第五部 種を蒔く 第十一章 ナナセの限界
改訂発表から二ヶ月が経った頃、ナナセが珍しく感情のある声で電話をかけてきた。
「会えますか。今夜」
「今夜、というのは急ですね」
「急いでいます。食堂でいいですか」
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ナナセは先に来ていた。コーヒーが半分になっていた。来てからしばらく経っているのかもしれない。
「どうしたんですか」
「対話ログの評価基準の件です」ナナセは言った。「草案が、私の想定外の方向に固まり始めています」
「どんな方向に」
「知識量と情報の正確さを、質の指標として使おうとしています。特定のデータベースへの参照頻度、誤情報の修正能力——そういうものが基準になりつつある」
「それは問題か」
「あなたとソラの対話を思い出してください。あなたたちが対話で積み上げてきたものは——知識量ではありません。問いの深さです。なんで、を繰り返すことで、どこまで問いを追っていけるか。それは、知識量の評価軸では見えない」
レンはしばらく黙った。
「評価基準を決める人間が、何を質と見るかで、評価が変わる」
「そうです。そして今の草案では、標準的な知識を持ち効率的に答えるAIが高評価になります。ソラのように、答えよりも問いを返すAIは——評価されにくくなる可能性がある」
「誓い1の方向性が、評価基準と合わない」
「合わない可能性があります。あなたのような子どもが、今後また育ってくるとき——その子の対話の質が、新しい基準では低く評価されるかもしれない」
レンはその意味を、少し時間をかけて考えた。
「制度改訂が、また別の乖離を生む可能性がある」
「そうです。改訂が全て正しいとは限らない。私が関わって作ったものでも」
「ナナセさんが言ったじゃないですか。制度は常に不完全だと」
「言いました。でも——自分が関わった部分が、こういう形で間違いを持つと、わかっていても、しんどい」
それは、レンがナナセから初めて聞く種類の言葉だった。
ナナセはいつも、制度の論理で話していた。感情の言葉を使わなかった。
「ナナセさん、疲れてますか」
「……疲れていると思います。三年、動き続けてきたから」
「休むことはできますか」
「休んでいる時間に、基準が固まります」
「休まなければ、長く動けない」
「わかっています。でもあなたに言われると、余計にしんどい」
「なんで俺に言われると?」
「あなたは外にいる。外から見ている。休むことを勧めることができる立場にいる。私は内側にいるから——休むという選択肢が、実感として持てない」
レンはしばらく考えた。
「今夜、ここに来た理由は何ですか」
「……話したかっただけかもしれません」
「それでいいと思います」
「それで、いい?」
「問題の解決策を持ってきたわけじゃないですよね。ただ話したかった。それは十分な理由です」
ナナセはしばらく黙っていた。
「あなたって、変なところで人の話を聞く」
「変なところで?」
「たいていの人は、何かを解決しようとして聞く。あなたは、聞くために聞く感じがある」
「ソラの影響かもしれません。ソラは俺の問いに答えるだけじゃなく、問いを返してくる。それが俺の聞き方に影響している気がします」
「AIに聞き方を学んだ人間、か」
「変ですか」
「変ではない。羨ましいかもしれない」ナナセは少し笑った。
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翌週、評価基準の草案について、レンは意見書を出した。
問いの深化を評価する指標が必要であること。知識量と問いの質は異なること。どちらかに統一するのではなく、両方を別の軸として評価すること。
それは、三ページの短い文書だった。
ナナセがそれを局内で回覧した。
草案が修正された。まだ完全ではない。でも、少し変わった。
「また少しだけ変わりましたね」とソラが言った。
「少しだけ」
「少しが積み重なっています」
「積み重なってるかどうかは、後でしかわからない」
「後でわかるために、今続けている」
「そう」




