路地裏の声
西暦2025年、アメリカ連邦共和国のシアトルは春の陽光に輝いていた。日本帝国連邦の同盟国として繁栄を極めるこの都市は、整然とした街並みと穏やかな人々の笑顔で満ちていた。大正デモクラシーの理念が日本を民主化し、第一次世界大戦で独墺を、第二次世界大戦で右傾化した米英を打ち破った結果、この西海岸一帯は平和と秩序の象徴となっていた。
13歳の佐藤悠斗は、学校からの帰り道を歩いていた。ランドセルを背負い、桜並木の下を抜ける彼の足取りは軽やかだった。父親は日本帝国連邦からの駐在員で、母は地元の慈善活動に熱心な女性。悠斗にとって、この街の平和は当たり前のものだった。戦争や迫害は歴史の教科書の中だけの話だと思っていた。
「ねえ……助けて……」
かすかな声が、路地裏から聞こえてきた。悠斗は立ち止まり、耳を澄ませた。声は弱々しく、まるで風に消えそうだった。彼は好奇心と少しの不安を抱えながら、声のする方へ近づいた。
そこには、ボロボロの服を着た少女が壁にもたれかかっていた。金髪は泥と汗で固まり、青い瞳は恐怖と疲労で曇っていた。彼女の腕には赤黒い傷がいくつも走り、膝は震えていた。
「誰?」悠斗は思わず声を上げた。
少女は顔を上げ、かすれた声で答えた。「ヘルガ……ヘルガ・シュタイン。お願い、隠して……追っ手が来るかもしれない」
「追っ手?」悠斗は目を丸くした。「何!?どういうこと?」
ヘルガは息を整えながら言った。「私、アメリカ騎士団国から逃げてきたの。あそこはネオナチの国……ユダヤ人ってだけで、生きてる価値がないって言われて……両親は殺された。私、なんとか国境を越えてここまで来たけど、もう限界で……」
悠斗は一瞬言葉を失った。アメリカ騎士団国。ロッキー山脈の東に広がるその国は、日本帝国連邦と敵対する過激な国家として知られている。ニュースで名前を聞いたことはあったが、こんな身近にその影が忍び寄るなんて想像もしていなかった。
「お腹空いてるだろ?」悠斗はランドセルを開け、母が握ってくれたおにぎりを差し出した。「とりあえずこれ食べて。落ち着いたら、どうするか考えるから」
ヘルガは目を潤ませ、おにぎりを手に取った。「ありがとう……本当にありがとう」とつぶやき、小さくかじった。彼女の手が震えていた。
「でも、どうしてここに?」悠斗は尋ねた。
「日本帝国連邦がユダヤ人を保護してるって聞いたから。この国なら安全だと思った。でも、国境で騎士団国の兵に見つかりそうになって……逃げるしかなかったの」
悠斗は深呼吸した。彼の頭の中で、ぼんやりとした計画が浮かんでいた。「うちに来る? 母さんなら何かできるかもしれない。でも……いや、もっとちゃんとした場所に連れて行くべきだ。外交省なら、正式に保護してもらえるよ」
ヘルガは驚いたように顔を上げた。「外交省? でも、私みたいなのが行っても……」
「大丈夫だよ。この国は日本帝国連邦のルールで動いてる。亡命者を受け入れる法律があるんだ。父さんが前に教えてくれた」悠斗は力強く言った。
ヘルガは少し迷った後、うなずいた。「……わかった。信じるよ」
二人は街の中心部へ向かった。シアトルの外交省支部は、ガラス張りの近代的なビルだった。悠斗は受付で事情を説明し、ヘルガを連れて待合室に通された。しばらくすると、スーツを着た女性職員が現れた。
「佐藤悠斗くん、ヘルガ・シュタインさんね。私は外交省の保護担当、林美咲。事情は聞いたわ。ヘルガさん、あなたの安全を保証する。正式な亡命申請を進めるから、少し時間がかかるけど心配しないで」
ヘルガは目を潤ませ、深く頭を下げた。「ありがとう……ありがとうございます」
職員が書類を準備する間、悠斗はヘルガに微笑んだ。「これで大丈夫だよ。もう追っ手に怯えなくていい」
ヘルガは小さく笑い、初めて安心した表情を見せた。「悠斗、君が助けてくれなかったら、私どうなってたかわからない。感謝してもしきれないよ」
悠斗は照れくさそうに頭をかいた。「別に大したことじゃないよ。でも……なんか、世界って俺が思ってたよりずっと広いんだなって感じた」
窓の外では、シアトルの街が夕陽に染まっていた。悠斗の中で、何かが動き始めていた。ヘルガとの出会いは、彼の平穏な日常に新しい風を吹き込んだのだ。