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第一部 波紋 第一章 引用される朝

 トーストが焦げる匂いで、目が覚めた。


 正確には、タイマーが切れる音で目が覚め、焦げる匂いで今日が始まった。三年、同じリズムだ。火加減の設定を変えるたびに必ずどこかが焦げる。もう慣れた。むしろ焦げないと、何かが足りない気がする。


「おはようございます」


「おはよう」


「今日の確認事項があります」ソラが言った。「まず、昨夜遅くに乖離マップへの言及が三十七件ありました」


 レンはトーストを皿に載せながら聞いた。


「内訳は」


「制度設計局の公開資料への引用が二件。学術論文の引用が六件。一般メディアの記事が十一件。ネット上の個人発信が十八件」


「個人発信の内容は」


「様々です。制度への批判に使っているものが九件、制度の正当性を主張するために使っているものが五件、内容を誤って解釈しているものが四件」


 レンは少し止まった。


「誤解が四件」


「はい。主な誤解は二種類です。一つは、乖離マップが制度廃止を主張するデータだという解釈。もう一つは、素体スコアが高ければ必ず買取価格が低い、という解釈」


「どちらも、俺がデータで言っていないことだ」


「その通りです」


 レンはトーストを一口噛んだ。パサついている。


 乖離マップが公開されてから二年が経っていた。最初は静かだった。少数の研究者が参照し、ナナセが制度設計の議論に持ち込み、乖離という言葉がじわじわと使われるようになった。


 しかし半年ほど前から、速度が変わった。


 何かのきっかけがあったわけではない。ただある時点から、引用件数が倍になり、また倍になった。誰かが誰かに送って、誰かがまた誰かに送る。そのうちに、元のデータから離れた解釈が生まれ始めた。


「ソラ、誤解されている四件は、修正が必要か」


「あなたが判断することです。ただし——」


「ただし?」


「誤解を修正すれば、修正したことで新たな発信が生まれます。その発信も、また誤解される可能性があります」


「修正の連鎖が起きる」


「そうです。一方で修正しなければ、誤解が定着します。どちらを取るかは、あなたの判断です」


 レンは窓の外を見た。


 曇っていた。秋の、灰色の空だ。


「今日は修正しない。ただしログに残しておいてくれ。誰が何をどう誤解したかを」


「わかりました」


「それが積み上がったとき、また別のデータになるかもしれない」


「誤解のパターンを分析することが、次の何かに繋がる可能性はあります」


「乖離マップが、また乖離を生んでる」


「……その言い方は、面白いですね」


「面白い?」


「乖離マップは乖離を可視化するためのものでした。しかしそれ自体が、新たな乖離の原因になっている」


「意図したことと、起きていることの間の距離」


「誓い3の定義に、また近いですね。制度が映していないものを、制度の言語で記述すること——今度は、あなたが作ったものが映していないものを、誰かが記述し始めている」


 レンはトーストの残りを食べた。


 冷めていた。


---


 午前中は、依頼仕事を片付けた。


 データの整形と統計レポートの補助——基本の仕事だ。評価点は少数高密度のままだが、最近は低持ち点層からの依頼も少し増えている。単価は低い。でもやる。


 午後、ナナセから連絡が来た。


「少し話せますか。例の件で」


 例の件、というのはコードワードだった。制度設計局の内部で進んでいる改訂議論のことだ。公開できない段階のものは、こういう表現になる。


「今日の夕方なら」


「では五時に、前と同じ食堂で」


---


 食堂に着くと、ナナセはすでにいた。今日は眼鏡の外れた顔を初めて見た。コンタクトに変えたのかもしれない。


「急に呼んですみません」


「急じゃないです。乖離マップの誤解が広がっていることを、今朝確認していたところでした」


 ナナセは少し眉を動かした。


「把握していますか」


「ソラが毎朝集計している」


「それを聞いて安心しました」ナナセは言った。「今日の件と、直接関係があります」


 メニューを開きながら、ナナセは話を続けた。


「制度設計局の内部で、乖離マップのデータを根拠に、素体スコアの廃止を主張するグループが出てきました」


 レンは手を止めた。


「廃止」


「素体スコアが差別的に機能しているという主張です。データがその証拠だ、という議論が、内部で一定の支持を集めています」


「俺のデータは、素体スコアが差別的だとは言っていない」


「その通りです」ナナセは静かに言った。「ただし、あなたのデータを正確に読めば——素体スコアは正直に潜在能力を示しているが、その潜在能力が環境によって実現されていない、という構造が見える。つまり問題は素体スコアではなく、環境格差のほうにある」


「廃止論は、問題の所在を誤解している」


「そうです。しかし、誤解から生まれた主張でも、局内での影響力を持ち始めています。廃止派の一部は、あなたに局内での発言を求めています。データを作ったあなたが廃止を支持すれば、議論が動くと」


 レンはしばらく黙っていた。


「支持しないとどうなりますか」


「廃止派の勢いが落ちます。ただし——廃止派が求めているのは制度の変革であり、その熱量は本物です。あなたが否定的な立場を取れば、その熱量が別の方向に向かう可能性がある」


「どんな方向に」


「まだわかりません」


 料理が運ばれてきた。二人はしばらく黙って食べた。


「俺は廃止を支持しない」レンは言った。「俺のデータはそう言っていないから」


「わかりました。では局内でそのことを、あなたの言葉で伝えてもらえますか。今週中に機会を作ります」


「話します。ただ、一つお願いがあります」


「何ですか」


「廃止派の人たちと直接話す機会も作ってほしい。何が問題だと思っているか、なぜ廃止という結論に至ったか——そこを聞いてから話したい」


 ナナセは少し考えた。


「設計局の内部の人間との非公式な対話、ということになりますが」


「公式でなくていいです」


「……調整してみます」

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