あの時、あなた(前編)
ミステリーをショートショートでやってみたい。謎解き部分だけでミステリーができないか? ~そんな発想から生まれた作品です。
窓はあるがブラインドが降りていた。部屋は薄暗かった。
神奈川県警刑事部捜査一課の刑事、森倫太郎は後ろ手に手を組むと、小柄な体をきびきびと動かしながら、バッキンガム宮殿の衛兵のように足を上げて取調室の中を歩き回った。年は五十過ぎ、広い額と虫のように跳ね上がった細い眉が頭の良さと意思の強さを思わせた。そして、薄い唇が彼の持つ酷薄な一面を暗示していた。
森は足を止めると、河井を指差して言った。
「私はね。最初に事情聴取に行った時から、あなたが犯人だと思っていました。あの時、事件の話を聞いた時、あなた、こう言ったんですよ。『秋山さんご夫妻が、どうかしたのですか?』ってね。あの時点で、被害者の名前は公表されていませんでした。それなのに、あなたは秋山秀平さんの名前を聞いただけで、『秋山さんご夫妻』って言ったんです」
「えっ! ・・・」と河井は目を見張った。
河井義明、三十四歳、すらりとした長身で長い脚をもてあまし気味に取調室の椅子に座っている。整った綺麗な顔立ちで、白い歯が目を引く。
「おや、だんまりですか? そう、私はご主人の名前を言っただけです。それなのにあなたは、『ご夫妻』と言った。つまり、あなたは秋山さんの奥さんがご主人と一緒に殺害されたことを知っていた。だから咄嗟に『ご夫妻』と言ってしまった。どうです? これこそ、犯人しか知り得ない事実ってやつでしょう。私は初めからあなたが怪しいと思っていたのです」
「そ、そんな・・・私、『ご夫婦』なんて言いましたか?」河井が絶句する。
「はい。私の記憶に間違いはありません。あの時、あなたは『秋山さんご夫妻』と確かに言いました」胸を張る森の後ろで、相棒の石川肇が日に焼けた浅黒い顔をかすかに歪めて笑った。
森さんの名調子が始まった。容疑者が自白を始めるのも、もう直ぐだ、とでも思っているのだろう。
石川は四十代、長身の河井と並んで見劣りしないくらい背が高い。小柄な森と並ぶと子供を連れて歩いているように見えてしまう。分厚い胸板に、えらの張った小さな顔が乗っており、頭脳派よりも肉体派の刑事を印象させる。
森倫太郎に石川肇。刑事仲間から二人は文豪コンビと呼ばれている。文学好きの刑事が、森鴎外の本名が森林太郎で、石川啄木の本名が石川一であることを発見し、以来、そう呼ばれている。偶然にしては出来過ぎなコンビだった。
秋山夫婦は自宅で刃物により滅多刺しにされ、殺害された。屋内に物色した形跡がなく、物取りではなく、夫婦に恨みを抱く人物、しかも、無理に押し入った形跡がないことから、顔見知りによる犯行だと考えられた。
「だとしたら、近所のことですから、どこかで、ご夫婦が殺されたという噂を聞いていたのだと思います。私は犯人なんかじゃありません!」
「なるほど。犯行を否定されるのですね。分かりました。では話を少し戻して――」
森は余裕綽綽だ。軽く握りこぶしをつくって額に当てた後、「去年の夏は暑かったですね。最近は地球温暖化で、夏が異常に暑く感じます」と言って、ゆっくりとした動作で河井の前の椅子に腰を降ろした。
「去年の夏のあなたのご子息、虎男君の悲劇が今度の事件のきっかけですね?」
河井が苦しそうに顔を歪める。
「息子さんの事件を振り返っておきましょう」と石川が横から言った。
河井の一人息子、虎男は昨夏、自宅近所の相模川の河川敷で水遊びをしていた。前日の雨で水かさが増していることに気付かず、深みにはまって流され、水死している。虎男が川で溺れていることに気がついたのが、秋山だった。秋山は川に飛び込んで、虎男を岸へと引きずり上げたが、時既に遅く、こと切れた後だった。