動き始めた歯車1
「此処にいたのか、レヴィ。」
ベルナドッテ城内に併設されている祭祀殿で祈りを捧げていたレヴィアナは、名を呼ばれて入り口の方を振り返った。動きに合わせてさらり、と肩から金髪が滑り落ちる。
「お兄・・いえ陛下。ご機嫌よう。」
見惚れるほど優美な作法で挨拶をする妹に、声をかけた兄シュヴァルは居心地が悪そうに苦笑した。先日、即位式を行い正式にベルナドッテ国王となった若き王だ。
「お前にそんな挨拶をされると何だかむず痒い。2人の時は普通で良いよ。」
「そう仰って頂くと助かります。お兄様。」
「また、礼拝を?」
「ええ。お父様の魂が安寧であるようにと祈っておりました。」
微笑みを浮かべてそう言うレヴィアナを、シュヴァルは複雑な表情で見つめた。
「・・・父上を、恨んではいないのか。」
「恨んでなど・・・私には、たった一人のお父様でしたから。」
その、たった一人の父親に彼女がどういう扱いを受けてきたか。
血の繋がった己の娘を、城の東の塔に閉じ込めるように住まわせていた父を。
他の兄弟姉妹たちと、極力接触させないように隔離させていた父を。
恨んでいないと言うのか、お前は。
思っていた事が、顔に出ていたのか、レヴィアナがお兄様、と続けた。
「お父様のされた事は、国王として正しいご判断だったと思います。」
「国王としては、だろう。」
父親としては最低だ――そんな言葉はさすがに口にするのは憚られたが、
父の妹に対する処遇は、シュヴァルにとっては常に嫌悪の対象だった。
若い彼女を、東の外れの塔に住まわせ、他の家族との接触を断つなど、
まるで幽閉するような、そんな父を許せなかった。
そして同時に、妹を不遇から助け出す事の出来なかった、自分も許せなかった。
父に対する嫌悪は、そのまま己に対する嫌悪だ。
だからこそ解せない。
父からひどい扱いを受けていたレヴィアナが、父の為にほとんど毎日と言って良いほど祈りを捧げている事が。
「お父様は、私が邪魔で東の塔に私を住まわせたとお考えですか?」
「他に理由があるのか?」
「私は、お父様の愛情だと思っています。」
「愛情・・・?愛情があれば、幽閉の様な真似をせず、家族と共に住まわせれば良かったんだ。」
妹を救い出せなかった過去の自分への苛立ちと情けなさで、シュヴァルの語気が荒くな
る。レヴィアナは、そんな兄の手をそっと握った。
「どうかお父様の事を悪く仰らないで。お父様は、出来る限りの力で私を守って下さっていたのです。
魔族の血を引く私を。」
ぴくり、とシュヴァルが肩を震わせた。
優しく己の手を握る彼女が、妹が、
人間と魔族の間に生まれた混血である事を知る者は少ない。
眩い金糸の髪と、紫水晶の様な瞳。
王族の中でもレヴィアナがずば抜けた美貌を持つ所以は、魔族の血を引いているからだと
彼女の素性を知る者なかにはそう言う者もいた。
魔族の血が王家に入る事などあってはならない。
レヴィアナの存在が明らかになった直後、城内は彼女の処遇で紛糾した。
事情を知らされたごく少数の側近たちと、宰相を集めて開かれた会議では、
当時まだ5歳に満たなかったレヴィアナを、辺境へ追放しろだの、下位貴族の養女にしろ
だの見識ある大人とは思えない意見が飛び交った。
結果、先王――つまりレヴィアナの父は彼女を城の外れにある東の塔に住まわせる事を決
めたのだ。彼女を、守る為に。
城の外に出せば、確実に彼女の命は危険に晒される。
王の血を引く異端の存在――そんな危険因子を野放しにしておく程、この国の王室は能天気ではない。
かといって、他の王族たちと共に住まわせれば、必ずや好奇と嫌悪の対象となる。
レヴィアナを守る為に考えられた最良にして唯一の方法が、彼女を城内に隔離する事だった。
護衛をつけ、城内の出入りを制限すれば彼女の身に危険が及ぶ事はない。
『すまぬ・・・』
たった一度、東の塔を訪れた父が、哀しげに幼い自分の頭を撫でたあの時の感触が、
昨日の事のように思い出される。
「もし私が父上なら……自分の娘を引き離して住まわせたりなどしない。」
今年で19になる妹は、華やかな舞踏会、サロンでのお喋り、美しいドレス――年頃の王族の娘が味わえるはずの楽しみを、何一つ知らずに育ったのだ。
「お言葉の通り、お兄様は私を“こちら”へ呼んで下さいました。」
「当然だ。私が即位したら、真っ先にお前をあの塔から助け出そうと心に決めていたのだからな。」
母の違う長兄は、幼い頃からとかくレヴィアナを可愛がってくれていた。
東の塔への出入りは禁じられていたが、秘密の抜け道を作り、事ある毎に会いに来て、
遊んでくれたのはシュヴァルだった。
その兄の優しさに、幾度となく救われた。
「“こちら”での暮らしに不都合は無いか?」
「不都合などある訳がありませんわ。」
「そうか。何かあればすぐに私に言うのだぞ。」
少々過保護にも思える兄の言葉に、くすりとレヴィアナは微笑みゆっくりと頷いた。
穏やかな時間は長くは続かず、兄を呼びに来た側近が彼を祭祀殿から連れ出して行った。
去り際にレヴィアナに目礼をした側近の眼に、言い難い険呑さが込められていた事に、
シュヴァルは気づき様もない。
「レヴィアナ様。夕餉の支度を致しましょうか。」
「もうそんな時間?」
侍女のエルザに声をかけられて、レヴィアナは読みかけの本を閉じる。
東の塔から中央棟に移ってもなお、自室で食事をする事を止めないのは、
やはり他の兄弟姉妹達への遠慮があるからだ。
「灯りをお入れになりませんと、目に悪いですよ。」
「ありがとう。」
ふと窓に目を向ければ、日はとっぷりと暮れていた。
小言を言いながら灯りをともすエルザに礼を言いつつ、窓の外を眺めていたレヴィアナは、
遠くにぼんやりと赤く光っている場所を見つける。
街の光ではない。炎だ。あの方角は確か――――。
「戦が激化している様ですね。」
「……そう。治世が代わっても、戦は終わらないのね。」
「我が軍にもかなり被害が出ているそうですわ。魔族側も疲弊はしている様ですが。」
人間と魔族の争いが始まったのは、レヴィアナが生まれるよりも前だと聞いている。
少なくとも20年続くこの戦の終着点を、生きている間に見る事ができるのかさえ分からないほど、
戦いは激化している。
人間よりも長い寿命と、強靭な生命力を持つ魔族に、人間が太刀打ちできるのは文明によって生み出された武器能力だけ。
あの炎は、その武器によって森が燃えている光なのだ。
「お兄様は、戦を終わらせて下さるおつもりは無いのかしら…」
「戦を終わらせる事は、始める事よりも何百倍も難しいと申しますから。」
「同じ時代に生きる種族なのに・・・」
そう思うのは、レヴィアナが2つの種族の血を引く存在だからなのかもしれない、と自身で自覚しているが、それでもやはり戦で誰かが傷つき、命を落としていく現実を見る事は辛い。
「どうかお心を痛めませんように。」
「え?」
「誰に何と言われようとも、貴女様はベルナドッテ王の血を引く正統な姫君にあらせられますわ。
戦が激化する事で、詮無い戯言を言う者もおりましょう。けれど、姫様が後ろ暗い思いをされる必要 は、全くございません。」
毅然と言いきったエルザに、しばし呆気に取られていたレヴィアナだったが、
彼女が励ましてくれているのだと理解して、微笑んだ。
兄とエルザが側にいてくれさえすれば、何も怖いものなどないのだと、
レヴィアナは信じて疑わなかった。
あの日が訪れるまでは―――――。