京
親は結構さっぱりとしていた。
学園に呼び出されても堂々としていて怯む様子はない。
京の母は、16で彼を産み1人で育てて来たのだ。肝っ玉が据わっていて当然だった。
まるで掴み掛かってくるかのような剣幕でわめき散らす祀の母親に対しても、
『恋愛は自由でしょ?まぁ、まだ未成年だからしかたないけど、成人したら今のようにはいかないよ』
と言い放った。
そうして京に対しても
『今は我慢しな。20歳になったら好きにすれば良い』
そう言って颯爽と歩いたのだった。
違う高校に行く事は止めた。
何時か祀を迎える時、自由になる金がないのは良くないと思い働く事を決意する。
年中暖かい沖縄なら体調を崩すことなく働けると思い、友人のつてを頼り海を渡った。
目前に広がる海を眺めながら思うのは祀と加良の事。
そうして、あの手紙は無事に加良へと渡っただろうか…、と思った。
川崎 雛奈に託した手紙。
彼女を信じて良いのか解らなかったが、他に頼る術もない。
自分たち2人を繋ぐパイプにもなってくれると言っていたから、信じるしかなかった。
そんな事をつらつらと考えながら、京は慣れない土地での仕事に精を出していた。
元来身体を動かす事を苦と思っていなかったから、仕事には案外早く慣れたと言える。
まだ3月だけれどぽかぽかと暖かい陽気にも、なんとか身体が慣れ始めていた。
朝から晩までみっちり働き、那覇市のボロアパートに帰って来るのは夜8時頃。今入っている現場は、那覇から随分と遠い為時間がかかってしまうのだ。更に夕方の帰宅ラッシュに阻まれる為、余計に遅くなる。
やっとの思いでアパートに辿りついた京には、1つ、とても大切な儀式があった。
それはアパートの郵便受けを見る事。
京と祀を繋ぐパイプからの物を待っているのだ。
毎月1度来るその物が、今の京には何よりも楽しみだった。
郵便受けに、綺麗な水色の封筒が入っているのが見える。京は嬉々としてそれを手に取った。大切そうに握りながら部屋に入ると、急いで封を開ける。
まずは雛奈からの簡単なメッセージカードに目を通す。
加良の現状等が綴られており京の瞼の裏に小さく美しい、腰まである長い黒髪を風に揺らし優雅に笑う姿が浮かんだ。あの少女はどうしているだろうか…。
そんな事を思いながら、同封してあった別の封筒を手にする。それは綺麗な薄緑色の封筒。
ゆっくりと封を切り、中の物を取り出した。
几帳面な祀の文字が其処に綴られている。京への熱い、愛おしい想いが入っていた。
今唯一自分たちを繋ぐその手紙をじっと眺めそうして京は眠りにつくのだった。
そんな毎日を送っていた京に歓喜の時が来たのは、7月を迎えたある日だった。
いつものように仕事を終えボロアパートに辿り着くと郵便受けを開ける。其処に綺麗な水色の封筒を発見し、京は急いで部屋に入った。
慎重に封を切り中にある文字を追って行く。そうして京はあと少しで喜びの雄たけびを上げる所だった。
祀の手紙には10月にこの沖縄に来ると言う事。どうやら修学旅行らしい。
京は急いでペンを取り、藤色の便箋に逢いたいとの想いを綴った。
祀が来る。
今までの中で一番愛した、愛おしい人が来る。
あの綺麗な顔を想い浮かべて、殺風景な部屋に申し訳程度に置いてある卓上カレンダーを10月まで送ったのだった。
がむしゃらに働いた。
目標があったから、夏休みなんてものもとらずに肌がまっ黒になるまで働いた。
そうしてあっと言う間に10月を迎え、京は逸る気持ちを抑えながらテレフォンカードを握り締め、ボロアパートより1番近い公衆電話に向かった。
携帯なんて物は持っていない。そんな物に金を使うなら1円でも多く貯金したかったのだ。
飲み込まれるカードを確認し、雛奈からのカードに記されていた携帯の番号を押す。数回のコールの後受話器から凛とした彼女の声が聞こえた。
『はい』
一呼吸置き
「石和だけど」
と伝える。雛奈の声が柔らかいものに変わり、お互い近況を報告しあった。
『いい?石和くん』
前置きにいやがおうにも緊張する。
『時間は11時。石和くんが指定したビーチで大丈夫だから』
合う場所は京が決める事になっていたから、京は沖縄に来て初めて会社の上司に連れて行ってもらったビーチを指定したのだった。あのビーチで見た夕日を祀に見せたい、と思ったから…。
『大丈夫だと思うけれど、くれぐれも見つからないように気をつけて』
そんな言葉を残し通話は切れた。
充分に承知している。祀の親は金持ち。この逢瀬がばれればどんな事をしかけて来るかわかったものではないのだ。
ぎゅっと拳を握り、京は前を向いた。
腕時計を確認する。
目の前に広がるビーチに打ち付けられる波の音を聴きながら苦笑した。
時計はまだ10時を回った所だ。逢いたい気持ちを抑えきれずに早く家を出てしまったのだ。
今日は平日だったけれど、会社は気持ち良く休みをくれた。
『石和は良く頑張ってるからな』
と社長は快く休みを承諾してくれたのだ。夏休みもとらずに精をだした結果というもの。
真っ白な砂浜に腰を降ろし、寄せては返す波を見続けた。
綺麗なエメラルドグリーンは、沖縄の陽をきらきらと照り返し更に鮮やかになる。この景色を祀と見たいとそれだけを願っていた。
どの位の時間をそのままで過ごしたか、ふと気になった京が腕時計を見ようとした時だった。
「あぁ、絢世!これ」
と言う声が聞こえる。頭を上げると一台の黄色いタクシーが見えた。その横に愛おしい人の姿を認める。あの時から止まってしまった時間が動き出した気がした。
何やら話をした後、連れの男がタクシーの中に戻って行く。そのまま走り出したタクシーの祀が一礼をしているのを確認し京は歩みを寄せた。
美しい後ろ姿に声を掛ける。
「…祀…」
あの華奢な肩が小さく震えた。
漸く逢えた喜びに、今すぐにでも抱きしめたいのに祀は振り向いてくれない。どうかしたのか?と思い再度呼びかけた。
「…祀?」
それでも振り向いてくれなくて京は焦った。
もしかして、本当は自分に逢いたくなかったのか。
こんなにも想っていたのは自分だけなのか。
そんな疑心暗鬼に囚われた京は、しかし自分に言い聞かせ目の前にある華奢な肩に触れた。
その瞬間、京を衝撃が襲う。己の胸に飛び込んで来た祀の身体は小さく震えていて、微かに聞こえる嗚咽に疑心暗鬼は一気に払拭された。
小刻みに震える身体を大きな腕で優しく包む。
「祀…逢いたかった…」
包んだ腕に力を込め、そっと囁く自らの声も涙に濡れていてどれ程お互いを恋焦がれていたのかを物語っていようだった。
京は祀の薄い色の髪に鼻を埋め、その懐かしい香りを鼻孔いっぱいに吸い込み堪能する。
顔を上げた祀の視線を受け、自然と優しい笑みが口角に浮かんだ。
どちらからともなく顔を近づける。そうして、久方ぶりの口付けを交わした。
ゆっくりと陽が傾いて行く。
波の音を聞きながら、横にある祀の体温を感じるとそれだけで幸せな気分になる。
お互いに、逢えなかった分色々と語った。
勿論加良の事も…。
「加良ちゃん…やっぱりまだ駄目みたい。僕達の想い、逆に彼女を苦しめてるのかな?」
綺麗な顔を苦痛に歪ませて、ぽつりと祀が呟いた。
それは京もずっと思っていた事。日本人形のように美しい加良が浮かぶ。
一瞬苦渋に満ちた顔をしたけれど、祀を不安がらせるだけだから直ぐに笑顔を浮かべた。
「…彼女は強い。あの状況でも俺達を守ろうとしてくれただろ?あのまま彼女が退学していたら、彼女まで悪者になってたと思う。それは違うよ。…今は、加良ちゃんの強さを信じるしかない」
それでも曇る祀の表情に、京は力強い笑顔を向ける。
「大丈夫!加良ちゃんは1人じゃない。影からでも支えてくれる川崎さんがいるんだから。だから俺達がそんな顔してたら失礼だよ。今は信じて前を向いて行こう…」
自分にも言い聞かせる。
今は信じるしかない。
川崎の力、加良の力を信じて、前を向いて行く。
それから、沖縄の地に入りずっと考えていた事を、祀に伝えなければならない。
それはある意味“さよなら”を意味していたから中々口にできなかった。
本当にそれが正しいのか解らない。けれど、今の自分達にはそれしかないと思ったのも又事実だった。
この綺麗な人を傷つけるかもしれない。
もしかしたら、本当の意味でさよならを告げられるかもしれないのだ。
臆病な自分が居るのを認め、1つ息を吐いた。そうして祀を見ると思いがけない強い瞳とぶつかった。
「僕、大学に行くよ」
突然に語られる。
「そうして、誰にも文句を言わせない程になる。だから、大学を卒業したら…“此処”に来ても良い…?」
最後はとても小さい声だった。
これは、つまりそれまで京には逢わない、という事を案に含んでいる。
自分が今言おうとした事を、どうやら先に言われてしまったようだ。
ぎゅっと瞑られた瞳が其処にはある。どれ程の事を考えこの決意を口にしたのかが伺えて切ない物が溢れてきた。
俯いてしまった祀を見詰め、少しでも重い物を取り払えればと思う。
だから京は、はぁ~、とわざと溜息を吐いた。横にある薄い肩がピクリと揺れるのを横目に、小さく微笑む。
「まったく…」
苦笑を交えながら言ってみると、涙に滲む声が聞こえた。
「ご」
続く言葉を言わせたくない。だから京は笑いながら祀の言葉に被せる様に言った。
「先に言うなよ~」
ふいに祀の顔が此方を向く。京は祀が不安にならないように精一杯の笑顔を浮かべた。
「5年かぁ~…。きっと直ぐだよな?」
確認するように呟くと、涙に揺れる祀の瞳が安堵へと変わる。
そう、これでいいのだ。
最愛の人を不安にさせてどうするのだ。
自分は絶対に待てる自信がある。
5年。
きっと直ぐではないけれど、でもこの気持ちはなくならない筈だ。其れはきっと祀同じ筈だ。
きっと待てる。
絶対に待てる。
待って、そうして祀を受け止めるのだ。自分は強くならなくてはいけない。
それに、美しい人が、加良が懸命になって守ろうとした想いだから変わる筈がないのだ。
そう強く心に想い京は目の前に広がる碧い海を眺め、横に居る愛おしい人を抱き締めたのだった。