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第10話 “勝った”日の音

 朝の改札を抜けて、そのまま駅のベンチに座った。

 通勤の人波に背中を向けると、街の音が少しだけ遠のく。指先が勝手にスマホを呼ぶ。

 ——見るだけ。決める日じゃない。

 そう言い聞かせながら、アプリの画面を開いた。


 緑色が、こちらの視界を押してくる。上向きの矢印。画面の端で小さく跳ねる紙吹雪。

 胸の内側が、ふわ、と軽くなる。どこも痛まない。むしろ、余裕のある筋肉みたいに伸びる。

 勝っている。

 たったそれだけの表現に、喉の奥が途端に甘くなる。


 駅ビルの鏡に映る自分が、昨日より顔色が明るい。

 勝った自分の形を急いで固めるな、と鷹野は言っていた。

 頭ではわかる。わかるのに、固めるための行き先が矢継ぎ早に思い浮かぶ。朝の珈琲を格上げする。コロンの残り香を濃くする。ジャケットの肩を少しだけ良いものにする。

 どれも、今なら似合いそうだ。今なら、似合うほうへ転がっていけそうだ。


 出勤の足は、玲の店へそれた。

 「おはようございます」

 「おはよう。見た顔ですね」

 「見ました。あれは、朝から見るべきじゃない」

 「朝は、歩幅の調整に使うほうが体に優しいですよ」

 湯気が立つ。カップのフチに唇を置く。

 「飲み切らないは、できそうですか」

「今日は半分で置ける気がしてる。理由があるから」

 「どんな」

 「勝ったから」

 玲は笑って、首を傾けた。

 「それ、一番危ない理由ですよ」


 危ない、と言われて、胸の熱が少しだけしぼむ。けれど、全部は消えない。

 店を出て歩くと、靴の白がやたら誇らしげだ。僕の背筋は、勝手に教育されていく。

 その日の仕事は驚くほどよく進んだ。段ボールの角は痛くないし、同僚の冗談に笑いながら自然に返せる。勝っている日は、声のトーンが半音上がるらしい。


 昼休み、もう一度だけ画面を見た。

 緑色は、朝より濃くなっている。

 そこに、プッシュ通知が重なった。

 > おめでとうございます。

 同じ言葉を、別の場所で見たことがある。白い封筒の活字。胸の内側が、ほんのすこしだけ冷える。

 「見る日と決める日を分ける」

 玲の声が耳の奥で再生される。僕は画面を伏せ、呼吸をゆっくりに戻した。


 退勤後、コロンをひと吹き試して、ジャケットの袖を一本だけ通してみた。鏡の中の自分は、確かに勝ちに似合っていた。

 ——今日は“試す”まで。買うのは別の日。

 袖を戻す。香りは置いて帰る。

 自分を褒めたい衝動は、代わりに良い入浴剤に向かった。袋を開ければすぐ消える種類のご褒美なら、明日には残らない。


 家に帰る途中、陽介からメッセージが入る。

 > どう? 紙、読めた?

 > 俺のほう、相手が急いでてさ。明日の午前、少しだけ顔出せる?


 急ぎ、午前、顔出し。

 どれも、こちらを走らせるための言葉だ。

 > 読む日は終えた。決める日は来週だ。三人で。

 > それまで、僕の名前はどこにも置かないで。

 僕ははっきり書いて送る。既読がつくまでの短い間、胃が静かに縮む。

 > 了解。ちゃんとやる。

 短い返事は、今日はそれ以上伸びなかった。


 マンションのポストは空だ。白い封筒も茶色い封筒もない。

 鍵を回す手の中に、今日の緑色の感触がまだ残っている。


 湯を張り、入浴剤を溶かす。香りが広がる。勝ちの甘さと、香りの甘さは似ている。ただ、どちらもすぐに薄くなる。

 湯に肩まで沈めて、目を閉じた。勝ちを内側にしまっておく訓練。言わないで、流さないで、温度だけ覚えておく。


 上がってから、窓を少し開ける。夜気が部屋の隅の影を撫でる。

 テーブルの端には、陽介の封筒。棚の上には、鷹野の黒いフォルダー。どちらにも触れず、明日のシャツにアイロンをかける。働く日の準備は、手が覚えている。


 スマホが震えた。鷹野だ。

 > 本日の市場、良かったですね。

 > “勝ったときに固定しない”、覚えていてくだされば十分です。

 こちらのどこかが見えているのか、ただの挨拶なのか、判別のつかない言葉。

 > 見る日は終わり。決める日は来週にします。

 送って、電源を落とした。


 ベッドに仰向けになる。天井はいつもより近い。

 ——勝ちは軽い。軽い音がする。

 ——軽い音ほど、もう一回を呼ぶ。

 その呼び声に返事をしないでいることが、こんなに体力を使うとは思わなかった。


 眠りに落ちる直前、画面のない暗闇が少しだけ恋しくなる。

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