第十二章 二十九歳の朝
春が来た。
二十九歳になっていた。
トーストが焦げる匂いで、朝が始まった。
「おはようございます」
「おはよう」
「乖離マップv15の公開から三ヶ月が経ちました。改訂前後の比較を見ますか」
「あとで見る。今は朝食を食べる」
「わかりました」
レンはトーストを食べながら、窓の外を見た。
春の光が、街に差していた。
制度改訂の効果は、まだ小さかった。v15のデータは、変化があることを示していたが、その変化は統計的に有意ではあっても、現実の生活の中では感じにくいほどの数字だった。
ナナセは「まず一歩」と言った。
その言葉は正しかった。
しかしその一歩が、誰かの二歩目のために何かを変えているかどうか——それはまだわからない。
「ソラ、ハシモトさんの親たちの言葉、今どのくらい集まってる?」
「あの集まり以降、追加で十七人から言葉をもらいました。テキストと、一部は音声で」
「形にする方法は、まだ見えていない」
「はい。ただ——一つ提案があります」
「言って」
「あなたが乖離マップを最初に作ったとき、数字で作りました。しかし今回集まっているものは、数字ではない。言葉です。物語です。であれば——言葉の形で、残すことが最初の形かもしれません」
「言葉の形で残す、というのは」
「あの人たちの話を、語る。声の形で。あるいは書いた形で。数字ではなく、誰かが経験したこととして」
「それはデータじゃない」
「そうです。でも、あなたの誓い3は、情報を駆使してモノを生成すること、です。モノは数字でなくてもいいかもしれない」
レンはそれを少し考えた。
「言葉という情報を使って、語られなかった経験を生成すること」
「そうかもしれません」
「それは、俺の仕事かどうかわからない」
「わからないなら、やってみることができます。やってみてから、判断することができます」
「タジマ先生が言ってた。仮説を立てて、データで確認する。確認できなければ、また別の仮説を立てる」
「それが続く限り、止まりません」
「止まらない」
トーストの残りを、最後まで食べた。
今日も、依頼の仕事が来ていた。データの整形が二件。
午後は、ハシモトさんに連絡を取るつもりだった。
次の言葉を、集めるために。




