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第十五話 雪の中、二人

「どう、サーニャ、火は点きそう?」

「もうちょっと、もうちょっとだけ待って下さい」

 大山脈スィリブロウの麓の森、雪と木々に閉ざされたその奥地にある小さな洞穴(ほらあな)。その中では強烈な寒さに震える二人の少女が、寄木状に組まれた枝を囲んでしゃがんでいた。右手に鋭いナイフを、左手にささがき状になった木の枝を持つヴィーカが見守る先には、火打ち石を何度も打ち合わせるサーニャの姿があった。

 濡れ木に火を点ける為には手順が要る。いくら濡れていようとも芯まで濡れている木は稀だ。なので、まずは手頃な木を叩き割って乾燥面を露出させ、格子型に組み上げる。更に乾いた部分をナイフで削って削り節状の着火剤を拵え、その中心に据えてやる。そしてあらかじめその下に手頃な石を用意して地面との距離を設けるようにしておけば、火が点くまではあと少しだ。

「それにしても、この場所覚えてて良かったですね」

ぽっかりと空いた半円形の入り口を持つ、岩肌の露出した洞穴の奥行きはせいぜい十メートル程もない。彼女たちとその愛馬二頭はここの最奥まで入り込んで吹雪の夜を無事に明かそうとしていた。

湿気が多く不快なのは否めなかったが、外界全てから入り口付近までを覆う雪と、縦横無尽に吹く風を十分にやり過ごせるのだから文句は言えたものではなかった。

「本当ね。まさかこんな風に役立つなんて」

 そういうわけで、吹雪の気配を察知して間一髪ここに飛び込んだヴィーカはサーニャの言葉に心の底から頷いた。この洞穴は去年の春に彼女たちが遠駆けの途中で見つけたものだった。もしここの存在を思い出せていなかったなら、今頃二人は荒れ始めた吹雪の中であえなく倒れて雪に埋もれていたことだろう。

 寂しげないななきがヴィーカの耳に入る。彼女は立ち上がり、洞穴の最奥で足を折る愛馬の元へと歩み寄る。

「ビュストリィ、お前も寒いのね。でも私だって寒いのよ。すぐサーニャが火を点けるから、もうちょっとだけ我慢して頂戴」

 優しくその茶毛に覆われた首筋を撫でてあげながら彼女はそう声を掛けた。今年三歳を迎えるこの牡馬は今度は嬉しそうにいななくと体を震わせる。その仕草と、掌を通して感じる体温にヴィーカの顔は思わずほころぶ。

彼女はビュストリィの横に並んで大地に体を預けるサーニャの愛馬にも手を伸ばし、その体を撫でてあげた。ヴィソーキィと名付けられたその栗毛の牝馬もまた、ヴィーカに触れられると嬉しそうに声を上げる。

「やった、姫様、出来ましたよ」

 しかし、そんなサーニャの快哉はそのどちらよりもずっと明るく輝いてヴィーカの耳に飛び込んで来た。

「本当? 点いたのね」

弾かれたようにヴィーカが彼女の元に走って行くと、そこではオレンジ色の炎が割り木の表面を舐めてゆっくりと大きく育ちつつあった。まだ小さいが、横風などは吹かないこの洞穴ならもう不意に消える心配はないだろう。火勢が十分に強まった後で木を足してやれば、明朝まではきっと燃え続けるはずだ。

「ありがとう、サーニャ。これで何とか凍え死なずに済みそうだわ」

 早速掌を火にかざして温まりつつ、ヴィーカはサーニャにそう礼を述べた。サーニャもまた、冷えた体に熱を取り戻しながら安心した表情を浮かべる。

「よかったです、本当に。ほら、ヴィソーキィたちもこっちにおいで、あったかいよ?」

 その呼び声に応じて彼女たちの愛馬もまた、ぱちぱちと音を立てる焚火に近付いてきた。ヴィーカとサーニャは、溶けた雪に侵されて色が変わる程に濡れていたフード付きのフェルトの外套を脱ぎ、乾かすべくその辺りに広げて置くと、焚火を囲むように腰を下ろした。

しばらくは誰も何も声を立てず、冷え切った体が再び温まる心地良さに目を閉じて身を委ねていた。

 そうやっていると精神的にも肉体的にも余裕が戻ってくる。だがそれと同時に彼女たちはすっかり忘れていた空腹もまた思い出すことになった。愛馬ビュストリィの首を撫でていたヴィーカは体を乗り出すと、鞍からぶら下げてある袋に手を伸ばした。

 食糧を取り出そうと袋の口を開けた彼女は、しかし、中身を見るや否やあっと声を上げた。それを聞いたサーニャはぱちりと目を開けると同時に尋ねる。

「姫様、どうかしましたか?」

「羊肉もアーロール(*19)もみんな凍っちゃってる。すぐには食べられそうにないわ」

 ヴィーカがつまんでサーニャに見せた一片の羊肉は、吹きすさぶ雪風に苛まれ続けた結果だろう、真っ白に凍ってしまっていた。肉を生で食べることには抵抗のない彼女たちだが、そもそも凍っていては文字通り歯が立たない。何とかしなければならなかった。

「炙ってみますか?」

「そうね。溶ければそれでいいから、見てて頂戴」

 頷いたヴィーカは四切れの羊肉を適当に選びとると、それらをサーニャに手渡した。受け取ったサーニャは氷漬けの肉を焚火のそばにかざし、じっと見つめて早く溶けてしまえと念を送り始めた。そんな彼女の様子を見たヴィーカは苦笑しながら立ち上がる。

「姫様、どこへ?」

「喉乾いたでしょ? 雪、取ってくるわ」

 人間が生きる上では食糧以上に大切なもの、すなわち水分。彼女たちが水筒の一本さえ携行していないのは、喉を潤すには雪で十分だという草原の価値観に基づいてのものだった。洞穴の入り口に向かって歩き出したヴィーカの背を見てサーニャは慌てて声を上げる。

「そんなのあたしが行きますよ」

「あなたはそれを見てて頂戴って言ったでしょ? 大丈夫、すぐ戻ってくるから」

 ひらひらと後ろ手を振って答えつつ、ヴィーカはそのまま歩を進めていった。割と人の話を聞かない彼女の性格をよく把握しているサーニャは、上げかけたその腰を短い溜め息とともに下ろした。しかし、その溜め息は呆れや諦めというよりかは、むしろ普段通りの元気を取り戻しつつあるヴィーカの様子への安堵感が現れたものだった。首を巡らしてヴィソーキィの方を向いたサーニャの顔には、柔らかな微笑が浮かんでいた。

 極寒の風に肺を侵されぬよう息を止め、ヴィーカはえいやと洞穴から飛び出した。一瞬の内に両手一杯に雪を掬うと彼女はすぐに洞穴の中に戻る。シルクの旗袍一枚しか身にまとっていない彼女だったが、腰の辺りまで伸ばしたその金髪の毛先に僅かに雪の結晶がいくつも付着しただけで、その体の芯の熱は奪われずに済んだ。

「明日も、止みそうにはないかな」

 天気を感じ取る能力(ちから)は、日々移ろいゆく自然と共に生きる草原の民がほとんど皆備えているものだ。風の吹き方や雲の陰影の様子などの、言葉では表し得ない微細な変化から草原の民は明日の、人によっては僅か一時間後の天気をまるで手に取るように知ることが出来る。

 そう呟きながら、手が凍えてしまう前にと足早にヴィーカはサーニャの元へと駆け戻った。サーニャは氷から解放されつつあった羊肉を地面に広げた外套の上に置くと、立ち上がって彼女を迎える。

「はい。サーニャ、すぐに飲み込んじゃ駄目だからね」

「分かってますって。姫様、あたしだってもう子供じゃないんですから」

 ヴィーカと雪を半分に分けあったサーニャはそう口を尖らせた。そういう返事をするからヴィーカの方もこうやってからかうのだが、実の所、十四歳のヴィーカに対してサーニャの方が一つ年上だったりする。

 雪を口に含んだ二人はそのまま舌の上で、或いは頬の裏でそれを弄びながら焚火の横に再び座る。口の感覚が一度無くなって、そして回復するまでは、言い換えれば水温が体温と同じ位になるまでは絶対に雪水を飲みこんではいけない。さもなければ冷水に体の内側から体温を奪われるという、零下の世界で生き延びる上では絶対に避けなければならない事態に陥ってしまうのだから。

 二人の喉が、ごくりと力強い音を立てる。新鮮な水の恩恵は、温まって血の廻りもよくなりつつあった二人の指先まで波紋のように行き渡った。ふう、と緊張の糸を断ち切る一息が二人の口から同時に零れる。

 焚火も十分に火勢は安定してきた。安心しきったサーニャはうつらうつらと船を漕ぎ始める。そんなサーニャの仕草をヴィーカは細い腕で膝を抱えて、両の膝の間に顎を埋めて何ということもなく眺めていた。

 しかし、その時彼女は気が付いた。それは今まではまったく気にしていなかったことだったが、気が付いてしまった今、無視しておくことなど絶対に出来ない程に、それは彼女の頭を覆い尽くしてしまった。

「サーニャ、ねえ、サーニャ」

「え、何ですか?」

名を呼ばれてまどろみから引き戻されたサーニャは、弾かれたように顔を上げてヴィーカの目を見た。

だがヴィーカは彼女の目を見ていなかった。それは決して、あの夏空の下で彼女が感じていたような後ろめたさがあったからではない。彼女の視線はただ、サーニャの右手の小指にじっと注がれていた。

「あなた、指輪は?」

「指輪?」

「ほら、あのガラスの指輪。アルからもらったやつ」

 ヴィーカの頭に浮かんでいたのは、アルから贈られたガラスの指輪を見せびらかしながら鼻歌交じりに小躍りするサーニャの姿。草原では作れないガラスの指輪は、未だアルの腕の骨折が癒えていなかった頃に助けてくれたお礼だとして彼がサーニャに贈ったものだった。

 無意識のうちにヴィーカは自らの後ろ髪を一本に結い上げる白絹のリボンに触れていた。ヴィーカにとってのこのリボンの意味は、そのままサーニャにとってのあの指輪の意味に置き換えられると彼女は思っている。

「ああ、あれですか。そう言えば、確かに。すっかり忘れちゃってましたね」

「忘れてた?」

 だから、本当にその存在を今ヴィーカに言われて思い出したサーニャの返事に、ヴィーカは空いた口をふさぐことが出来なかった。彼女らしくない、間髪を入れずにその口から飛び出した強い声にサーニャが驚き、肩をびくりと震わせたのにも気付かない。まるで理解できないといった調子で細かく首を左右に振りながら、ヴィーカは半ば自分にも向けてこんな言葉を口にする。

「嘘、だって、あなた」

 アルからの贈り物、忘れてたなんてわけがないじゃない。そう言おうとして、しかし、ヴィーカは寸でのところでそれを喉の奥に押し留めた。

いったい何にヴィーカが心を乱しているのか分からず、それ故ただただ心配そうに彼女を見つめてくるサーニャの瞳に嘘はなかった。そして、そのことに気付けぬ程ヴィーカは愚かではない。

「もう、信じられない」

 結局、形になった言葉はそんな一言で。自分でもわけの分からぬほど整理のつかない心のまま、曇りひとつない、綺麗なサーニャの視線に耐えることは出来ず、ヴィーカは焚火の方へ目線を落とした。

 しかし最も肝心なところをヴィーカが口にしようとしない為、サーニャは未だに困惑していた。アルから贈られた指輪を出奔する際に着け忘れ、そのまま存在ごと忘れてしまっていたのは確かにアルに悪いことをしたかもしれない。だがそのことでどうしてここまでヴィーカが奇妙な振る舞いをするのか、彼女には全然思い当たる節がなかったのだ。

「いったいどうしたんですか? 変な姫様」

「変とは何よ。まったく、ああ、もう」

 事ここに至って、ようやくヴィーカもサーニャが彼女の気持ちを把握していないことを理解した。言うべきか言わぬべきか、それでもヴィーカは迷った。今更こんなことを言うなんて、そうすることで自分の一方的な勘違いを認めるなんて、気位の高い彼女には耐え難いほどに情けなく、そしてそれ以上に恥かしいことだった。

「サーニャ」

「はい」

「笑わないで聞いてね」

「もちろんです」

 しかし、ヴィーカははっきりと言うことを決めた。彼女にとって唯一にして最高の親友であるサーニャには、自分のこの気持ちをちゃんと理解していてもらいたいとヴィーカは思ったのだ。

アルと出会う前の、サーニャにすら半ば心を閉ざしていた頃の彼女だったら決してこんな決断はしなかっただろう。かつてのヴィーカは、自分以外の誰に対しても心の底から向き合うことはなかった。本当の自分を、誰も見てくれはしないのだと彼女は諦めていたから。

だが彼女は変わったのだ。決してそれは、自分を隠すのを恐れて花飾りで着飾ることすら嫌悪していた彼女がリボンで髪を彩るようになっただけではない。ヴィーカは心の底から新たな自分になっていたのだ。生まれた時にはもう既に望まぬしがらみを背負わされて、そのしがらみを拒絶する一方でそれなしには自分を保てなかった弱いアルトゥールの娘ヴィーカ(ヴェロニーカ・アルトゥーロヴナ)はもう居ない。

彼女が変われたのはアルを愛するようになったから。『海から来た人』でありながら、草原の貴種たる彼女からは最も遠い存在でありながら、ヴィーカという一人の女を最も近くで見てくれているアルは彼女にとって特別な存在だった。そんなアルを他の誰にも奪われたくないというヴィーカの我侭は、あの夏の日に交わした約束で確かな恋心となり、そしてそれ以来ずっと、彼女の胸を焦がし続けていたのだ。

そんな彼女がアルを奪われると恐れた相手はただ一人だけ。顔を上げたヴィーカはその相手の目を見て、絶対に聞き返されぬ様、はっきりとした声でこう尋ねた。

「あなた、アルのこと好きじゃなかったの?」

「え?」

茶色の巻き毛を真っ直ぐ伸ばそうと指に絡めていたサーニャは、その問い掛けにぽかんと口を開けた。図星を突かれたから、ではない。そもそも、なぜ自分がそんなことを訊かれるのか分からなかったからだった。

 二人の間に流れる沈黙。口のみならず目まで丸くしたサーニャに対して、ヴィーカの方は口を真一文字に引き絞り、睨みつけんばかりの勢いで鋭い視線を彼女に差し向けていた。もちろんそれは威圧するつもりなどではなく、ただ単に気持ちの方が顔に出てしまっているだけ。それが分からないサーニャではなかったから、彼女は静かに問い返した。

「どうしてそうなるんですか?」

「どうしてもこうしても、あなたたち、放っておいたらずっと喋ってるし、すごい楽しそうだし、それに」

 ひとつひとつ、確かめるように言葉を紡いだヴィーカはそこで一度言葉を切る。向き合いたくない現実に向き合おうとする時、人は勇気を必要とする。彼女はぎゅっと手を握り締めて自身を鼓舞してようやく、その続きを口にすることが出来た。

「指輪まで、もらってたじゃない」

 今度は打って変わって消え入りそうなその声は、しかし、サーニャの耳にちゃんと届いていた。

 ここで初めてサーニャも理解した。ヴィーカが見せた奇妙な振る舞いの理由がどこにあったのかを。アルから貰った指輪をすっかり忘れていたという自分の言葉を、どうしてヴィーカは信じられないと言ったのかを。

 だからサーニャは、ヴィーカの顔を覆う曇りを拭ってあげようと、大きく首を横に振って優しく言った。

「違いますよ、姫様」

 表情も、声も、仕草も、敢えて必要以上にサーニャは明るく振る舞った。そうすることで、ヴィーカが抱いていた疑念は単なる誤解なのだと彼女は伝えようとした。実際、サーニャはアルのことを好きなわけではまったくないのだから。

「あたしがアルとよく喋ってたのは、単にあたしたちの言葉で喋れたからですよ。それだけです」

 しかしヴィーカの方は、今まさしく聞きたかった返事を聞いているにも関わらず、それを信じることが出来ていなかった。彼女が抱いていた不安の影を全て打ち消す為には、サーニャの更なる助けが必要だった。

「本当に?」

「本当ですよ。だって、姫様、同じ言葉を話せるだけで相手を好きになってたら、体がいくつあっても足りないじゃないですか。しっかもあのひどいアマルゴ(*20)訛り」

 今度は半ば冗談めかして、サーニャは口の端を上げてそう答えた。その表情が示すように、サーニャから見たアルフォンソという男は、本人不在の場でこんな軽口を叩いても何の呵責も感じない程度に仲の良い友達というところだった。

「本当に、本当なのね?」

「はい、あたしがアルのこと好きだっていうのは、それは誤解ってやつですよ」

 そこまでサーニャが断言してようやく、ヴィーカは彼女がアルを好きではないのだと信じることが出来た。握り締めた拳に込めていた力は自然に解け、ふくらみかけの胸を張り裂けんばかりにしていた不安は消え去った。思わず彼女の口からは息が漏れ、緊張しきっていた眉も枝垂(しだ)れる柳のように再び曲線を描いた。その表情に安心したサーニャは思わず口を滑らせてしまう。

「それに」

「それに、何?」

「いや、えっと、何でもありませんよ」

掌を口の前で左右に振ってそう取り繕いながら、だがその時、サーニャは心の中ではこう呟いていた。――ねえ姫様、あんなに二人して好き合ってるのに、誰が間に割って入ろうなんて思いますか、と。

「そんな、何でもないってことないでしょ? お願い、言って頂戴、サーニャ」

 しかし、不安と疑念を解消して普段通りの調子を完全に取り戻したヴィーカにそう追い打ちを掛けられて、ごまかそうとしたサーニャは再び口を滑らせてしまった。

「あの、その、姫様には悪いんですけど、正直言えば、アルはあたしの好みからは外れちゃってて」

「そうなの?」

 言い切ってしまってから、サーニャはしまったとばかりに手で口を覆った。だが言うつもりの無かったことも言ってしまうから口が滑る、なんて言葉が存在するわけだし、手遅れ、なんて表現もこの世には在るのだ。

サーニャが善後策を考えつくよりも早く、ヴィーカはあくまで年相応の好奇心から彼女に重ねて尋ねる。

「じゃあ、サーニャはどんな人が?」

「それ、聞きますか?」

「だって気になるじゃない」

 こんなの不公平だ、とサーニャは内心零した。ヴィーカの好み(タイプ)が既に、明確な一人の姿を取ってまで明らかになっている以上、答えないという選択肢は彼女には許されなかった。ヴィーカが許さないのではない。彼女が自分自身を許せないのだ。彼女もまた、ヴィーカのことを無二で最高の親友だと思っているのだから。

「笑わないで下さいよ」

 つい先程のヴィーカの前置きを借りた上で、サーニャは目を閉じ、その瞼の裏に想い人の姿を描きながら口を開いた。

「あたしは、もっと背が高くて、力強くて、かっこいい人が好きなんです。全部任せられるような、あたしのことずっと護ってくれるような、そんな人が」

 言い終えたサーニャは、我ながら何を言っているんだろう、と恥ずかしげな表情を浮かべていた。その脳裏に弓を引く彼の人の屈強な影をはっきりと浮かび上がらせていた彼女は、しかし、悪戯っぽく首を傾げるヴィーカの思いがけない一言で現実に引き戻された。

「じゃあ、ニコライとか?」

 その無邪気な一言を受けて、戸惑いではなく、今度は驚きで目を見開いたサーニャはヴィーカの方へ視線を遣った。満月のように円く張られた彼女の瞳を見てヴィーカは困惑したが、すぐに彼女も気が付いた。自らの思いつきが、ただの思いつきではなかったということに。

まったく期せずして想い人の名を言い当てられてしまったサーニャはしばらく呆然としていた。まさか本当に当たってしまうとは思わなかったヴィーカも同様に。

だが、ぱちりと薪が爆ぜる音が洞穴に響いた時、二人とも同時に自分を取り戻す。直後、先手を取ったのはサーニャだった。

「あの、そうだ、それじゃあ、姫様はそろそろ寝て下さい。ちゃんと休まないと体、持ちませんから。あと、これもしっかり食べて下さいね」

 ヴィーカに口を挟む暇を与えないように、サーニャはほとんど一息に早口でそう言った。同時に彼女は、先程外套の上に置いた羊肉二切れを手に取る。

 随分露骨にはぐらかして、とヴィーカは思ったが、今これ以上聞いたところでサーニャは突けば突くほど貝のように殻を閉ざしてしまうだろう。何となくそれが分かった彼女は、ニコライの名を胸の奥に仕舞い込んだ。

「待って、昨日は結局あなたに任せちゃったから、今日は私がやるわ」

 ヴィーカはサーニャにそう応じる。そして、顔の前に突き出されていた羊肉を落とさないように両手で受け取り、一口ずつ噛み切ってゆっくりと食べていく。

 狐や狼、下手をすれば熊や虎がこの洞穴に迷い込んでくることがないとは限らない。そんな時に備えてどちらかは常に起きていて、火の番をしながら警戒をしなければならない。大事な食料や衣服に延焼して取り返しのつかない事態になるのを防ぐ為でもある。

 昨日はメルキからの追手を警戒しながらだったので、サーニャよりも遥かに目も、耳も、そして勘も良いヴィーカは四六時中辺りに気を配り続けていた。今でこそこの吹雪で彼女たちの足跡はかき消されて追跡は困難になった。とはいえ、前日のヴィーカはスィリブロウの麓に広がる森に入る寸前まで周囲に耳を澄ませ続けていたのだった。追手のことは任せろ、とニコライは彼女たちに約束していたが、その言葉を額面通りに受け取るのはあまりにも危険すぎると二人とも分かっていた。信頼することと、期待することは似て非なるものなのだ。

 そうやって気を張り続け、適当な窪地を寝床に定めて落ち着くや否や寝息を立て始めたヴィーカを起こすことなどはサーニャには到底出来ないことだった。彼女は自身の決意を思い出すことで朝日が昇るまで何とか火を守りきった。ただ慣れない徹夜は一日中彼女の瞼を重くするだけでなく、口も滑りやすくさせていたのだった。

 貴重な食料をヴィーカと同じように丁寧に咀嚼しながら、サーニャは彼女に対して首を横に振る。

「そんな、いいですよ。平気ですって」

「嘘ばっかり。あなただって疲れてるでしょ?」

 だがヴィーカも引き下がらない。焚火を点け終えるやサーニャが思わず眠りの世界に引き込まれていたことを彼女は思い出す。あの様子ではサーニャが疲れていないはずがない、と彼女は確信していた。

 たとえそうでなくとも、二日続けて完全にサーニャに頼り切るのはヴィーカ自身が拒否するところだった。サーニャとは対等な間柄でありたい。未だはっきりと口にしたことはないとはいえども、ヴィーカは心のどこかで確かにそう思っていた。

 そんな理由から今度は十全の自信を瞳に宿して、ヴィーカはサーニャの目をじっと見つめた。そんなものを前にしてしまっては、サーニャも流石にもう微苦笑するしかなかった。

「分かりました。じゃあ、途中で交代しましょうよ」

 そう言うと、サーニャは地面に広げっぱなしだったフェルトの外套を手に取った。四着ともそれなりに乾いたのを確認した彼女は、適当にはたいて土埃を払い落とすと自身の分の二着に袖を通す。

「じゃあ、早く寝て頂戴」

「いえ、あたしが先にやりますよ」

「どうして? あなた、眠いんでしょ?」

「まあ眠いですけど、今のあたし、多分一旦寝たら起きませんから。でも、姫様なら起きられますよね?」

 二人とも寝てしまうのは絶対に避けなければならなかった。しばらくヴィーカは考えたが、最終的にサーニャの意見に同意するしかなかった。

「分かったわ」

「まあ、代わってもらう時起こしますから。それまでは姫様は気にせず休んでて下さい」

 そう言って彼女はヴィーカに残りの二着を差し出した。毛布の一枚も着替えの一着も持ってこなかったので、旅装を解いて足を伸ばして寝るなどという贅沢なことは出来ないのだ。幾ら寝にくかろうとこのフェルトの外套は大事な寝具のはずだった。

だが、ヴィーカは外套を一着だけ受け取ると、もう一つの方はそのままサーニャに返した。

「姫様? いいんですか?」

「私はこれでいい。そっちはあなたが使って頂戴」

「でも、それじゃあ」

「大丈夫。この子たちが居るわ」

 しっかりと外套の前を留めたヴィーカは、膝を折り曲げて座り直し、首から下全てを外套ですっぽりと覆い隠す。そして、傍で落ち着いていた愛馬たちの傍に身を寄せた。ヴィソーキィもビュストリィも、きちんと彼女の意図を理解したのだろう、ヴィーカの体をその体毛で覆うように二頭仲良く少し首を下げた。

「あなたも、寝るときはこうするといいわよ」

「ははあ、なるほど」

 あれなら確かに暖かそうだ、とサーニャも思わず感心してしまった。彼女はふとヴィーカの横に自分も並びたいと思ったが、あれほど居心地のよさそうな場所で眠らずに耐えられる確証はなかった。我慢我慢、と心の中で唱えながら、サーニャは三着目の外套を膝掛け代わりに使うことにする。

「それじゃ、ちゃんと起こしてね」

「はい」

 早速新しい木を焚火に継ぎ足し始めたサーニャの様子を最後に認めて、ヴィーカは目を閉じた。洞穴中に響く薪が爆ぜる音、骨に伝わる馬たちの拍動、時折聞こえる遠慮がちな衣擦れ。そんな合奏に耳を傾けながら、眠気が彼女の全身を満たすまではあっという間だった。

「おやすみなさい、サーニャ」

「はい、おやすみなさい」

 また一つ、ぱちりと火が跳んだ。


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