第二章 カイの転職
その週の木曜日、カイから久しぶりに連絡が来た。
「会えるか」
「今週末なら」
「週末でいい。あと、いい話と悪い話がある」
「どっちが先がいい」
「悪いほうから、のほうが好きか」
「そっちがいい」
「じゃあ会ってから話す」
---
週末の昼、いつもの食堂だった。カイはすでにいて、コーヒーを飲んでいた。以前より少し痩せた気がした。
「悪い話から」レンは言った。
「得点監査員を辞めた」
レンは少し止まった。
「辞めた、というのは」
「辞表を出して、受理された。先月末付けだ」
「なんで」
カイはコーヒーカップを置いた。
「乖離マップの件で、俺のデータ使用が問題になった。正確には、俺の職権でアクセスできるデータを、監査目的外に利用したという指摘だ」
「俺との調査が、問題になったのか」
「結果的には処罰にはならなかった。エンが、全て規則の範囲内で処理したことが確認されたから。でも、そういう指摘が来る環境に居続けることが——俺には無理だった」
「圧力をかけられた?」
「明示的な圧力はない。ただ、乖離マップのデータが広がるにつれて、俺がそこに関わっていたことを知っている人間が増えた。監査員としての立場で、制度批判的なデータに関わっていたことが、居心地を悪くした」
レンはそれを聞いて、少しの間黙っていた。
「俺のせいだ」
「違う」カイは少し強い声で言った。「俺が選んだことだ。関わることも、辞めることも、俺が選んだ」
「でも関わることになったのは——」
「お前のせいじゃない。俺が面白いと思ったから関わった。制度の内側から見えていなかったものが、外から見ると見えた。それを確認したかったから関わった。その結果として、内側に居続けることが難しくなった——それは俺の問題だ」
レンは何も言えなかった。
「それで、いい話は」
「フリーランスになる。得点監査の経験を活かした分析仕事だ。お前の仕事と近くなる」
「競合するか」
「そうはならないと思う。俺は制度の内部構造の分析が専門になる。お前は制度と人間の間の乖離を見る。重なる部分はあるが、向いている方向が違う」
「一緒に仕事できるかもしれない」
「その話をしようと思って連絡した」
---
帰り道、ソラに話した。
「カイが辞めた」
「聞いていました」
「俺が乖離マップを公開したことが、間接的に原因になった」
「そうかもしれません」
「そのことを、どう思う」
「どう思う、という問いが、何を聞いていますか」
「俺がデータを公開したことが、俺の意図しない影響をカイに与えた。それをどう考えればいいか」
ソラは少しの間、答えなかった。
「難しい問いです。あなたの行動が影響を与えた、ということは事実です。しかしカイさん自身が選んだということも事実です。どちらかが唯一の原因だとは言えない」
「両方が本当だ」
「はい」
「両方が本当であっても、俺が自分の影響を考え続けることは、必要だ」
「そう思います」
「乖離マップが広がるほど、俺の意図しない影響が広がる可能性がある」
「そうです」
「その影響を管理する方法は、あるか」
「完全な管理はできないと思います。情報は発信した後、発信者の手を離れます」
「手を離れた後のことを、発信者が考え続けることはできる」
「できます。あなたが今していることです」
橋の上で、少し立ち止まった。川が流れていた。
二十七歳になっていた。
乖離マップを公開したのは二十五歳のときだ。あの日から二年、世界は少し変わった。変わりながら、また別の問いを生んでいる。




