誰に頼まれたのか(前編)
森と石川は横浜刑務所に来ていた。
神奈川県警刑事部捜査一課の刑事、森倫太郎は五十過ぎ、広い額と虫のように跳ね上がった細い眉、薄い唇、そして抜群の頭脳を持っている。
森の相棒、石川肇は小柄な森と違って、背が高い。小柄な森と並ぶと親子に見える。分厚い胸板に、えらの張った顔、肉体派の刑事だ。
二人は周囲から文豪コンビと呼ばれている。漢字は違うが、文豪と同姓同名なのだ。森鴎外の本名が森林太郎で、石川啄木の本名が石川一だ。
刑務所に来た目的は、ここに収監されている谷口辰馬が「人を殺した」と自白しているという報告を受けたからだ。
五日前に、相模原市でひき逃げと見られる若い女性の遺体が発見された。女性をはねた車を運転していたのが自分だと言うのだ。
「刑務所にいる人間がどうやって車を運転して相模原に行けるのでしょうね?」と石川は谷口の話を信用していないようだった。
「不可能でしょうね。何か目的があって言っているのでしょう。その目的が何なのか、確かめる必要があります」
面会室で谷口と会った。谷口は二年前に起きた窃盗事件で起訴され、服役している。既に三度目の服役とあって、刑期は長くなるはずだ。根っからの犯罪者と言えた。
刑務官に連れられて現れた男とは、小柄で、目だけをぎょろぎょろと動かして、辺りを観察していた。どう見ても小心者の小悪党だ。殺人を自供するような人間には見えない。
「さて、谷口さん。あなた、五日前に相模原市で起きたひき逃げ事件の犯人だと自供されているそうですね」と森が口火を切る。
小悪党に対しても口調は丁寧だ。
「だから、俺がやったと言っているんだ。それで良いじゃないか!」谷口が開き直る。
「刑務所に入れられているあなたが、どうやって車を運転して女性をはね飛ばすことができるのですか?」
「それは秘密だ。お前たちで考えろ」
そこで、森が意外な言葉を口にした。
――誰に頼まれました?
「えっ!」と谷口は絶句した後、口を噤んだ。
「現場にはブレーキをかけた跡がなかった。あれは事故に見せかけた殺人です。あなたがやったのだとすると、何故、被害者をひき殺したのですか? その動機は? 事件後、被害者をひき逃げした車両が見つかっていません。その車両は何処にあるのですか?」と立て続けに森が責め立てる。
「う・・・む・・・それを調べるのが、お前たちの仕事だろう!」
「答えられないのですか?」
「ふざけるな! 答えられるに決まっているだろう。被害者の名前は、うん、あれだ。東原紗理奈だ。成和証券に勤めるOLで、年は三十一、そうだろう?」
石川が手帳を見ながら確認する。「合っています」
「では動機は何でしょう? 何故、彼女を事故に見せかけて殺害したのですか?」
「あの女、生意気なのだ。過去に俺がやった窃盗事件を女が警察に訴え出るつもりだと聞いて、ここを抜け出してひき殺した」
「彼女は何故、あなたの過去の窃盗事件のことを知っていたのですか?」
「それは・・・俺が昔、あの女の家に忍び込んで現金やら何やらを盗んだからだ」
「へえ~じゃあ、彼女は何処に住んでいました?」
「わ、忘れた!」
「車両はどうしたのですか?」
「盗んだ。事件後に乗り捨てた」
「何処に捨てたのですか?」
「知らないよ。何処か、その辺だ」
「ふむ」と森は頷いた後で、「結構です」と面談を打ち切った。
面談室から刑務官に連れ出されながら、「ま、待て。俺だ。俺がやったんだ。本当だ。信じてくれ!」と谷口は喚いていた。
「どういうことでしょうね?」と石川が聞くと、「捜査を攪乱することが目的でしょうね。俺がやったと名乗り出ても、誰も信じない。刑務所を抜け出して、人を殺すなんて、出来る訳ありませんからね。罪に問われることはないでしょう。ですが・・・」と森が答えた。
「谷口にとって、何のメリットもありませんよ」
「そうなのです。だから変なのです」
「それで、誰かに頼まれて証言していると思ったのですね?」
「はい。そうです」と森が頷く。そして、「もうひとつ、分かったことがあります」と言った。
「何ですか?」
「被害者、東原さんについて、妙に詳しかった。年齢や職場を知っていた。変でしょう?」
「それは、やつに頼んだ人間が教えたからでしょう」
「そうです。では、何故、谷口にそんなことを教えたのでしょう?」
「被害者に恨みを持っている――という状況を、動機を与える為では?」
「無論、そうでしょう。ですが、もうひとつ可能性が考えられます」
「もうひとつの可能性ですか?」
「それを確かめてみましょう」
森はきびきびとした動作で立ち上がると、面談室を出て行った。その後を、石川は慌てて追った。