婢女では出せぬ風味だ」
アルトゥールの目は、空の杯を片手で持つフョードルの姿を確と捉えた。彼は先手を打つことを決める。
「可汗よ。我ら一同、婚儀の延期は誠に申し訳のなきことと存じております」
「この雪だ。今年は特に降った。うら若き処女には少々辛かったことだろう」
「付きっきりで看病させておりますが、快癒までは今しばらく掛かるかと」
フョードルの突然の訪問の目的は、ヴィーカについての探りを入れることだとアルトゥールは判断する。その読みは、しかし、半ばは正しく半ばは間違っていた。
婚儀の延期ならば既に先日の検分使を通して確かに伝えられている。改めてヴィーカの容態を問わせるだけならば、仰々しく『六槍』を率いてくることも、そもそもフョードル自身が出向く必要などもなかった。
アルトゥールはヴィーカの失踪の噂が真だと露見してしまわぬよう必死だった。だから忘れていた。フョードルという男が、一つの行動を一つの目的の為だけに起こす者では決してないということを。
「次の吉日までには快方に向かえばよいな」
「我らも同じ気持ちにございます」
空の杯を受け取ったカテューシャは、落ち着き払ったフョードルの声にそう応じた。
だが、直後、フョードルは爛と歯を見せて哄笑した。ゲルの中に、年を経た男の低く太い笑い声が響く。
予想外の行為に驚きを隠せないアルトゥールとカテューシャをよそに、フョードルはひとしきり笑った。そしてその口元を弓弦のように引き絞ると、放った。
「まさか、同じではないだろう」
その鋭い一矢は、アルトゥールとカテューシャの心の正鵠を貫いた。その口元は嘲るように歪んでいながら、フョードルの黒い目はその時もう笑っていなかった。豹変。まさにそれだった。和やかな会談から一転、哄笑からの一撃である。その鮮やかな、計算せずとも洗練されたフョードル一級の『演出』を目の当たりにし、何を言うことも出来ないでいる二人に対して、フョードルは更にこう続けた。
「父が娘を、継母が継子を、そして花婿が花嫁を思う気持ちがどうして同じだと言えようか?」
その問いに、二人は返すべき答えを持たなかった。二人はもちろん理解している。同じなはずがない、と。だがだからこそ、アルトゥールも、カテューシャも、沈黙する以外何も出来なかったのだ。
そう、あくまでもヴィーカに対してのカテューシャは継母なのだ。ヴィーカの体に彼女の血は一滴も流れていない。お腹を痛めて生んだ子か否か、という基準が、女にとっては他の何かではどうしようもない程に絶対的なものであるということは、いつのどこの世界でも変わりはしない。
一方でアルトゥールにとってのヴィーカとは、この世にただ一人残された肉親だった。既に兄と妻を戦争に、父母と二人の息子を病に奪われていたアルトゥールからすれば、愛娘ヴィーカはまさに掌中の珠だった。その彼とカテューシャでは考えることが違って当然だった。
だが、今や二人は夫婦なのだ。それもただの夫婦ではない。メルキを率いる汗とその妻、という立場が否応なくついて回ってくるのだ。それなのにどうして公然と意見を違えることが出来ただろうか。
アルトゥールは娘の扱いという私的な問題ひとつ解決出来ない、という印象が広まってしまうことは避けねばならなかった。家庭も治められぬ者と呼ばれることは、部という共同体を治める汗にとってはマイナスになりこそすれプラスにはならない。そして汗の権威が揺らいでしまうことは、いかにその目的が違えども、アルトゥールにとってもカテューシャにとっても不都合であることは同じだった。
だから二人は、いつしか暗黙の内に合意を得ていた。ヴィーカの扱いを巡っての問題などどこにもない、というように振る舞うようになったのだ。つまり、お互いに干渉するのをやめたのだ。
これがうまくいった。人々が不仲を疑うことはあっても、それはアルトゥールとカテューシャの間でではなくカテューシャとヴィーカの間でであった。彼らの目に映るのは家庭内の問題解決を放棄した父ではない。そこに居たのは前妻の子を疎んじる、どこにでもいる後妻の姿だった。もちろんその構図は実際とは異なる。だが当のヴィーカさえも、自分はカテューシャに疎まれているから冷たくされるのだ、と思っていたのだ。あの雪の日の夜、愛するあなたに一回だけでも母と呼ばれてみたい、と言ったカテューシャをヴィーカは拒絶した。他の者など何をか言わんやであった。
このように、この微妙な距離感は二人の間ではもはや禁忌となっていた。しかるにフョードルはそこへ踏み込んだのだ。たぐいまれな観察眼を持つフョードルは、もう何年も前にこの仮初めの関係を看破していた。そして、遂にそれを使う時が来たと判断したのだった。メルキの姫君ヴィーカを巡る当事者は、今や貴様ら二人だけではないのだということを含ませながら。
「今日は、我が花嫁を見舞いに来た。さあ、案内してもらおうか」
フョードルの言葉はもはや、客が主人に向ける願いではなかった。それは、家長が婢女に授ける命令以外の何物でもなかった。事実、彼の方が立場的にも、精神的にも優位に立っているのだとしても。
この時、もうアルトゥールは気付いていた。自分の読みが全く浅かったことに。そして、フョードルの真の狙いが何であったかということに。ヴィーカの失踪の真偽を探ることも、もし本当に病に倒れていたならば彼女を見舞うことも、どちらもフョードルの中では明確な目的として存在していた。だがそのどちらも、真の、最終的な彼の目的ではないのだ。
それを最高の形で叶えさせてしまうことだけは、どれ程の屈辱を味わわせられようとも絶対に避けなければならなかった。だから、アルトゥールは、この屈辱に耐えた。彼は震える声を抑えてフョードルに抗った。
「そればかりはなりませぬ」
「何故だ」
「男子不入のしきたりはご存知の通り。看病も、全て女だけで行っております故」
しかしフョードルは全くアルトゥールの言葉など意に介さないと言った調子で応える。
「顔を見るだけだ。敷居を跨ごうとは思わん」
フョードルももう、花嫁ヴィーカはここに居ないのだということを八割方確信していた。残りの二割の疑いを捨てないところが彼が彼たるゆえんである。ゆえに、フョードルはあくまでも妥協案を示すという形で更なる探りを入れていった。アルトゥールは、徐々に、だが確実に追いつめられていた。
実は、フョードルの方にも事情があった。アルトゥールの間者が察知していたように、バリシオ部には『海から来た人』との交易で足下を見られ、冬を越す為の家畜までも手放してしまった者が多かったのだ。それなりにたくさん居た彼らを救済することはフョードル一人の資力では不可能だった。彼自身も銃を初めとする珍しい品々を片っ端から買い漁っていた為、以前ほどの余裕はもうなかったのだから。とはいえ助けを求める者を助けるのは覇者の責務である。それで、フョードルはその解決先をメルキに求めたのだ。
しかし今回の事態は、共同体の成員が等しく苦しむ疫病や異常気象とはまったく質が違った。そもそも草原の民は部でまとまることは好まず、家ごとでの独立独歩の気質が強いのだ。そういうわけで、戦に加わる余裕のある、つまり交易で財を失わなかった者たちは、自分は無関係だと思って従軍を渋った。従属諸部は彼に逆らえずに集まったが、これだけではメルキに挑めない。むしろ自発的に危険を感じたメルキの方が綺麗に一丸となってアルトゥールの号令の下に集まっていたのだ。その証左に、独自にメルキの家畜を奪いに行った者はことごとく返り討ちに遭っていた。かといって、メルキ以外の部は形式上とはいえ同盟を結んでいるのだから、そこに奪いに行くのはフョードル自身が看過出来ない。
窮したフョードルだったが、そこにヴィーカとの婚姻の話が舞い込んだ。引き出物は一万匹の羊、という条件付きでである。戦をする必要もないのに、自身の権威は高まるのだ。これはもう受けない理由はなかった。その上、結婚相手はあのヴィーカなのだ。二年前、まとまりかけた婚姻が直前で破談にされた後も、フョードルはヴィーカのことを狙い続けていた。
ところが三日前、戻ってきた検分使はまったく意外な報告を持ち帰ってきた。怒りを堪えるその言葉をまとめてみれば、どうもメルキの側には婚姻を進めるつもりはないらしい、となったのだった。
これには流石のフョードルも慌てた。もはや冬も深まっている。これ以上婚姻を、というか引き出物を先送りにすることは貧しい者たちの窮乏を更に深め、不満の声を高からしめ、ひいては自身の可汗としての立場を危うくさせてしまうことになる。
フョードルは、動いた。婚礼を予定通り行う為の工作に手を回す一方で、同時に軍の編成にも着手したのだ。そしてフョードルが自身でメルキを訪うことを決めたのは、ヴィーカ失踪の噂を十全に利用する為だった。
フョードルは草原の覇者として自任し、それに相応しく振る舞うことを好んでいる。そして、夏の失敗は彼の記憶にもまだ新しい。そのフョードルが今求めているのは、彼の覇権に服す者全員に参集を命じる為の大義名分なのだ。花嫁を秘匿さなかったことはしきたり破りであり、花婿への、そしてバリシオへの背信であるが、いかんせん噂では大義にするにも名分にするにも弱すぎる。だがもしそれが真実と分かったならば、むしろ、十分すぎる。それが叶えばあとはもう簡単だ。全力でメルキを潰して家畜を奪えばいい。フョードルは草原を統一し、念願叶ってヴィーカも手に入れられる。
このフョードル側の事情を全て理解していたわけではもちろんないが、それでもアルトゥールは、ヴィーカの失踪をただの噂から、確固たる事実に変えてしまうことは絶対に出来なかった。既に、冬も休まぬ隊商と無数に散らばる間者たちを介してヴィーカ失踪の噂は草原の半ば以上に広まっていた。
背筋を伸ばして胸を張り、せめてもの威儀を整えたアルトゥールは、フョードルの深い瞳を真っ向から見据えて口を開く。
「いかに可汗直々のご要望とはいえ、しきたりを破ることだけは受け入れかねます」
「随分と気のないことを言うな、『鷹』よ」
「この婚礼が草原の安寧の礎になるのを願えばこそ。全てのしきたりを守り、天地神明に祝福されるものにするべきと考えます。一度でも毀たれた玉は、鹿の角(*25)のようには参りませぬ」
あまりに白々しい文句だった。しきたりなど疾うの昔に破られている。彼自身花嫁のゲルに足を踏み入れているのだ。それでも、アルトゥールはそう言うしかなかった。物理的な力関係という無慈悲な理を覆す為には、神やしきたりといった理外の理を引き合いに出す以外に術がないのだから。
そして、ここを以てフョードルの確信の度合いは八割から九割五分まで上がった。これ以上の押しは無意味だと彼は判断する。胡乱げにアルトゥールをしばらく見やった後、彼は静かに言った。
「まあいい。今回は引き下がろう」
その言葉にアルトゥールは胸をなで下ろした。疑いは間違いなく持たれているだろう、と思いながらも、とにかくフョードルの最終目的を達成させはしなかったことは確かなはずだった。同様に、今まで同様に息を詰めていたカテューシャもふっと息をついていた。
だが、その安堵も長くは続かなかった。フョードルのしゃがれた声が、再び彼らの耳朶を打つ。
「しかし残念だ。あのリディヤの娘、どれほど母に似て美しくなったか見たかったが」
その名が出た瞬間、明らかにアルトゥールの雰囲気が変わった。その意味を知っているカテューシャは、一度切った緊張の糸を全速力で手繰り寄せる。
「ヴェロニーカはリディヤに瓜ふたつだと聞いている。どうなのだ? アルトゥール汗よ」
リディヤという名が、彼の心を騒がせるのではない。この男が、フョードルがその名を口にすることが、アルトゥールの怒りを呼び覚ますのだった。
リディヤとは、十年前に殺された彼の妻の名であり、ヴィーカの実の母の名だった。
ヴィーカに受け継がれた豊かな金髪を誇り、草原一の美女と名高かったリディヤが、どうして引く手数多ある中からアルトゥールを選んだかは今でも謎に包まれている。リディヤという女はあまり口数の多い方ではなかったし、とりわけ自分の考えを披瀝することを避ける傾向があったのだ。だがそういう女が時折見せる笑顔ほど、男たちの心を掴んで離さないものはない。見事リディヤを射止めたアルトゥールは、草原中からやっかみの対象になった。
しかし、やっかむだけでは済まない者も居た。その一人がフョードルだった。既にバリシオの汗であり、当時まだ四十台の坂を上り始めたばかりの彼は、アルトゥールのものになったリディヤのことを諦めるなど考えもしなかったのだった。彼も既に身を固めており、二人の息子が居たが、草原では、強者なら複数の妻を抱えてもさしたる不都合はない。それを好むか好まないかの問題はあるといえども、フョードルはこれに関しては前者だった。彼は、リディヤをアルトゥールから奪い取るつもりだった。
「リディヤに、負けず劣らずかと」
答えるアルトゥールの声は明らかに震えていた。声の震えを隠すことすらも能わなかったのだから、彼の心の乱れは推して知るべしだった。そんな彼の様子を見て、フョードルは愉しむようにその頬を吊り上げた。
「ほう、夫であり父であるそなたが言うのなら間違いないのだろう。いよいよ楽しみになってきた」
アルトゥールはそれと察せられないよう、口の中で下唇を思いっきり噛んだ。血が出るのも気にしなかった。そうしなければ、もういつ椅子を蹴倒してしまうか自分でも分からなかったのだ。
アルトゥールとリディヤの間には子は三人生まれた。最初の男児二人は歩けるようになる前に病を得て死んでしまったが、最後に生まれた、リディヤと同じ金髪を持つ、ヴェロニーカと名付けられた女の子はすくすくと成長していった。
どうせ自分は次男坊だからと跡継ぎの居ないことを気にもしなかったアルトゥールと、ようやく元気に育ってくれた子に感謝で一杯だったリディヤからの愛情に恵まれて、その子は美しく育っていった。だが、ヴィーカが四歳を迎えたその年、リディヤは死んだ。
レフが討たれた後、メルキの戦士たちは為す術無く潰走してしまった。だからバリシオの者たちによる略奪が始まった時、女子供を守れる者はほとんど居なかった。逃げ遅れた者は捕らえられ、抵抗すれば殺された。リディヤは、その最中に命を落としたのだった。だが、その死は、あまりにも無惨な形で彼女を襲ったのだった。
元々馬を駆るのが上手でなかったリディヤは、妹のラリサにヴィーカを託して先に逃げさせた。その後、混乱を避けて人の少なそうな方を選んで自分も逃げ出したのだ。それが、彼女の運命を決めることになった。
逃げる途中で流れ矢を腹部に受けてリディヤは落馬した。周りに人は居なかったはずだ。居たとしても、誰も彼も逃げるのに必死で彼女を助ける余裕などはなかったに違いない。落ちた際に足も挫いた彼女は、馬蹄の音に囲まれながら痛む矢傷を押さえてただおびえるしかなかった。
そこに二人の男が現れた。フョードル可汗の息子たちだった。二人はすぐ、目の前で倒れているこの女はあのリディヤであることに気が付いた。矢の刺さった腹部から静かに血が流れ続けていることも、二人ともはっきりと見て分かっていた。
敵方の汗の弟の妻だ。捕らえて人質にすれば、償金が幾らでも、とはいかなくとも、相当な額まで上積みできるだろうことなどどんな馬鹿でも分かる話だった。そうでなくとも当時まだ二十五才。リディヤの美貌は未だまったく衰えていなかった。むざむざこんな宝物を手放そうとする好き者は草原のどこにも居なかった。
だから、二人が何事か手短に話してからリディヤの元に近付いてきた時、彼女は助かったと思ったのだ。捕虜にされ、しばらくはヴィーカにもアルトゥールにも会えないかもしれない。それでも、生きていればいつかまた会える。きっとバリシオに連れて行かれる。でもそこでは、まずこの傷の手当てをしてもらえるのだろう。彼女がそんなことを考えていた時だった。
二人は動けぬリディヤの四肢を押さえ込むと、彼女の旗袍を引き裂いた。露わになった乳房は乱暴に弄ばれ、秘部を隠そうとした股は力任せに広げられた。元より届かぬ叫び声は拳骨に遮られ、彼女は自身の衣服だったものでできた猿轡を噛まされた。二人は、涙と血を止め処なく流すリディヤを、代わる代わる陵辱した。
フョードルは、その配下の全員に対してとある誓約を強いていた。もしアルトゥールの妻リディヤを捕らえた場合、その者はリディヤをフョードルに献上する義務を持つ、と。これが、フョードルの二人の息子を暴挙へと走らせたのだった。
草原では、捕虜は捕らえた者に所有権がある。本来ならば二人は、どちらが捕らえたということで争うことになったとしても、リディヤの身柄を自由に扱う権利を持っていたのだ。彼女を償金と交換することも、或いは彼女に契りを結ぶように強いることも、他の誰もが持っているのと同じ、正当な権利だった。
しかし、フョードルは息子の彼らにさえもその権利の放棄を強要した。そして二人は息子ゆえに知っていた。一旦リディヤをフョードルに献上してしまえば、あとはあの男はリディヤを独占し、何もこちらに返すことはないだろうということを。それくらいなら、いっそ――。二人が地に横たわるリディヤの艶やかな四肢を見下ろした時、誓約を強いた父への恐れは怒りに転化し、眼前の女人をただ我がものにしたいという衝動が、その全身を支配したのだった。
報せを受け、現場に急行したフョードルを待っていたのは、汚されたリディヤの変わり果てた姿だった。矢が刺さったままのその身を、止血もされず、ただ辱められ続けたのだ。どれ程苦しんだ末の死だったかは誰の目にも明らかだった。怒りに我を忘れたフョードルは、その場で息子二人を斬り殺した。
アルトゥールがリディヤの死の一部始終を知ったのはそれから二日後。散り散りになったメルキの戦士たちの再統合を不眠不休で行っていた彼がようやくその体を休めようとした時、フョードルからの使者が現れた。
リディヤの骸を丁重に返還した使者は、何が起きたかを包み隠さず話すと、フョードルの言葉をアルトゥールに伝えた。つまり、リディヤを殺すつもりなどなかったこと。全ては彼の息子の軽挙妄動による忌まわしい事故であったこと。既に彼自身の手によって息子の始末はつけられたこと。そして、どうかリディヤが安らかに眠れることを祈る、ということを。
これにアルトゥールが激怒したのも当然だった。彼はしばらく呆然としていたが、やがて涙を流しながらこう叫んだ。
「事故? 忌まわしい事故だと? 何が事故か! そうだ、確かにリディヤを死に至らしめたのはその矢であり貴様の息子だ、フョードル。だが、だが、何がそやつらをそうさせたか? 貴様の欲ではないか。貴様の誓約さえなければ、あの二人とてまずは傷の手当てを優先したに違いないだろう。分かるか? フョードルに伝えろ。貴様の身勝手な、恥知らずな思い上がりが、リディヤを殺したのだと!」
だが、どれだけ彼が叫んでも、泣いても、リディヤが帰ってくることはなかった。メルキがバリシオに敗北したという現実も変わらなかった。骸が綺麗に清められ、送り返されただけでも幸せな方だ。アルトゥールは自身をそう信じ込ませるしかなかった。
そして、それから八年後。つまり現在より二年前。アルトゥールの元に、フョードルの方から縁談の話が持ちかけられた。フョードルの甥と、ヴィーカを娶わせたいとの話だった。フョードルは世継ぎである息子二人を自ら殺していたから、甥が出てきたことにアルトゥールも疑問を持たなかった。これがメルキの為ならば、と彼もその縁談を進めていったのだった。
だが、その直前になってアルトゥールは知ったのだ。その甥とやらはどうしようもない程に気が弱く、自分の意志というものを持たず、何もかもフョードルの言いなりになるような男であるということに。
これだけなら縁談を婚礼直前に破談にすることなど、アルトゥールでもしなかっただろう。だが、彼は知ってしまったのだ。フョードルの真の狙いが、草原の平和や両家の発展などではなく、リディヤに瓜二つという評判が広まり始めていた、ヴィーカを手中に収めることだということを。フョードルはヴィーカを甥と結婚させて彼女の身柄をバリシオの管理下に置いた後、すぐに離婚させて、今度は自分と結婚させるつもりだったのだ。これが、薄れかけていた彼の怒りに火を点けた。
「二年前も、ついに会えず仕舞いだったものだからな」
ゆっくりと時間を掛け、苦労しながら椅子から立ち上がったフョードルは、その年月を噛み締めるようにもったいぶって言う。フョードルは、結局、ヴィーカを求めているわけではなく、ましてや愛しているわけなどでもなかった。この男は、まだ顔も見ていないヴィーカに、かつてのリディヤの面影を重ねようとしているだけだったのだ。妻と娘をこのように冒涜されて黙っていられる男がいったいどこにいるだろうか。
だから、アルトゥールはどれだけの批判を受けようとも、あの縁談を破棄することを決めたのだ。だがこんな個人的な理由を理由として説明することは出来なかったため、様々な憶測が生まれてしまった。その結果として批判の矛先がアルトゥール本人ではなくヴィーカに向いてしまったと彼が気付いた時には、既に後の祭りであった。ヴィーカの寂しさが深まってしまったことを誰よりも悔やんだのは、他でもないアルトゥールだった。
「惜しいな。しかし、実に惜しい」
アルトゥールは、握り締めた拳を膝の上で震わせていた。彼も理解している。ここで自分がフョードルに手を出してしまえば、それはフョードルの思う壺なのだと。婚儀の不履行などよりも遙かに分かりやすい大義名分をフョードルに与えてしまうことになるのだと。
そして、それをフョードルは待っている。フョードルは尖がり帽子を被り直すと扉の元に、びっこを引きながら歩を進める。そしてそこで思い出したようにアルトゥールの方に振り向くと、大きくため息をついた。
「草原の至玉、二人並べて愛でてみたかったものだが。もはやそれは叶わぬのだな」
まるで流行りの戯曲を見て一言呟くように、首を横に振りながらフョードルは言った。
もう我慢の限界だった。アルトゥールは鬼のような形相で顔を上げ、フョードルにその視線を投げつける。彼は椅子を蹴倒すばかりの勢いで立ち上がりかけ、その拳を振りかざそうとした。
その時だった。がしゃん、と背筋の凍るような、何かが割れる音がゲルの中に響き渡る。
「手を滑らせまして。失礼致しました」
続けて聞こえたのはカテューシャの、普段通りの落ち着き払った声。予想外の出来事に驚いた二人の目が捉えたものは、粉々になったガラスの大杯だった。
わざと落としたのだ。アルトゥールもフョードルも、すぐにそれを直感した。だがそのことを述べ立てたところでどうなるわけでもない。アルトゥールがフョードルを殴る機会はこれで完全に失われた。浮きかけていた腰をアルトゥールは静かに下ろす。一方フョードルは、さも心配然とした顔で彼女に歩み寄る。
「おや、怪我はしておらぬか」
「お気遣い感謝致します。ですが、大丈夫です」
にこやかにそう返すカテューシャの声に棘などは欠片も感じられなかった。自分を失っていたアルトゥールを見た彼女は、逆に、この夫の仇の前で完全な平静を取り戻すことが出来たのだった。聡い女だ、とフョードルは内心で舌打ちした。
「それでは、失礼させてもらう。また会おう」
だが直前で策略を潰されたことへの苛立ちなどおくびにも出さず、フョードルは扉を開け、不自由な右脚を何とか前に運んで去っていった。
扉は開け放たれたままだった。晴れた空から吹き込んでくる冷たい風の向こうで『六槍』を随え、馬に乗って駆けていくフョードルの背が小さくなっていく。
彼らが確実に、十分に遠くに行ったのを認めたカテューシャは、何も言わずに扉を閉めた。静かになったゲルの中で、アルトゥールは彼女にぽつりと言った。
「すまなかった」
「いえ」
カテューシャは演技の出来る女だ。だが彼女は今、心の底からアルトゥールに心を寄せて口を開く。
「謝ることなどありません。レフも、リディヤも、きっと分かってくれています」
「そうではない。お前が止めてくれなければ、俺はあいつを殴っていただろう。あの畜生の狙い通りに」
「もしここに居るのが私とあなたではなく、レフとリディヤだったら、誰が止める間もなく、あの死に損ないは死んでいたでしょう。あなたは、頑張りましたよ」
アルトゥールの背にそう告げると、カテューシャは床の一角に散乱したガラスの欠片に目を落とす。
「むしろ、私の方が謝らなければ。このガラスの杯、あなたの自慢でしたよね」
「ああ。だが、いい。そんなもの、見た目ほどの価値もない。そんなものより」
アルトゥールは立ち上がると、ガラスの破片を避けながら壁際にある棚の前に向かう。その奥の方から、彼は小さな木彫りの杯を引っ張り出す。彼の掌にすっぽりと収まってしまうほどの、小さな杯だった。
そして彼は、それでアイラグを一杯酌むと、しばらくその水面を眺めた後、一口に飲み干した。こんな小さな杯さえも、いつも両手で包むように持っていたリディヤの姿を彼は思い出す。
「なあ、カテューシャ」
杯を音も立てずに棚に戻した後、アルトゥールは彼女の名を呼ぶ。
「何ですか?」
「お前は、ヴィーカが生きていると思うか?」
アルトゥールも、遂にその可能性を直視する。彼は未だ、ニコライがヴィーカとサーニャを逃がしたということを知らない。彼の中ではヴィーカは『海から来た人』の一派に攫われて、どことも知れぬところへ連れ去られたことになっているのだった。捜索隊も手ぶらで帰還してきた今、その足取りは全く掴めていない。草原の冬に慣れていない『海から来た人』にその自由を奪われているとなれば、万が一のことは十分に考えられた。
そんな彼に、カテューシャは教えてあげることは出来た。彼女の息子ニコライの想いを。ヴィーカは拐かされたわけではなく、ヴィーカ自身の信念に従って動いているのだということを。
「信じましょう」
しかし、彼女は短くそれだけを言った。ニコライは、母であるカテューシャにさえも彼が行ったことを隠そうとしていたのだ。どんな思いでニコライがその決断をしたのか。そのことを思えば、カテューシャは、彼の思いを踏みにじるような真似は絶対に出来なかった。彼女の言葉は、自分自身にも向けられていた。
「それ以外に、何をすることも出来ません」
「信じる、だけか」
力無くアルトゥールは返した。信じる。簡単なようでいて、これはその実とても難しい。誰かを信じるということは、それ以上に、自分を信じていなければ出来ないのだ。
「待つ者はいつもそうです」
だから、そのカテューシャの言葉には、揺るぎのない優しさが溢れていた。それを聞いたアルトゥールは、蒙を啓かれたように目を丸くした。そして、ふっと笑うとどこか懐かしむようにこう呟いた。
「思えば、俺は待たせてばかりだったのかもしれない。リディヤも、ヴィーカも、そして、お前も」
それに釣られてか、カテューシャも僅かに口角を上げてこう応じる。
「それが草原の男では?」
「そう言ってくれるか?」
「あなたたちは、やっぱり兄弟ですよ」
その手を口元に添えながら、カテューシャはくすりと微笑んだ。その仕草にアルトゥールは目を瞠った。目の前の女が、まるで一瞬で十年間若返ったように思えたからだ。思わず、彼の口は動いていた。
「変わったか? カテューシャ」
「さあ、そうかもしれませんね」
そう応じながらカテューシャは自分でも驚いていた。まだ、こんな風に笑えたなんて、と。
あの月のない夜、ニコライを手中に収め続けることを諦めたことが、皮肉なことに彼女の心を蘇らせていたのだった。カテューシャもまた、ヴィーカと同じだったのだ。自分で自分の心を縛り付けて、その中でもがいてずっと苦しんでいた。
だがカテューシャは本来、謀を隠す能面などよりも、素直な笑顔の方がずっと似合う。なにせ彼女はレフの妻だった女だ。あのニコライに輪を掛けて嘘や、曲がったことが大嫌いなレフ・パーヴロヴィチ・チェルカソフを愛し、そして愛された女なのだ。
「でも私など、あの子たちに較べれば――」
「汗よ!」
そのカテューシャの言葉を遮って、イヴァンがゲルの扉をぶち破る勢いで開け放った。そのまま駆け込んで来た彼の姿を前にして、やにわにアルトゥールたちに緊張が走る。
「どうした、イヴァン」
「コーネフの族長が、ボリス・イリーイチ・コーネフが殺された」
「何だと?」
アルトゥールは耳を疑った。現役の族長が殺されるなど、族長の息子が殺されたのとは全くわけが違う。有り得ない。そう叫びそうになるのを堪え、彼はイヴァンに先を促した。
「家畜を見回りに行った後、帰って来ないから捜しに行ったら銃で胸を撃たれて雪の上に倒れていたと言う。手当てはしたが、見つけた時にはもう死んでいた。供の者二人も、皆殺しだった」
「馬鹿な、そんな、なぜ」
アルトゥールには全く理解が出来なかった。なぜ殺す必要があるのだ? この時期に、しかも族長を? 供の者まで皆殺しにする理由はいったい?
だが、分からないことに拘泥している暇などはない。族長会議に出席の認められている族長が殺されたとなれば、それはもうその家の問題だけでは済まなかった。言うなれば、これをメルキ全体への宣戦布告と解釈しても何の間違いもなかったのだ。たとえ下手人が、そうとは全く知らなかったのだとしても、である。
アルトゥールは尽きぬ疑問を全て脇に除け、イヴァンに尋ねていく。
「族長ボリスと、あいつに随っていたコーネフの者二人が殺された。他に被害は?」
「今回は馬も、他の家畜も盗まれてなかった。だが」
「だが?」
「ボリスの着けていた黄金の腕輪と指輪が全てなくなっていた。おそらく、奪われたのだろう」
おそらくも何もなかった。証拠がないからイヴァンもこう言ったわけだが、死体からそういった価値のあるものが無くなっていたならば奪われた以外に有り得ない。そして、馬を初めとする家畜よりも金銀財宝の方を優先する者は、草原の男にも女にも、一人も居ない。
「やはり『海から来た人』か」
アルトゥールは確信した。いかにフョードルが索を弄するのが上手いとはいえ、彼は覇者の名を貶めるようなことは絶対にしない。なればこそアルトゥールをあれ程露骨に挑発したのだ。つまり、フョードルの意志とは無関係の『海から来た人』が存在するということになる。それを討つことに、何の遠慮も要るはずがない。
「私が出る。馬を」
その者たちに、いや、草原中にメルキの意志を知らしめなければならない。その為には汗であるアルトゥール自身の行動が、何よりも必要とされていた。
アルトゥールはカテューシャから、黄色の布片が縫い付けられた尖がり帽子と、矢が所狭しと林立する箙を受け取る。箙を肩に掛けた彼は、続いて使い込まれた愛用の弓を手に取った。肩で風を切りながら、アルトゥールはゲルの外へ出て、イヴァンが引いてきた彼の馬に跨るべくその鐙に足を掛けた。
「父上、お待ちを!」
だが、その時。彼の元に力強い声が届けられた。大地を揺るがす幾つもの蹄の響き。アルトゥールがそちらの方を見やれば、黒馬に跨る、全身黒染めの戦士を先頭にした十騎の集団が、彼の元へ駆けてきていた。
手綱を力強く引いて愛馬チェルニィを制して下馬したニコライに続き、『十騎』の他の者たちも次々と馬の足を止め、ひらりと地面に飛び降りていった。
突然の事態にアルトゥールを含めた三人はその驚きを隠せない。弓を左手に持ったまま、アルトゥールはニコライに尋ねかける。
「ニコライ、これはいったい?」
「事前の相談をせず申し訳ございません。火急の事態と判断しました。ですが、族長ボリスを殺した者を捕らえて参りました」
そう言ったニコライは後ろを振り向くと、右手の親指を立てて旗を振るように鋭く手首を捻らせた。ここへ連れて来い、の合図だった。『十騎』の一員が、後ろ手に縛られ猿轡を噛まされた、傷だらけの『海から来た人』を乱暴にアルトゥールの前まで引っ張って来る。
その者の目は不安の色に塗り潰され、ただひたすら周囲を見回していた。その体を背後から突き飛ばされるや否や、その者はそのまま地面に倒れ込んだ。男の様子にはちらりと一瞥を呉れただけで済ませ、ニコライはアルトゥールに何か重たそうな袋を手渡した。
アルトゥールは弓を肩に掛けると、その袋の口に手を掛ける。そして、息を呑んだ。
「これは」
「族長ボリスの腕輪と指輪です。紛れもない、この者が犯人だという証です」
そこにあったのは目映いばかりの鈍い光を放つ黄金の腕輪二つと、指輪三つだった。それらの表面に刻まれた彫刻は、確かにコーネフの族長ボリスのものであることを示していた。
「ニコライ、これをどうやって」
「三人居ましたが、一人は勝手に馬から落ちて蹴られて死に、もう一人はあまりに抵抗が激しく連れ帰ることが出来ませんでした」
草原の中でも選りすぐりの乗り手である『十騎』に囲まれたのだ。『海から来た人』風情が、騎馬の戦いで彼らに敵うわけがなかった。
一人はそのあまりの速さを前に恐慌を来して落馬し、そのまま立ち上がれないでいるうちに雪と蹄に挟まれて死亡した。もう一人は愚かなことに銃を使ってしまったのだ。その男が腰布から拳銃を抜いてから三秒後、銃弾が雪の中に吸い込まれていったのと対照的に、ニコライの放った矢は彼の胸を完璧に貫通していた。そんな光景を目の当たりにした三人目は、何も抵抗せずに震えながら大人しく捕らえられ、こうしてメルキの冬営地まで連行されたのであった。
「しかし、何とかこの者だけは――」
「そうではない。いいか、ニコライ。私もたった今ボリスの死を知ったのだ。それなのに、いったいお前はどうやってこんなに早く?」
あまりに早すぎた。イヴァンもあの急ぎようからすれば、一報が入った後即座にアルトゥールの元に向かったに違いない。いかに『十騎』が最速であるといえども、予め準備をしていなければこんなに早く捕らえて来られるはずがなかった。
だが、ニコライはその問いには答えない。彼の足下では二人の言葉をまったく理解できない『海から来た人』が、自らを待つ運命に恐怖している。その様子にはもはや興味も示さず、ニコライはただアルトゥールに対して真正面から迷い無く言った。
「それは後で話します。それよりも、父上、許可を頂きたいと思います」
「許可?」
思わず聞き返したアルトゥールに、ニコライは凛然として威儀を正し、彼の者の名を口にする。
「はい、アルフォンソ・オリオールの縄を解く許可を。この者を尋問します」
そしてニコライは、その名の響きに空恐ろしいものを感じていた。襲撃を予想して『十騎』に予め召集を掛けていたことも、『海から来た人』が南東の方角から来ると踏んで待ち伏せしていたことも、二人は殺して、最後の一人だけを安全に捕虜にしたことも、全て、ニコライがアルの助言に従った為に出来たことだったのだから。