第五章 ミコの電話
その夜、知らない番号から電話が来た。
今の時代、音声通話は珍しい。テキストか端末連携がほとんどだ。
出ると、知っている声だった。
「覚えてる?」
レンは少し止まった。
「ミコ」
「久しぶり」
「いつ以来だろう」
「十五歳でお前がラプラス社を出てから。十二年ぶり」
「どうして連絡先が」
「ラプラス社のOBネットワーク。繋がる許可を出してたでしょう」
「出してた」
少しの間、沈黙があった。
「乖離マップ、見た」とミコが言った。
「そうか」
「あれ、お前が作ったんだね。ラプラス社で作り始めてたやつ」
「そう」
「すごいね。制度設計局まで動いてる」
「少しだけね」
「少しだけでも、動いてる」
また沈黙があった。
「会いたい」とミコが言った。「話したいことがある」
「今度週末、会えるか」
「会えます」
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週末、ミコと会ったのは中央区の喫茶店だった。
ミコは変わっていなかった。十五歳のときより少し大人になったが、話し方も目の動き方も、あのときのままだった。
「変わってない」とレンは言った。
「変わってる」とミコは言った。「ただ、あなたにはそう見えないかもしれない」
「なんで」
「あなたが見てた私が、ちゃんと私だったから。変わっても、芯の部分は同じだから、そう見える」
「芯の部分」
「私が一番恐れてることを、あなたは知ってた。十五歳のとき、あなたに言った。間違えることが怖いって」
「覚えてる」
「あの後、三つ目の誓いを入れた。あなたに言われたことをヒントにして」
「なんて入れたの」
「間違えたとき、立て直す力を持つこと」ミコは言った。「あなたが提案してくれた言葉、そのままほぼ」
「使ってくれたか」
「使った。そしてそれが——最近、試されることになってる」
レンはミコを見た。
「試されてる」
「私は今、制度設計局に関連した研究機関にいる。教育政策の分析が専門だ。最近、乖離マップを使って研究を進めていたんだけど——」
ミコは少し間を置いた。
「私の研究グループが、乖離マップのデータ解釈を、素体スコア廃止の支持に使う方向に動き始めた。私はそれに同意していない。でも、グループ全体の方向性として、そうなりつつある」
「廃止派か」
「廃止を支持する人たちと、利害が一致している人たちが、私の研究グループに近づいてきてる。データを自分たちに有利な形で解釈してくれれば、研究費が付く、という構造が見えてきた」
「研究費と、データ解釈の取引」
「露骨ではない。でも、そういうことが起きてる」
レンはしばらく黙っていた。
「ミコは、どうしたい?」
「正しい解釈を発表したい。あなたのデータが言っていることを、正確に言いたい。でもそれは、グループからの孤立を意味するかもしれない。研究費が来なければ、研究を続けることが難しくなるかもしれない」
「間違えたとき、立て直す力を持つこと」
「……そのためにあの誓いを入れたのに、いざ試されると、怖い」
「怖くない人は、いない」
「あなたは怖くないでしょう」
「怖い。乖離マップが公開されてから、意図しない影響がたくさん出てる。カイが職を失った。廃止派の根拠に使われた。今もミコのグループで歪んで使われてる。それは俺が作ったものが引き起こしてる」
「でも発表した」
「後悔はしてない。ただ、怖さがなくなったわけじゃない」
「怖くても、やることと、怖いからやらないことの違い、か」
「十五歳のとき、ミコが言ってた」
「……覚えてたんだね」
「覚えてる。ミコが怖がってる人は、変わることをちゃんと知ってる、って言ったとき、俺も思ったから」
「なんて思ったの」
「俺も怖い。ただ怖さを知ることと、怖さに止められることは、違う」
ミコはしばらく黙っていた。
「一人でやるのは難しい」
「じゃあ一緒にやろう」
「え?」
「ミコが正しい解釈を発表するとき、乖離マップの著者として、俺も一緒に発表する。一人じゃなくなる」
「……でも、あなたの信頼性にも影響するんじゃないか」
「制度設計局との関係に、多少影響するかもしれない。でもナナセは理解できると思う。データが正しく扱われることの方が、長期的には大事だと」
「なんでそんなに、人を信用できるの」
「信用じゃない。ソラが言ってた言葉——妥協点は、双方が何を望むかを正確に理解したとき初めて見つかる。ナナセが何を望んでいるかを、俺は知ってる。だから話せる」




