終電三十分前、借りた鋸の刃が欠けました
日曜の夜十一時四十分、ベランダで乾いた音がした。
津田は鋸を持ったまま固まった。板の切り口に、細い銀色のかけらが二つ落ちている。刃の真ん中あたりで、歯が二枚、根元から欠けていた。
「……嘘だろ」
声が夜の団地に響いて、慌てて口を押さえた。試しにもう一度引いてみる。欠けたところで歯が板に引っかかり、鋸ががくんと跳ねた。これでは真っ直ぐ切れない。
鋸は佐々木から借りたものだった。佐々木は明日引っ越す。業者のトラックが来るのは昼で、津田は朝八時から荷造りを手伝う約束だった。その新居に置く本棚を、津田は引っ越し祝いに作ると言い出した。ホームセンターで板を切ってもらえば早いのに、「手で切ったほうが気持ちがこもる」と格好をつけたのも津田だ。
昼に鋸を受け取ったとき、佐々木は柄の尻に近い側面を指で叩いてみせた。焼き印で「佐」と一字入っている。
「親父のだ。去年の葬式のあと、道具を全部片付けたとき、これだけは残した」佐々木はそう言ってから、いつもの口調に戻った。「刃が硬いから、無理な角度で引くなよ。こじると一発で飛ぶ」
そして津田は、板の節に引っかかった刃を、まさにこじった。
明日の朝、この鋸を返す約束だった。佐々木はトラックが来るまでに、古いロフトベッドをこれでばらすつもりでいる。
近所のホームセンターは九時に閉まっている。スマホで「工具 中古 深夜」と打つ。二駅先に、深夜一時まで開いている中古工具の店が一軒だけあった。時計は十一時四十二分。終電は零時十分。駅まで歩いて十分。
行けば、帰りの電車はない。
その前に、佐々木に「ごめん、刃を欠いた」と打った。送信を押せずに消した。打ち直して、また消した。三度目も打って、消した。画面の時計は十一時五十八分だった。
津田は鋸を新聞紙で包み、財布をつかんで部屋を飛び出した。駅まで走った。零時十分の終電には、ホームの階段を駆け上がって、閉まりかけのドアに滑り込んだ。
◇
零時二十分。「古賀工具」の看板は半分電球が切れていた。棚にはインパクトドライバーと錆びたスパナが詰め込まれ、奥のカウンターで作業着の老人がラジオを聞いている。
「すみません、これと同じ鋸はありませんか」
老人――古賀は新聞紙を開き、鋸を蛍光灯にかざした。親指の腹で、欠けたところをなぞる。
「古い手打ちの片刃だな。いい鋼だ。節でこじったか」
「……はい」
古賀は奥へ引っ込み、細長い箱を持って戻ってきた。中には同じ長さの片刃鋸が入っていた。柄はまだ白く、刃に曇り一つない。
「同じ寸法の、新しいほうだ。一万二千円」
財布には一万三千円ある。払える。払って、この新しいほうを佐々木に渡せば、明日の朝は何事もなく済むかもしれない。
「ただし条件がある」古賀は津田の鋸を指で叩いた。「そっちを置いていけ。下取り二千円。差し引き一万円だ」
「定価で買います。こっちは持って帰らせてください」
「それなら売らん」古賀はあっさり言った。「新しいのを並べてるのは、古い鋸を引き取るためだ」
「……下取りが、条件なんですか」
「欠けた鋸を家に持って帰って、どうする。押し入れで錆びるだけだ。うちなら目立て屋に回して、また使えるようにして売る」
古賀の目は、新しい鋸ではなく、ずっと津田の鋸に向いていた。
津田は財布から一万円札を抜いた。指が勝手に動いた。明日の朝、新しい鋸を渡して「ありがとな」と言う。佐々木は忙しい。段ボールに囲まれて、柄の色なんか見ないかもしれない。見たとしても、「手入れしといた」と言えば――。
カウンターに札を置きかけて、手が止まった。
昼間、佐々木は柄の尻寄りを叩いてみせた。焼き印を見せるために。あれは、ただ道具を貸したんじゃない。
津田は箱の中の白い柄を見た。それから、自分の手の中の柄を見た。尻に近い黒ずんだ木に、焼き印の「佐」。新しいほうには、何も入っていない。
すり替えて返したら、佐々木は気づく。気づかなかったとしても、親父さんの柄は、この店の棚に並ぶ。
「これは、置いていけません。友達の親父さんの鋸なんです」
古賀は面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「じゃあ帰れ。一時に閉める」
「刃だけ、どうにかなりませんか。柄はそのままで」
古賀は少し黙り、それから棚の下から、柄の割れた鋸を一本引っ張り出した。
「ジャンクだ。柄は割れてるが、刃の長さは同じ、歯も同じ横挽きだ。中子の幅が少し細いかもしれん」
「それを、この柄に……」
「付け替えるのはお前だ。俺がやれば工賃を取る。刃は三千円。欠けた刃をうちに置いていくなら、二千円にしてやる」
津田は欠けた刃を見た。佐々木の親父さんが、何十年も使った刃だ。
「欠けたほうは、持って帰ります」
「千円の差だぞ」
「持って帰ります」
「三千円だな」古賀はカウンターの奥の作業台を顎で示した。「一時までだ。それを過ぎたら電気を消す」
◇
「柄に布を巻いてから万力に挟め。焼き印のところに直に当てるなよ。刃の背の付け根に当て木をして、刃の先のほうへ向けて叩く。たいていはそれで、刃だけが柄から前へ抜けてくる。俺のやり方だ。抜けなきゃそこでやめろ。力任せにやるな」
言われたとおりに叩く。動かない。もう一度。三度目で、刃がわずかに前へ浮いた。
「刃を持つな。布を巻け」
「はい」
返事をしながら、津田は待ちきれずに刃の背をつかもうとして、手が滑った。親指の付け根に、歯が一本引っかかった。浅い。だが血が玉になって、作業台に落ちた。
「言っただろうが」
古賀は舌打ちし、引き出しから絆創膏の箱を放ってよこした。
布を巻き直し、叩く。叩く。ようやく、欠けた刃が柄から抜けた。続いてジャンクの鋸からも、同じように刃を抜く。こちらは錆びていて、もっと手こずった。古賀に言われて、錆を紙ヤスリで落とし、油を引いた。
ジャンクの刃の中子を、まず柄の穴の横に当てて比べた。長さは足りる。差し込んでみると、古賀の言うとおり、幅が少し細い。揺すると、かたかたと鳴る。
「経木を噛ませろ」
古賀が紙のように薄い木の切れ端を差し出した。中子に沿わせて差し込み、今度は布で包んだ刃を万力に挟む。焼き印の側面にも布を当て直し、柄の尻に当て木をして叩き込む。三度、四度。揺すっても、もう鳴らない。柄の布をほどくと、「佐」の字は無事だった。
時計は一時を回っていた。古賀は電気を消さなかった。代わりにレジの横の紙に「延長 千円」と書き足した。
端材に刃を当てて引く。ざり、と引っかかる。もう一度、角度を真っ直ぐにして引く。今度は歯が木を噛み、細い屑が落ちた。
「……切れます」
「切れるだけだ。いつまでもつかは保証しない」古賀は言った。「引き味は親父さんの刃とは別物だ。そっちの欠けたほうは、目立て屋に見せろ。直るかどうかは向こうが決める」
古賀は名刺の裏に住所を走り書きして寄越した。それから、段ボールの切れ端とガムテープを作業台に置いた。
「刃をむき出しで持って帰るな。鞘を作れ」
津田は欠けた刃を段ボールで挟み、テープを巻いた。角が曲がって、いびつな鞘になった。
刃の三千円と延長の千円を払うと、財布には九千円が残った。帰りのタクシー代を思うと、今月の残りが心細い。
「ありがとうございました」
「下取りの話は、まだ生きてるからな」
古賀の声を背中に聞いて店を出ると、後ろで看板の明かりが消えた。津田は通りでタクシーを拾った。団地に着いたのは二時近くで、ベランダで鋸を引ける時間ではなかった。
◇
翌朝、津田は切りかけの板を三枚抱えて家を出た。どこまでやって、どこでやれなくなったのか。それも全部、見せるつもりだった。
八時十分前。佐々木のアパートは段ボール箱で埋まっていた。
「おう、津田。早いな」
作業シャツの袖をまくった佐々木が、ドアから顔を出した。
津田は鋸と、いびつな段ボールの鞘と、名刺を差し出した。足元には、切りかけの板が三枚。
「ごめん。昨日、節でこじって、刃を欠いた」
佐々木の手が止まった。
「刃は中古のに付け替えた。柄は親父さんのままだ。欠けた刃はこれ。この目立て屋で直るかどうか見てもらえる。代金は俺が出す。……本棚は、間に合わなかった」
佐々木は黙って鋸だけを受け取った。行き場のなくなった鞘と名刺を、津田は段ボール箱の上に置いた。佐々木は柄の尻寄りの焼き印を親指でなぞり、刃を光にかざす。津田の親指の絆創膏に、ちらりと目をやった。
それから、ネジだけ外してあったロフトベッドの横板に刃を当て、粗大ごみに出せる長さに引いた。
ざり、ざり。少し引っかかる音がして、板は二つに分かれた。
「……引き味が違うな」
「ごめん」
「親父の刃を、俺に聞かずに抜いたのか」
津田は顔を上げられなかった。「……ごめん。夜中に連絡して謝る度胸がなかった。三回打って、三回消した」
佐々木はしばらく、柄と新しい刃の継ぎ目を見ていた。
津田が段ボール箱の上に置いた鞘と名刺を、佐々木は拾い上げた。いびつな角を指で押し、名刺を裏返して住所を見た。そして何も言わずに、鞘を自分の工具箱に、名刺を胸のポケットにしまった。
代わりに、玄関の脇の袋から缶コーヒーを二本取り出し、一本を津田に投げた。
「ロフトの解体、全部お前がそれで切れ。本棚の続きは、新居でやれ」
「……新居で?」
「板を三枚も持ってきたんだろ。持って帰るのか」
津田は缶コーヒーを受け止め、痛む親指をかばいながらプルタブを引いた。
佐々木も引いた。缶の縁が、かつんと鳴った。




