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 東京午前零時の約束

掲載日:2026/07/18


毎晩午前零時にだけ届く、差出人不明のメール。


そこに書かれていたのは、まだ起きていない事件の予告だった。


悪戯なのか、未来を知る者からの警告なのか。


女性記者・早瀬美月が追うのは、事件の真相だけではなく、十七年前に封じられた家族の過去でもあった。


午前零時に交わされた約束とは何なのか。


最後まで読んでいただけたら嬉しいです。


そのメールが届くのは、決まって午前零時だった。


 秒針が十二を指し、日付が静かに変わるその瞬間、スマートフォンの画面が暗闇の中で白く光る。


 差出人名はない。


 件名もない。


 本文だけが、いつも短く、冷たく、まるで誰かの死亡時刻を告げるように並んでいた。


『明日、午後三時十二分。新宿駅東口前。赤い傘の女が倒れる』


 最初にそれを見た時、早瀬美月は笑った。


 疲れているのだと思った。


 新聞社の社会部記者として働き始めて七年。事件、事故、不祥事、汚職、火災、失踪、殺人未遂。人の不幸を追い続ける仕事に慣れたつもりでいても、心のどこかは毎日少しずつ削れていく。


 深夜零時、帰宅したばかりの狭いマンションで、コンビニの冷えたおにぎりをかじりながら開いたメール。


 それが、未来の事件を予告するものだなどと、本気で考える方がどうかしている。


「悪趣味な迷惑メール……」


 美月はそう呟き、メールを削除しようとした。


 だが、指が画面の上で止まった。


 新宿駅東口。


 赤い傘の女。


 午後三時十二分。


 妙に具体的だった。


 具体的すぎる冗談は、冗談に見えない。


 美月は結局、そのメールを消せなかった。


 翌日。


 午後三時前、美月は取材帰りに新宿へ寄った。


 ただの確認だった。


 何も起きなければ、それでいい。自分の馬鹿馬鹿しい不安を笑い飛ばして、会社へ戻ればいい。


 新宿駅東口は、いつも通り人で溢れていた。


 待ち合わせをする若者、スマートフォンを見ながら歩く会社員、観光客、客引き、立ち止まる人、急ぐ人。


 美月は駅前の時計を見上げた。


 午後三時九分。


 胸の奥で、嫌な鼓動が鳴った。


 そんなはずがない。


 偶然にもほどがある。


 そう思った瞬間、人波の向こうに赤いものが見えた。


 赤い傘だった。


 雨など降っていない。


 冬晴れの乾いた空の下で、真っ赤な傘を差した女が、東口前の横断歩道付近に立っていた。


 年齢は三十代半ばほど。


 黒いコート。


 白いマフラー。


 赤い傘。


 美月は反射的に歩き出した。


「すみません!」


 声をかけようとした時、女が胸を押さえた。


 その顔から血の気が引いていく。


 美月は走った。


「大丈夫ですか!」


 女は返事をしなかった。


 赤い傘が手から滑り落ち、アスファルトに転がった。


 午後三時十二分。


 女は人混みの真ん中で倒れた。


 悲鳴が上がった。


 誰かが救急車を呼べと叫んだ。


 誰かがスマートフォンを向けた。


 美月は膝をつき、女の肩に触れた。


 脈はあった。


 息もしている。


 だが、その首筋には、小さな針の跡のようなものがあった。


「何、これ……」


 美月の背中に冷たいものが走った。


 その夜、女は搬送先の病院で意識を取り戻した。命に別状はないと発表されたが、原因は不明。警察は事件性を否定しなかった。


 美月は社に戻り、記事を書いた。


 駅前で女性が突然倒れた。


 不審な注射痕。


 警察が捜査。


 だが、美月はメールのことを書けなかった。


 書けるはずがなかった。


 未来を告げるメールが届きました。


 その通りに事件が起きました。


 そんなことを本気で上司に話せば、疲れているから休めと言われるだけだ。


 そして、その夜も午前零時になった。


 スマートフォンが光った。


『明日、午前十時四十四分。渋谷区神南。古い雑居ビルの四階で火が出る。死者は出ない。だが、隠していたものが燃える』


 美月は息を止めた。


 画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 偶然ではない。


 そう思った瞬間、部屋の空気が重くなった。


 誰かに見られている。


 誰かに選ばれている。


 理由も分からないまま、事件の入口に立たされている。


 翌朝、美月は上司に嘘をついた。


「別件の確認で渋谷に行きます」


 社会部デスクの森下は、いつものように顔も上げずに言った。


「午後までに戻れ。都議会の汚職疑惑、続報まとめるぞ」


「はい」


 美月はカメラと手帳を鞄に入れ、会社を出た。


 渋谷区神南の古い雑居ビルは、メールの通りにそこにあった。


 一階は閉店した古着屋。


 二階は空きテナント。


 三階は小さなデザイン事務所。


 四階には、看板のない部屋があった。


 美月は向かいのカフェに入り、窓際の席に座った。


 午前十時三十分。


 何も起きない。


 十時三十八分。


 通行人がビルの前を通り過ぎる。


 十時四十二分。


 四階の窓の内側に、人影が見えた。


 十時四十四分。


 窓ガラスの向こうで、黒い煙が膨れ上がった。


「嘘……」


 数秒後、火災報知器の音が鳴り響いた。


 ビルの中から人が飛び出してくる。


 向かいのデザイン事務所の社員たちが慌てて階段を駆け下りた。


 美月はカフェを飛び出した。


 消防車が来るまでの数分間、四階の窓から煙が漏れ続けた。火の勢いは大きくなかった。消防隊がすぐに消し止めた。


 死者は出なかった。


 けが人も軽傷が一人だけ。


 だが、四階の部屋から運び出された燃え残りを見た時、美月は思わず足を止めた。


 焼け焦げた書類。


 破れた封筒。


 溶けたUSBメモリ。


 そして、焦げた写真。


 そこに写っていたのは、数日前から美月が追っていた都議会汚職疑惑の関係者だった。


 美月の心臓が強く跳ねた。


 メールの文面が頭の中で響く。


 隠していたものが燃える。


 これは偶然の事件ではない。


 誰かが、事件を起こしている。


 そして、その誰かは、美月に事前に知らせている。


 なぜ。


 なぜ自分なのか。


 その夜、美月は警察に行くべきか迷った。


 だが、証拠はメールだけだ。


 差出人不明。


 送信元不明。


 受信履歴は残っているのに、ヘッダー情報は異常なほど空白に近かった。


 詳しい人間に見せれば何か分かるかもしれない。


 美月は大学時代の同期で、現在はサイバー犯罪を専門にするフリーの調査員、秋山蓮に連絡した。


 蓮は美月の話を聞いた後、笑わなかった。


 いつもなら軽口の一つでも叩く男が、画面に表示されたメールを見たまま黙り込んだ。


「これ、普通じゃない」


「分かるの?」


「分からないから普通じゃないんだよ。送信経路がほとんど見えない。偽装にしても綺麗すぎる。海外サーバーを何重にも経由してるとか、そういう話じゃない。最初から足跡が存在してないみたいだ」


「そんなことできるの?」


「理論上は難しい。でも、できる人間がいないとは言い切れない」


「犯人は、私に事件を知らせてる」


「犯人って決めるのは早い」


「でも、メールが来た通りに事件が起きてる」


 蓮は眉をひそめた。


「美月。これ、警察に話した方がいい」


「話して信じてもらえる?」


「信じさせるしかない」


「その前に、もう一通来るかもしれない」


 美月がそう言った瞬間、壁の時計が午前零時を告げた。


 スマートフォンが震えた。


 二人は同時に画面を見た。


『明日、午後七時二十六分。港区芝公園。東京タワーが見える歩道橋の上で、男が落ちる。彼は自分で落ちるのではない』


 蓮が低く息を吐いた。


「……これは、殺人予告だ」


 翌日、美月は警察に向かった。


 だが、受付で足が止まった。


 説明できない。


 メールが届きました。


 未来の事件が書かれています。


 明日、人が落ちます。


 そんな話を、警察がどこまで本気にするだろう。


 しかも自分は記者だ。


 情報源を明かさずに記事を書き、警察と駆け引きをする側の人間だ。警察にとって、記者は協力者であると同時に厄介者でもある。


 美月は結局、警察署の前を通り過ぎた。


 そして、芝公園へ向かった。


 午後七時前。


 東京タワーは夜空に赤く浮かび上がっていた。


 歩道橋の上には、美月と蓮がいた。


 人通りは多くない。


 会社帰りの男女、観光客らしき外国人、犬の散歩をする老人。


 午後七時十八分。


 スーツ姿の男が歩道橋に上がってきた。


 美月は息を呑んだ。


 男は見覚えのある顔だった。


 都議会汚職疑惑で名前が挙がっていた、建設会社の元役員、松倉昭彦。


 数日前から行方が分からなくなっていた人物だ。


「蓮、あの人……」


「分かってる」


 松倉はひどく怯えた顔をしていた。


 何度も背後を振り返りながら、歩道橋の中央へ進む。


 その数メートル後ろから、黒いキャップを被った人物が上がってきた。


 顔は見えない。


 性別も分からない。


 美月は走り出した。


「松倉さん!」


 男が振り返った。


 その瞬間、黒いキャップの人物が松倉の背中に近づいた。


 蓮が叫ぶ。


「美月、下がれ!」


 松倉の身体が欄干へ押しつけられた。


 美月は咄嗟にカメラを構えた。


 シャッターを切る。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 松倉が叫んだ。


「違う! 俺じゃない! 俺は頼まれただけだ!」


 黒いキャップの人物が、松倉の襟を掴んだ。


 美月は鞄を投げつけた。


 それが相手の肩に当たり、動きが一瞬止まる。


 蓮が駆け寄り、松倉の腕を掴んだ。


 だが、黒いキャップの人物は素早く身を翻し、階段を駆け下りていった。


「待て!」


 蓮が追おうとしたが、美月は叫んだ。


「松倉さんを!」


 松倉は欄干にしがみつき、震えていた。


 あと数秒遅れていれば、彼は歩道橋から落ちていた。


 午後七時二十六分。


 メールの予告時刻だった。


 美月はその場で警察に通報した。


 今度は逃げられなかった。


 事情聴取は深夜まで続いた。


 美月は三通のメールを見せた。


 刑事たちは最初こそ疑う目を向けたが、芝公園の件で撮影した写真と、松倉の証言が空気を変えた。


 松倉は泣きながら話した。


 都議会汚職疑惑の裏には、ある都市再開発計画が絡んでいたこと。


 政治家、建設会社、広告代理店、警察OBまでが関わっていたこと。


 そして、その中心にいた人物の名を出そうとした瞬間、松倉は口を閉ざした。


「言えば殺される」


 そう言って、彼は震え続けた。


 美月は廊下で缶コーヒーを握りしめながら、眠れない頭で考えていた。


 メールの差出人は、事件を止めたいのか。


 それとも、事件を起こしながら美月を誘導しているのか。


 自分は利用されているのか。


 それとも、選ばれているのか。


 午前零時が近づいていた。


 警察署の廊下の時計が、静かに針を進める。


 十一時五十九分。


 美月はスマートフォンを握りしめた。


 来る。


 必ず来る。


 零時。


 画面が光った。


『明日、午前零時。あなたの家で、過去が死ぬ』


 美月は、しばらく意味が分からなかった。


 明日、午前零時。


 つまり、二十四時間後。


 あなたの家。


 過去が死ぬ。


 蓮が画面を覗き込み、顔色を変えた。


「美月、今すぐ家に戻るな」


「でも……」


「これは脅しだ。警察に言え」


 美月は頷こうとした。


 だが、その時、スマートフォンがもう一度震えた。


 初めてだった。


 午前零時に二通目が届いたのは。


『鍵は、あなたが十七年前に失くしたものの中にある』


 十七年前。


 美月の呼吸が止まった。


 十七年前。


 父が死んだ年だった。


 早瀬美月がまだ十二歳だった冬。


 新聞記者だった父、早瀬徹は、取材中の事故で死んだとされている。


 湾岸地区の倉庫火災。


 逃げ遅れ。


 不運な事故。


 そう説明された。


 だが、母は葬儀の後、美月に一度だけ言った。


「お父さんは、事故で死んだんじゃない」


 それから数日後、母は姿を消した。


 失踪届は出された。


 捜索もされた。


 だが、見つからなかった。


 美月は親戚の家を転々とし、父と同じ記者になった。


 いつか、父の死と母の失踪の真相を知るために。


 だが、十七年経った今も、何も分かっていない。


 その過去が、今、午前零時のメールによって掘り起こされようとしていた。


「蓮」


 美月の声は震えていた。


「これ、父のことを知ってる」


 蓮は真剣な顔で言った。


「だったらなおさら、一人で動くな」


 だが、美月はもう分かっていた。


 このメールの差出人は、単なる事件の予告者ではない。


 自分の過去を知っている。


 父の死を知っている。


 母の失踪を知っている。


 そして、十七年前に失くしたものを知っている。


 美月は警察の保護を受けることになった。


 だが、眠れるはずがなかった。


 翌日、彼女は自宅マンションへ戻る許可を得た。


 刑事二人と蓮が同行した。


 部屋の中は、朝出た時のままだった。


 テーブルの上のマグカップ。


 積まれた資料。


 ソファに投げたままのブランケット。


 何も変わっていない。


 だが、美月には部屋全体が他人の部屋のように見えた。


 刑事が室内を確認する。


 異常なし。


 盗聴器も、侵入の形跡もない。


 だが、美月は本棚の前で立ち止まった。


 十七年前に失くしたもの。


 本当に失くしたのだろうか。


 父の遺品は、段ボール一箱分だけ残っている。


 何度も調べた。


 何度も見返した。


 だが、子どもの頃の自分が理解できなかったものが、今なら分かるかもしれない。


 美月はクローゼットの奥から古い段ボールを引き出した。


 父の腕時計。


 取材用の手帳。


 古いフィルムケース。


 焦げた名刺入れ。


 そして、小さな鍵。


 美月は息を呑んだ。


「これ……」


 鍵は、見覚えがあった。


 父がいつも持っていたものだ。


 美月が幼い頃、一度だけ触らせてもらったことがある。


 どこの鍵か聞くと、父は笑って言った。


「約束の箱を開ける鍵だよ」


「約束?」


「ああ。美月が大人になった時に、必要になるかもしれない約束だ」


 その記憶を、美月は忘れていた。


 いや、忘れたふりをしていた。


 蓮が鍵を見つめる。


「どこの鍵だ?」


「分からない。でも、父のもの」


 その時、美月のスマートフォンが震えた。


 時刻は午後一時十二分。


 零時ではない。


 メールではなかった。


 非通知着信。


 刑事が目で制止する。


 美月はスピーカーにして電話に出た。


「……はい」


 しばらく無音が続いた。


 そして、声が聞こえた。


 低く加工された声。


『鍵を見つけたね』


 美月の背筋が凍った。


「あなたは誰?」


『君のお父さんが守れなかったものを、君に渡す人間だ』


「父を知っているの?」


『早瀬徹は、十七年前に殺された』


 部屋の空気が止まった。


 刑事たちも動かなかった。


 美月は唇を噛みしめた。


「誰に」


『東京を動かしている人間たちに』


「曖昧なことを言わないで。名前を言って」


『名前を知れば、君も殺される』


「もう巻き込まれてる」


『だからメールを送った』


「なぜ私に?」


 電話の向こうで、ほんのわずかに沈黙があった。


『君が、早瀬徹の娘だから』


「それだけ?」


『それだけじゃない』


 声がわずかに揺れた気がした。


『君のお母さんが、まだ生きているから』


 美月の手からスマートフォンが滑り落ちそうになった。


「母が……?」


『今夜、午前零時。君の家で過去が死ぬ。それは、君が何を選ぶかで変わる』


「母はどこにいるの!」


『鍵を使え。場所は、君のお父さんが最後に記事を書いた場所だ』


 通話は切れた。


 刑事の一人がすぐに逆探知の確認を取ったが、発信元は掴めなかった。


 美月は震える手で、父の古い手帳を開いた。


 十七年前のページ。


 最後に記された取材メモ。


『湾岸第七倉庫』

『再開発』

『午前零時の会合』

『約束を破った者から消される』

『Mへ。もし俺に何かあれば、箱を開けろ』


 M。


 美月。


 父は、自分に何かを残していた。


 湾岸第七倉庫は、十七年前に火災が起きた場所だった。


 現在は再開発予定地として封鎖されている。


 美月は警察の制止を振り切ることはしなかった。


 だが、行かないという選択肢もなかった。


 刑事たち、蓮、そして美月は、夕方、湾岸地区へ向かった。


 東京湾の風は冷たかった。


 高層マンション群の向こうに、取り壊しを待つ古い倉庫街が残っている。


 その一角に、第七倉庫はあった。


 錆びたシャッター。


 剥がれた番号板。


 立入禁止のフェンス。


 十七年前、美月の父が死んだ場所。


 美月は鍵を握りしめた。


 倉庫の裏手に回ると、小さな管理室があった。


 扉には古い鍵穴がある。


 鍵は、静かに回った。


 中は埃だらけだった。


 壊れた机。


 錆びたロッカー。


 割れた蛍光灯。


 美月は父の手帳を思い出しながら、壁際のロッカーを調べた。


 一番奥。


 床板が一枚、わずかに浮いていた。


 蓮が工具で板を外す。


 その下に、金属製の小箱があった。


 箱にも鍵穴があった。


 美月は父の鍵を差し込んだ。


 開いた。


 中には、古いカセットテープ、フィルム、数枚の写真、そして封筒が入っていた。


 封筒には、父の字で書かれていた。


『美月へ』


 美月は震える指で封筒を開いた。


『美月。これを読んでいるということは、俺は君のそばにいないのだと思う。すまない。父親らしいことを何一つしてやれなかった。だが、君にだけは真実を残す。東京の再開発を巡って、人が消されている。事故に見せかけられ、病死にされ、自殺にされている。俺はその証拠を掴んだ。だが、記事にする前に、内部から情報が漏れた。俺を売った者がいる。もし俺が死んだら、この箱を信じてほしい。そして、誰も簡単に信じるな。午前零時に交わされた約束が、すべての始まりだ』


 美月の視界が滲んだ。


 父の字だった。


 父の声が聞こえる気がした。


 蓮が写真を確認していた。


「美月、これを見ろ」


 写真には、若い頃の父が写っていた。


 その隣に、数人の男たち。


 政治家。


 建設会社役員。


 警察関係者。


 そして、もう一人。


 美月はその顔を見た瞬間、息を止めた。


 社会部デスク、森下だった。


 今より若い。


 だが、間違いない。


 毎日同じ職場で顔を合わせていた上司。


 美月に都議会汚職疑惑を追わせていた男。


 父を知っていたことなど、一度も言わなかった男。


 その森下が、写真の中で父の肩に手を置いて笑っていた。


「森下さん……?」


 その時、外で物音がした。


 刑事が振り返る。


 次の瞬間、倉庫の外で爆発音が響いた。


 炎が上がった。


 誰かが叫んだ。


「火だ!」


 煙が管理室に流れ込んでくる。


 十七年前と同じ。


 火災。


 証拠隠滅。


 美月は箱を抱えた。


 蓮が彼女の手を引く。


「走れ!」


 外へ出ようとした瞬間、管理室の入口に人影が立った。


 黒いコート。


 黒い手袋。


 そして、聞き慣れた声。


「そこまでだ、早瀬」


 森下だった。


 美月は箱を抱えたまま、彼を見つめた。


「どうして……」


 森下は悲しそうに笑った。


「お前の父親も、同じ顔をしていたよ」


「父を殺したの?」


「俺じゃない」


「でも知ってた」


「知っていた。止められなかった。いや、止めなかった」


 炎の音が近づいてくる。


 刑事が銃に手をかけた。


 森下は両手を上げたが、逃げる様子はなかった。


「美月。お前にメールを送っていたのは俺じゃない」


「じゃあ誰」


「俺も探していた。そいつは、俺たち全員の過去を知っている」


「俺たち?」


 森下は笑った。


「午前零時の約束をした者たちだ」


 美月は父の手紙を思い出した。


 午前零時に交わされた約束。


 すべての始まり。


「何の約束?」


 森下は答えなかった。


 代わりに、ポケットから古いICレコーダーを取り出した。


「これを持っていけ」


「何?」


「十七年前、お前の父親が最後に録った音声だ。俺はこれだけを隠した。怖かったからな。正義より、自分の命が惜しかった」


「今さら……」


「ああ、今さらだ」


 森下は自嘲するように言った。


「でも、今夜で終わりにしたい」


 その瞬間、背後から別の音がした。


 拍手だった。


 乾いた拍手。


 炎と煙の向こうから、一人の女が現れた。


 長い髪。


 細い身体。


 黒い服。


 年齢は五十代ほどに見えた。


 美月はその顔を見た瞬間、全身の力が抜けそうになった。


「……お母さん?」


 女は微笑んだ。


「久しぶりね、美月」


 早瀬美月の母、早瀬真帆。


 十七年前に失踪した母が、炎の向こうに立っていた。


 美月は声を出せなかった。


 会いたかった。


 恨んでいた。


 死んだと思っていた。


 探していた。


 忘れようとしていた。


 そのすべてが胸の中で崩れ、言葉にならなかった。


 母は森下を見た。


「森下さん。あなたは最後まで中途半端な人ね」


 森下の顔色が変わった。


「まさか、お前が……」


「ええ」


 母は静かに言った。


「メールを送ったのは私」


 美月は母を見つめた。


「どうして……」


「あなたを守るため」


「守る? 事件に巻き込んでおいて?」


「巻き込んだんじゃない。戻したの。あなたが本来立つべき場所に」


「そんな勝手なこと……!」


「勝手よ」


 母は悲しげに微笑んだ。


「母親失格なのは分かってる。でも、あなたのお父さんが殺され、私が逃げた時から、あなたはずっとこの事件の中にいた」


「だったら、どうして今まで何も言ってくれなかったの!」


 美月の叫びが、燃える倉庫に響いた。


「私はずっと待ってた! お母さんが帰ってくるのを! 何か理由があるって信じてた! でも、何もなかった! 手紙も、電話も、何も!」


 母の表情が初めて崩れた。


「連絡すれば、あなたが殺されると思った」


「それでも、私は……」


「生きていてほしかった」


 その一言で、美月の喉が詰まった。


 母は続けた。


「十七年前、あなたのお父さんは再開発利権の証拠を掴んだ。関わっていたのは政治家、企業、警察、報道関係者。そして、彼らは午前零時に密会し、互いの罪を守る約束をした。誰か一人が裏切れば、全員が終わる。だから彼らは、約束を破りそうな人間を消した」


「父は約束を破ろうとしたの?」


「違う。お父さんは、その約束そのものを暴こうとした」


 森下が呻くように言った。


「早瀬徹は、最後まで記者だった」


 母は彼を見た。


「あなたは違った」


「……そうだな」


 炎がさらに近づく。


 蓮が叫んだ。


「話はあとだ! ここを出るぞ!」


 その時、美月のスマートフォンが震えた。


 午前零時。


 画面が光る。


 だが、母はスマートフォンを持っていなかった。


 美月は画面を見た。


『約束を終わらせるには、ひとりが死ななければならない』


 美月は顔を上げた。


「お母さんじゃない……?」


 母の表情が凍った。


「違う。私は送っていない」


 では、誰が。


 その答えは、すぐに現れた。


 管理室の外、炎の向こうから、黒いキャップの人物が歩いてきた。


 芝公園で松倉を突き落とそうとした人物。


 その人物はゆっくりとキャップを外した。


 若い男だった。


 美月と同じくらいの年齢。


 だが、その目はひどく乾いていた。


 森下が呟いた。


「お前は……松倉の息子か」


 男は笑った。


「違いますよ。松倉の息子は、とっくに死にました」


 母が息を呑む。


「まさか……」


 男は美月を見た。


「初めまして、早瀬美月さん」


「あなたは誰」


「あなたと同じです。午前零時の約束で、人生を壊された者です」


 男の名は、楠井透といった。


 十七年前の再開発計画によって立ち退きを迫られた一家の息子。


 父は不審死。


 母は精神を病み、自ら命を絶った。


 幼かった透だけが残された。


 彼は成長し、復讐のために関係者を調べ上げた。


 その途中で、早瀬徹が残した記録と、真帆が密かに追い続けていた証拠に辿り着いた。


 最初のメールは真帆が送った。


 美月を事件へ導くために。


 だが、途中から透がその仕組みに入り込んだ。


 事件を止めるためではない。


 事件を完成させるために。


「あなたに見届けてほしかったんです」


 透は穏やかに言った。


「記者の娘であるあなたに。真実が暴かれる瞬間を」


「人を殺して?」


「殺された人間の数に比べれば、少ない」


「それは正義じゃない」


「正義?」


 透は笑った。


「あなたのお父さんは正義のために死んだ。あなたのお母さんは正義のために娘を捨てた。森下は正義から逃げた。警察は正義を握り潰した。新聞社は正義を売った。それでもまだ、その言葉を信じてるんですか?」


 美月は言い返せなかった。


 だが、箱を抱く手に力を込めた。


「信じてるんじゃない」


 美月は言った。


「捨てたら、父が本当に無駄になるから」


 透の目が細くなった。


「綺麗事だ」


「そうかもしれない。でも、あなたの復讐を記事にはしない。あなたの怒りは書く。あなたの家族に起きたことも書く。けれど、あなたを英雄にはしない」


「僕を裁くんですか」


「違う」


 美月は一歩前に出た。


「全部裁かせる。あなたも、森下さんも、午前零時の約束をした全員も。記事にして、証拠を出して、名前を出して、逃げ場をなくす」


 透はしばらく黙っていた。


 その背後で火が広がっていく。


 やがて、彼は小さく笑った。


「やっぱり、早瀬徹の娘だ」


 透は手に持っていた起爆装置のようなものを床に落とした。


 蓮がすぐに蹴り飛ばす。


 刑事たちが透を取り押さえた。


 森下も抵抗しなかった。


 母は美月を見つめていた。


 何か言いたそうにしていた。


 だが、美月はすぐには近づけなかった。


 十七年分の空白は、抱きしめれば埋まるほど簡単なものではなかった。


 それでも、母が炎の中に残ろうとした瞬間、美月は叫んだ。


「何してるの!」


 母は振り返った。


「私は、もう……」


「勝手に終わらせないで!」


 美月は母の腕を掴んだ。


「帰ってきたなら、生きて説明して。謝って。怒られて。泣いて。逃げないで。今度こそ、私の前から消えないで」


 母の目から涙が落ちた。


「美月……」


「お母さん」


 その言葉を口にした瞬間、美月の胸の奥で、十七年間止まっていた何かが動き出した。


 蓮が二人を引っ張る。


「急げ!」


 彼らは燃える管理室を飛び出した。


 外では消防車のサイレンが近づいていた。


 夜空に煙が上がる。


 東京湾の向こうで、ビル群の灯りが冷たく瞬いている。


 午前零時を過ぎた東京は、何事もなかったように動き続けていた。


 数日後、早瀬美月の記事が一面を飾った。


 十七年前の湾岸再開発疑惑。


 政治家、建設会社、警察OB、報道関係者による隠蔽。


 午前零時に交わされた秘密の協定。


 早瀬徹記者の不審死。


 失踪していた妻、真帆の証言。


 楠井透による一連の事件。


 森下社会部デスクの関与。


 記事は社会を揺らした。


 関係者は次々と逮捕され、辞職し、会見で頭を下げた。


 だが、美月は知っていた。


 これで終わりではない。


 真実が明らかになっても、失われた命は戻らない。


 壊された人生も、簡単には元に戻らない。


 母との関係も、すぐに親子へ戻れるわけではなかった。


 それでも、止まっていた時間は動き出した。


 ある夜。


 美月は自宅のテーブルで、父の古い手帳を開いていた。


 母は病院で検査を受けている。


 蓮からは、透の供述が始まったと連絡があった。


 森下はすべてを話すつもりらしい。


 部屋は静かだった。


 時計の針が、十一時五十九分を指す。


 美月はスマートフォンを見つめた。


 もうメールは来ない。


 そう思いたかった。


 零時。


 画面が光った。


 美月の心臓が大きく跳ねた。


 差出人なし。


 件名なし。


 本文だけ。


『約束は終わっていない』


 美月は息を止めた。


 続いて、二行目が表示された。


『次は、あなたが選ぶ番だ』


 東京の夜は、まだ眠らない。


 午前零時。


 新しい事件が、静かに始まろうとしていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


本作は、毎晩午前零時に届く謎のメールをきっかけに、女性記者が未来の事件と過去の真相へ迫っていくサスペンス作品です。


事件予告、隠された陰謀、失踪した母、そして父が遺した真実。


一つのメールから始まった物語が、過去と現在を繋ぎ、主人公自身の運命を大きく動かしていきました。


少しでも続きが気になる、面白かったと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。


ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
 美月さんとその家族との悲しい繋がりや、美月さんに送られる不穏な予告メールについての相談をイタズラの類と笑わず、真剣に応じ、まともな助言などをする調査員の蓮さんなどによる物語、引力がありました。  …
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