花冷え
*
おれたちはその晩出発した。
貧乏高校生には車もバイクもなく、おれはとりあえず通学用の自転車の荷台に痛くないようにざぶとんをゴム紐で縛り付け、あるだけの金と染井がはおるためのウインドブレーカーを前かごに入れると自宅の二階を見上げた。両親の寝室の明かりは消えていた。
おれはこっそりと中庭を横切り、さびの浮いた門扉を音を立てないように開いた。
公園に着くと準備を済ませた染井がジャングルジムから優雅に飛び降りておれの腕の中に着地した。おれはその小鳥のように柔らかい身体を壊さないように気を付けて地面におろした。おれが自転車にまたがって後ろを見ると、何も言わずに荷台に横すわりで座った。おれは染井がきちんと座っているか確認してからたずねた。
「さて、どこへ行きたい?」
「どこでも」
「ディズニーランドとか」
「いいえ。人がたくさんいない場所がいい」
「そうか」
おれはそのまま自転車をこぎだした。染井の腕がそっとおれの腰にまわされてつかんだ。今までになかったような優しさだった。おれは心臓が強く打ち始めるのを感じたまま大海に小舟でこぎだすような気持ちでペダルをこいだ。
オレンジ色の照明を何千も潜り抜けておれたちを乗せた自転車は国道沿いの歩道を進んだ。登り坂では染井は降りて、自転車を押すおれのそばにぴったりと付き添って歩いた。数時間もするとやがて山道に入った。真っ暗な道を大きなカーブを回り込むたびに、突然自動販売機の明かりがこうこうと目を射る場所を通り過ぎた。おれは缶ジュースを一本買って染井と分けて飲んだ。
だんだん深夜になってきた。おれたちのわきを通り過ぎる自動車もめっきり少なくなった。何度目かの休憩でおれは染井の疲労が濃いのを見てとった。染井はなにも言おうとはしない。
どこかで休まなくちゃ。
なんの計画も予定もなかった。おれたちは叔父さんやおれの両親に迷惑をかけてはならないと、ただそれだけを考えて出てきたのだ。どこへ行くあてがあるわけではなかった。ただはっきりしているのはこのままでは遅かれ早かれ染井の身体がもたないという事実だった。染井にとって生命線とも言える血液凝固因子を注射できたクリニックはなくなってしまった。そうしておれにできることは何もない。
何度目かのカーブの次に今度は巨大なライトアップで照らされている優雅な建物があった。
「これなに? お城?」
建物を見たまま考え込んでいるおれに染井がたずねた。
「いや、ラブホ」
「なに? ラブホって」
「うーん。泊まる場所だな」
「そう」
おれはさんざんためらった後でそのラブホテルのいかがわしそうなドアをくぐった。料金表にお泊り、7000円と書いてある。何度も泊まれるほどの資金はないが、とりあえず染井の身体が休まるだろう。染井はフロントの淫靡な色の照明を珍しそうに眺めている。
おれが自動チェックインの機械を操作しようとしたとき、突然フロントのドアが開き、アルバイトのような青年が現れた。おれが見ると青年はちょっとひきつったような表情をしたが、おれたちの前に進み出た。
「すみません。あなたたちは高校生でしょ」とがめる目つきだ。「申し訳ないけれど県の条例があるので、高校生の宿泊はだめなんです」
「この子だけでも泊めてもらえませんか。おれは外に行きますから」
「え」おれの意外な言葉に青年の目が見開かれる。
聞いていた染井がおれの腕をつかむ。「いや。一人はいや」
おれは困って染井の顔を見つめ、それから青年の顔を見つめた。青年はだまって首を横に振った。おれたちは仕方なくホテルの外に出た。
「まったく、制服で来やがって。近頃の高校生は」
背後で声が聞こえたがおれは聞こえないふりをした。
染井を乗せて自転車で暗い坂を下ってゆくと、再び巨大な照明が広がりパチンコ屋の広い駐車場があった。営業時間を終えたパチンコ店の建物はひっそりと暗く、駐車場だけが昼のようだ。ここなら蚊もいない。おれは学ランを脱いで染井の肩にかけた。
おれたちはその晩、駐車場の照明の下で座り込んだまま身を寄せ合って眠った。
*
翌朝、再び自転車に乗って坂を下ってゆくと、眼下に海が見えた。途中のコンビニで食べるものを買い、そのまま浜へ出た。長い長い砂浜には人の影は見当たらなかった。
「これが海」染井は遠くに見える白波を見て目をそばめた。
「海見に行くか」
おれは染井の手を引いて波打ち際まで行った。砂浜が濡れてぎゅっと固まっているところまでくると、染井はサンダルを脱いではだしで歩いた。
「足を切らないように気をつけろよ。たまに空き缶を捨てるようなやつがいるから」
「いいの」そういって染井はそのまま裸足を打ち寄せる水に浸した。
「足の下で砂が解けて出ていく」染井は楽しそうだったが、笑わなかった。笑いと言うものを教えられたことのないソメイヨシノたちは笑わず、楽しい時や嬉しい時には笑うものだということを知らないのだった。
突然染井はざぶんと波しぶきを立てて海に飛び込んだ。ワンピースのすそが浮輪のように染井の身体のまわりに広がる。染井は麦わら帽子をフリスビーのように回転させてよこした。おれが麦わら帽子の変化球をなんとか受け取るとおれに向かって手を振った。やはり笑い声は立てなかったが、なんだか染井がにっこりしたように見えた。
「来て」頭まで海水に浸かった染井がおれを呼ぶ。おれは上着を脱いでそのまま海に飛び込んだ。おれが浮き上がったとたん、顔に水をかけられた。
「うわっ」
染井ははしゃぎ声こそ立てなかったが、童女のようにおれにしぶきを浴びせた。おれも一緒になって水をかけると、染井もむきになって手のひらで水面を打つ。互いに息が切れるくらいまで水をかけあった。
ひとしきり水遊びが終わると浜に上がった。浜の一角に打ち捨てられたような建物があり、近づくと季節外れの海の家だった。鍵はかかっていなかったが、ガスも水道も出ない。シャワー室だけはあったので、おれは置いてあったバケツに海水をくんでくると、コップを添えてシャワー室に置き、外に出た。染井はそこで身体を洗った。
とりあえず持っていたタオルが一枚しかなかったので、それで拭いた髪はとうてい乾くことはなく、染井がジャージの上下を着てシャワー室から出てきたときはほおにかぶる髪は烏の濡れ羽色だった。水気を含んだ髪の色が真っ白な肌の上を流れてとても色っぽかった。首に巻いた止血テープが痛々しかった。
染井が白いサンダルをはいたとき、おれは異変に気付いた。
血が
見ると染井の小さな足の指と指の間から鮮血が流れている。
「血が出ている」おれは自分がうろたえた声を出していないか心配した。そんなおれを黙って見たまま染井は無表情な声で言った。「さっき海の中で切ったみたい」
「手当しなくちゃ」
おれは染井を海の家の縁台に座らせて傷を改めた。消毒のためにもう一度汲んできた海水で傷口を洗い直し、ティッシュで拭いてから持ってきた止血テープを巻こうとしたが、指の形が複雑なので、傷がきちんとふさげない。テープを巻いたわきから血がにじみ出てくる。
おれはすべてやり直そうとして止血テープの端に爪を立てた。そんなおれの手を染井の手がそっと押さえた。おれは目を上げた。
「いいの」染井は静かな目をして言った。「無理しなくてもいい」
その目の表情がすべてを悟っていることを物語っていた。いったん流れ出すと止まらない血。ひとたび傷がつくと治らない体。目の奥からなにかがあふれだしそうになって、おれは力を込めて染井の足を握っていた。
「いたいよ」
「ご、ごめん」おれはあわてて足を握っていた手をゆるめた。
「だいじょうぶ」染井はベンチに腰掛けて波打ち際をながめている。
「じゃ、おれもシャワーしてくるから」
おれはバケツの水を準備するとシャワー室にこもって身体を洗った。シャワー室の中から外にいる染井の声が聞こえた。歌声か、いやなにかを唱えている。
おれはシャワー室の上のすきまから外をのぞいてみた。染井が洗い髪を手櫛ですきながら歌っていた。流行歌の音に適当な歌詞をつけて、足りないところはハミングしていた。いや、歌詞はでたらめなようで、実は言霊だった。
波。染井が歌った。「波」という字に押されるようにしていくつもいくつも波が来た。波打ち際まで来ると「波」の字は水に溶けて消えた。歌のさびの箇所まで来るとひときわ大きな波が押し寄せ、白い波がしらが飛びあがった。
潮。染井が歌うにつれ、言霊は水しぶきを受けて分解し、「水」と「朝」になった。「朝」は砕けてそれぞれ「十」の「日」と「月」になり、空に散って行った。
魚。「魚」という言霊は宙を飛び、いくつもいくつも群れとなって空を回遊した。そのうちに空の「青」と一体になって「鯖」として具現化すると、一匹ずつ海の中に落ちていった。
得も言われぬ美しさ。
文字によって表現されるアートだが、その美しさを表すのに言葉では足りない。言葉って無力だ。でも言葉がなければ始まらない。
言霊ってのは、戦いの道具じゃないんだ。
おれはその夢幻のきらめきをものも言えずに眺めていた。
シャワーを終えてズボンだけはき、上半身をタオルで拭いていたおれがつと目を上げるとすぐ前に染井がいた。
「わ、つ……と」恥ずかしがるような恰好をしてはいないが、おれはタオルで胸の前を隠した。
染井はすっと白い指をのばすと、おれの肩に触れた。右肩は別に痛まなかったがびくんと震えた。
「闘者」染井が読み上げる。
「へへっ。おかしいだろ。もうおれ戦ってなんかいないのに。この肩が壊れたから野球もあきらめて、部活もしていないのに「闘者」とか」おれは頭をかいた。
染井は別のことを考えている様子だった。指がおれの肩の上に刻まれた青い文字をなぞると、おれの全身は震えた。
「臨兵闘者 皆陣列前行《りんぴょうとうしゃ かいじんれつぜんぎょう》」染井がつぶやいた。「九字の一部。だから結界に入れた」
染井はなにかをつぶやくと、手のひらでおれの肩に刻んであるタトゥーをなでた。まるで白板を消すように文字は消えた。
「これでもう、桜結界には入れない」
「そうか。きみも、もう戻らないもんな」
「うん」
「最後まで一緒だぜ」
「うん」
「約束する?」
「する」
おれと染井は小指をからませた。
*
砂浜の向こうから人が歩いてきた。転びそうに足元がおぼつかない。酔っぱらっているのかそれとも裸足の足に小石が刺さって痛いのか。
おれたちはその姿を遠くから見つめていた。それはだんだん運命のように近づいてきた。おれはそれがなにか悟ると自然に口から言葉が出た。
「やめろ」
染井はなにも言わなかった。
「やめろ。来るな」
しかしその少女の形をした運命はおれたちの前までやってきた。
美野さん
美野さんは以前会ったときとは様子が異なっていた。青白い顔をして、最初に会ったときみたいに背筋をぴんとのばそうと努力していたが、息は乱れ足元はふらついていた。美野さんは染井の前まで来ると染井の両肩に手を置いた。正しくは身体を支えたと言った方がいいかもしれない。はた目で見てもわかるくらいに衰弱していた。
「ナナ」染井が言った。それが美野さんのあだ名なのだろう。
「ココ」美野さんが言った。「お願い。来て」
おれは染井と美野さんの間に割って入った。「おい。なにをいまさら……」
「桜前線は膠着している。今年は黒船が戦法を変えたの。物量で桜忍軍は圧倒されている。あなたの力が必要」
染井は黙って首を振った。
「これを」美野さんは懐に手を入れて時代劇に出てくるような巻き畳んだ手紙を取り出して開いた。中から「想」の言霊が出てきた。「想」の文字は透き通るような光を放ち、染井の胸を照らすとそのまま胸に入って行った。
「あっ」染井が目を見開いてのけぞった。
「なにやってんだ。なにをしたんだ」
美野さんはおれには目もくれず言った。「ソメイヨシノたちの想い。私たちはまだあなたのことを仲間と思っている」
「おい。勝手なこと言うな。廃棄個体とか言って吉乃を捨てたのはお前らだろう。吉乃はもうお前らの所へは帰らない」
おれは言い続けたが、二人のソメイヨシノは互いを見つめあっていた。
突然、染井は物も言わずに美野さんの上着の前をつかむと左右に広げた。
胴に白いさらしがきつく巻いてあり、それが真っ赤に染まっていた。
「なぜ」染井がさらしの赤に指を触れながら問うた。
「中忍にあるまじき失態を演じたから、最前線で下忍と同様に戦うように命じられたの」
美野さんはおれを悲しそうな笑顔で見た。染井そっくりに合わせた髪がほおをなぜた。
中忍にあるまじき失態。
おそらくおれとの一件だろう。自分の意志で来たというのは本当だったのか。
「お願い。あなたが必要なの」
美野さんは染井の目を見、染井も美野さんの目を見た。それで十分なようだった。
「ごめんね」染井はおれを振り返って言った。
「お、おい。ちょっと待て、ちょっと待てよ」
「わたし一人だけ幸せなのは辛い」
「ここにきてそれかよ」
「あなたを巻き込みたくない」
「もう十分巻き込まれちまってますよ。いやきみを一人で行かせるわけにはいかない」
「これはわたしたちの戦いだから」
「きみの戦いならおれにも関係ある」
美野さんが目を細めてこちらを見た。
二人は手を取った。
「おい。待てよ待てったら!」
絶望的に叫ぶおれの前で二人はなにかを唱えた。おれと二人の間に「膜」という透き通った言霊の壁が現れ、おれはそれに押し出されるように後ろへ突き飛ばされ尻もちをついた。
「くそっ」おれはもがいたが、そのわずかなとき。
(臨兵闘者皆陣列前行)
二人がつぶやくと言霊が現れ、それは彼女たちの肩に張り付いた。そして二人は見えない空間へ踏み込んだ。
おれの目の前で二人は消えた。
*
おれは走った。砂浜を美野さんが来た方角へがむしゃらに走ったが二人の姿はなかった。
おれは海の家へ戻り、自転車にまたがって国道へ走り出た。新緑の息吹を嗅ぎながら走ったがあの匂い……桜の花弁の匂いはどこにもなかった。
おれは右へ走り左へ走った。どこにもソメイヨシノの跡はなかった。
ちょうど信号待ちで止まった時、おれのわきに小型トラックが止まった。開いた窓からラジオのニュースが聞こえてくる。
『桜はただいま満開。桜前線は現在千葉県を成田空港方面へかけて広がっています。気瘴庁からでした』
気瘴庁! いま、気瘴庁って言わなかったか?
ソメイヨシノたちと付き合う間に、いつの間にかおれには音声に乗せた言霊を読み取る力が備わったようだ。成田ならここから四十キロくらいだ。自転車で行けない距離じゃない。おれは電車で行くことも考えたが、駅からの行動を考えてそのまま自転車で行くことにした。
うおおおおおおおおお!
春の国道をおれは走り続けた。ときおり途中のコンビニでおにぎりを買い、スポーツドリンクを飲んだ以外はペダルをこぎ続けた。野球をやめてこんなに運動したのは久しぶりだった。
染井。どこだ!
成田市に向かう国道295号線で、おれはとうとうなつかしい桜の匂いをかいだ。
おれは本能の指し示すまま、その匂いの塊へ、桜結界へと突き進んでいった。
ここに間違いない。
おれの前には田園風景が広がっているだけだが、おれにはそこが桜結界の入り口だとわかった。説明はできない。ただわかったのだ。しかし何度そこを通り過ぎても、あのトンネルをくぐる感覚は訪れなかった。十度目の試みのあとでおれは叫んだ。
「ちくしょう」
なぜ駄目なんだ。前は通ることができたのに。おれにはもうその資格がないっていうのか。染井がおれを来させないようにしているのか。
「ちくしょー!」
叫んだらひらめいた。
あの時、染井はおれのタトゥーを言霊の力で消した。おれが肩を壊して野球部をやめて、ぐれて自分を傷つけたくて入れたタトゥーだった。あの文言が偶然九字の一部だったからおれは間違って桜結界に入ることができた。いまはあの文字がないからおれは結界に入ることができない。染井の真意は分からないが、おれを二度と桜結界に入れさせないようにしたかったのだろう。
じゃあ、あの文字を入れればいいじゃないか。
「臨兵闘者 皆陣列前行!」
おれは九字を叫ぶと「闘」という言霊を発しようとしたが、かすっと空気の抜けるような音がしただけでなにも怒らなかっら。
「臨兵闘者 皆陣列前行!」
おれは何度か繰り返したが結果は同じだった。
やはりおれの言霊力では大和魂の桜の前でなければ使えないようだ。
ええい、ままよ。
おれはガードレール下に散らばっていたガラスの破片を取り上げ、学ランの前を大きく開けると自分の胸に大書した。
闘者
傷跡から血が流れ出、へたくそな文字を汚した。
これでできるはずだ。
おれは胸から血を流しながらこぶしを握り締め、一度鼻をすすった。それから自分の感覚の指し示すままに桜結界の入口へ突撃した。
おりゃあああああああああああ!
トンネルをくぐる感覚があった。
*
おれが着いたとき、桜結界は戦闘の真っ最中だった。
ゆっくりと動く黒い夷敵の群れの中に混じって、素早く移動する薄桃色の影が見えた。今までどれだけの夷敵をかたずけたのかはわからない。夷敵は死ぬと跡形もなくなるから。しかしかなりの数のソメイヨシノの遺体が転がっていた。
近づくと以前と少しばかり様子が違うことに気づいた。夷敵の中で三体に一体は全身にうろこのようなものをまとっている。それだけではなく、そのうろこ夷敵はソメイヨシノの誰かがある距離まで近づくと問答無用で爆発した。下忍階梯のソメイヨシノは言霊を遠くに飛ばすことができない。効果的に夷敵を攻撃するにはある程度近づかなければならない。しかしうろこ夷敵はソメイヨシノの攻撃を受ける前から爆発した。爆風を浴びたソメイヨシノの一人が膝をついて自分の両手を見た。
あああー
全身を負傷し、手のひらから血が出ている。戦闘用スーツを着ているおかげで体のどこも致命傷を受けたようには見えないが、そのソメイヨシノの顔には絶望があった。
ひとたび傷を負うと決して治らない。
おそらく夷敵どもは何らかの理由でソメイヨシノの最大の弱点を知ってしまったのだ。今までは桜忍軍の迅速さで勝敗が決していたが、新しいうろこ夷敵は近接信管のような機能を備えている。物体が近くを通っただけで爆発し、あのうろこのようなとがった部品をあたりにばらまく。爆発は距離があるので致命傷を与えるには至らないが、部品が当たり、わずかな傷で少しでも出血すればそれでソメイヨシノたちの士気を奪うには十分なのだった。
傷を負うと止めを刺してもらうのが当然の戦士文化。
傷を負っても最後まで戦うとか考えず、生きることを放棄する少女たち。
傷を負って呆然と立ち尽くすソメイヨシノの幾人かが夷敵の伸びる爪にかかって倒れた。
おれは染井を探し求めて叫んだ。
「染井ー! どこだー! おれだ。琴吹慶次。日本一めでたい名前の男だ!」
影 影 影
突然。「影」という言霊がおれの周りを飛び交うと、それは渦巻いてから人の形になった。
染井!
染井の顔はこわばっていた。
「来てはいけないと言ったのに。どうやって」染井ははっと気づいたようにおれの胸元をみた。ガラスの破片で刻んだ九字からまだ血がしたたっている。
「自分で傷を」
「染井。ごめんな。でも一人でいくなんでずるい。約束したんだ。最後まで一緒にいるぜ」
「勇者」染井はおれの胸の血文字を指さしながらつぶやいた。どうやら染井にとっておれを勇者と評価する基準は、おれが戦場に駆け付けたことではなく、自らの身体に傷をつけて血文字を書いたことにあるようだった。
「でも字が間違っている」
「え?」おれは自分の胸元を見た。確かに「闘者」の画数が足りなかった。
「なぜこれで入れたの」
傍らの桜の木がさわさわと鳴った。
「大和魂が彼の心意気に感じたようね」いつの間にか来ていた美野さんが言った。
どーん、とうろこ夷敵の爆発音。
おれは染井の手を取って言った。
「おれわかったんだ。なんでおれがきみと一緒にいたいのか」
「人間はいつか必ず死ぬ。しかし最後のときまで努力するやつは美しい」
「おれは美しいきみを最後まで見ていたいんだ」
どーん。うろこ夷敵が爆発する音と、ああーというソメイヨシノの絶望する声が響く。
「そう」染井はぶるっと身体を震わせるとなにか納得したような表情をした。「それなら」
染井は首に巻いた包帯を引きむしると、止血テープをはがした。たった今切ったばかりのように血が流れだす。染井は手にした包帯にその血を浸すと、それを高く掲げて大きな言霊を宙に放った。
注目
戦線に散らばっているソメイヨシノたちが何事かとこちらを見た。染井は血の包帯を指揮軍刀のようにかかげて叫んだ。
「わたしはまだ生きてる。最後まで戦う!」
ソメイヨシノたちの反応はさわさわと桜吹雪のように伝わってきた。
(傷を負ってる)
(この前のときの)
(とどめは?)
(まだ)
(まだ生きられるの?)
(でもどうせ余命でしょ)
(吉乃が生きられるのなら)
(わたしも)
(まだ生きられる)
(わたしも)
(わたしも)
ソメイヨシノたちがみなこちらを、染井を見た。染井は「馬」という大きな言霊を発するとそれにまたがり、血染めの包帯を掲げながら指揮をとった。
「集合!」
号令は肉声と言霊の両方で行われた。ぺたんと座り込む、あるいは膝をついて絶望していたソメイヨシノたちが再び立ち上がり、血を流しながら集合した。染井は馬で一周して陣形を整えてから一旦馬の歩を止めた。みなが染井、いや染井の首の傷を注視しているのがわかった。
「わたしたちはまだ生きてる」
「生きてる限り、任務も遊びも精一杯やろ!」
「もし、この戦いで生き残ったら、血を流していても……」
「みんなでソフトクリーム食べに行こ!」
ソメイヨシノたちがほほえんだように見えた。
それから染井は居住まいを正し、特大の言霊で号令した。
「突撃!」
*
一時間後、激戦が終わった。死に物狂いのソメイヨシノたちは圧倒的な数の夷敵たちをせん滅した。
夷敵は死ぬと爆裂四散するので跡形もない。あたりにはソメイヨシノたちの遺体のみが転がっていた。その真ん中に頭と足を互い違いに隣り合わせに寝そべった吉乃と美野さんが息を切らせていた。二人とも消耗して起き上がる気力もないようだった。
戦場の真ん中にたった一本、ソメイヨシノが守った桜の木が生えていた。大和魂の具現化である桜の木は少女たちの死とは無関係なように立っていた。満開の桜は雪のように花びらを降らせている。
「染井!」おれが叫んで近づくと染井は目を開けた。おれは傍らに膝をつくと染井の手を握った。
「来ては、だめだったのに」 染井はおれに手を握られながら言った。
「漫画みたい」美野さんがこちらを見て言った。「本当にそんな恋があるんだね。いいな」
美野さんがせきこんだ。唇のはしから血が流れ出た。
「と、どめ?」同じようにあえぎながら染井が問うた。
「い、いい。わたしもあなたみたいに最後まで生きてみる」か細い声だが美野さんははっきりと言った。
「あなたは?」今度は美野さんが染井に問う。
「血が足りなくて、もう起き上がれないみたい」
「でも最後まで」
「そう最期まで」
「「生きる!」」二人は同時に言った。
溶鉱炉の匂いがおれたちの会話を中断した。
「黒船!」「まだ!」
おれたちは絶望的な思いで空を見上げた。今やおなじみの黒いうずがおれたちの頭上で巻いている。桜忍軍はほぼ全滅した。増援はない。こんどこそ、最後だ。
どーん、どーんと夷敵の塊がおれたちを遠巻きにして落下してきた。死がほどけてゆっくりと立ち上がる。
「あなたを、巻き込みたくなかった」染井がいう。
「言っただろ。もう巻き込まれてるってな」
「でもこのままでは、むごく死ぬ」
「その様子じゃ、言霊も使えなさそうだな」
「そんなことない。言霊を出すだけならできる。でももう飛ばせない」
染井は「刀」という言霊を出し具現化したが、それはおれの足元にごろんと落ちて漢字の「刀」に戻り、やがて薄れて消えてしまった。
本当に染井はもはや言霊を自在に飛ばす気力がないようだった。
おれは集中して「刀」を具現化した。指揮軍刀がおれの手に現出した。
少なくともこれを手に取って最後まで戦うことならできる。おれは二人のソメイヨシノたちの死を静かに迎えさせてやりたかった。夷敵どもに二人の尊厳を乱されたくなかった。二人を汚されるのはおれの男としての矜持が許さなかった。
おれは刀の重さを確かめながら言った。いまだに刀の使い方はよく分からない。我流の剣法だ。バットと同じように振ってるだけ。
「おれが剣道部ならよかったのにな。でもおれ野球部だったから」
なにげなく口にした言葉でひらめいた。言霊はいろいろな形に実体化できる。
「おい、染井」染井はおれを見る。「なにか投げてぶつかったら爆発するようなものは言霊で作れないか」
返事の代わりに染井はなにかつぶやいた。ただちに宙に「弾」という言霊が現れ、それは手りゅう弾のように具現化した。おれはそれを恐る恐るつかんだ。「弾」はおれの手の中でちょうど野球の硬球くらいの大きさになった。
夷敵どもがおれたちを囲んで近づいてくる。おれは一番近いのがマウンドからキャッチャーくらいの距離に近づくまで待った。おれは身体を横向きにして目をつぶった。耳にかつてのマウンドに立ったときの声援が聞こえる。おれは大きく振りかぶって手の中の「弾」を夷敵に向けて投げつけた。「弾」は時速100キロのスピードで飛んで行き、夷敵に当たった。
爆! 轟音とともに、言霊の弾は爆発した。
弾の当たった夷敵の上半身が吹き飛ぶと残りはゆっくりと倒れてから爆裂四散した。
おれは次々と染井の渡す「弾」の言霊を振りかぶっては投げた。特にうろこ夷敵をねらうと周囲の夷敵も巻き込んではでな爆発が起こり同時に二三体は破壊で来た。前後左右で爆発が起きるたびに夷敵は倒れていった。十球、二十球。夷敵はどんどんといなくなる。
「ちっ」二十一球目でおれはコントロールをはずして「弾」はあらぬ方向へ飛んで行った。おれは両手を膝についた。
「大丈夫?」横になったまま染井が気遣う。
「言ったろ。肩が壊れてるって」
無理して投げるたびに肩の痛みがひどくなる。もうそろそろ限界だった。体が言うことをきかない。再び「弾」を拾おうとしたが、おれの意思に逆らって「弾」は手から滑り落ちると地面に転がった。冷汗が額から噴き出て流れ落ちると、目にしみた。
「駄目だ」もう一球も投げられない。限界だった。染井を守ってやりたい、でもおれももう動けない。せめてもの救いは、女の子に助けてもらうばっかりじゃなくて、おれも何かしてやれたことくらいだった。
おれは左手で刀を拾い、右手で染井の手を握った。
*
さわさわさわ。
見上げると、目の前が見えなくなるくらいの桜吹雪だった。桜の木から降る大量の花弁が、いや! 違う。
桜花の花弁はもっと上空から降っていた。そしてその合間から薄桃色の戦闘服に身を包んだ少女たちが大量に降ってくるのが見えた。
「くっそー、ようやく援軍か。ひやひやさせるぜ」
おれは右手で額の汗をぬぐおうとして、痛さのあまり右腕をおろし、改めて左手でぬぐった。
「援軍?」美野さんがいぶかしげに言う。「増援の予定はない。なぜ」
地上に降り立ったソメイヨシノたちの半数は夷敵との戦闘に、残りはおれたちを守るように囲んだ。相変わらずの無表情で、でもうれしそうなのが、染井と時間を過ごしたおれにはなんとなくわかった。
ソメイヨシノたちはおれたちを囲んで静かになにかを唱えた。それは童謡に聞こえる響きだった。
個にして集団、集団にして個
吉乃が喜べばわたしたちもみな喜ぶ
吉乃のよろこびはわたしたちの喜び
わたしたちの喜びは吉乃のよろこび
吉乃が愛すればその愛はわたしたちみんなが感じる
吉乃が愛されれば、わたしたちみんなのよろこび
吉乃が血を流せば、わたしたちみんなも血を流したよう
あなたは個としての吉乃を愛したけれど
愛されるよろこびはわたしたちみなのもの
「そうか。そうだったのか」
おれはようやくソメイヨシノたちの関係と、染井がなぜ仲間の元へ戻ったのかを理解した。
おれたちの背後で最後の夷敵が爆裂四散し、あたりは静寂に包まれた。
*
染井が突然目を開いた。おれの方をもの言いたげに見つめている。
「なんだ」おれは顔を近づけた。「なにが欲しい」
「もう」
しばらくたってから言った。「もらった」
「水飲むか? とってこようか」
「いい。行かないで」染井はおれの手を握った。
「そうか」
「もっと近く」
おれはさらに顔を近づけた。染井はおれのほおに手を這わせ、おれのリーゼントにした髪を手ですいてから再びほおに触れた。
「ずっと言いたかった」
「なにを」
「琴吹くん」
「うん?」
「クレープ、ありがとう」
「おう」
「ソフトクリームも」
「うまかったか」」
「気絶するくらい、おいしかった」
「あんなもの、いくらでも買ってやるぜ」
「ほうたいを巻いてくれて、ありがとう」
「一人じゃ首に巻けないからな」
「それと」
「うん?」
「青い服。すごくうれしかった」
「そうか。おれ高校生だから何回もは無理だけどな。うれしかったら笑顔を見せろよ」
「笑顔」
「そうさ。きみの笑顔が見たい」
「うん」
染井はしばらく考えていたが、おもむろににっこりと笑った。
時間が止まるくらい、可愛かった。
「琴吹くん」
「おう」
「もっと一緒にいたかった」
「一緒にいられるさ」
「もう時間がないの」
「そんなこと言うなよ。明日、またクレープ食いに行くか? ああそうだ。みんなと戦いに勝ったら一緒にソフトクリーム食う約束しちまったじゃないか。みんなで行こうぜ。うわっ、ソフトクリーム百人分か。おれそんな金あるかな」
「琴吹くん」
「おう」
「琴吹くん」
「なんだ」
「さよう、な、ら」
突然染井は動きを止めた。おれはしばらく手を握っていたが、脈が感じられなかった。おれは握った手を揺さぶった。
「お、おい、もうちょっとなんかあるだろ。そんな簡単に逝くなよ。びっくりするぜ。おい、染井、なんとか言えよ。まだ眠るな」
染井は答えなかった。白い顔が一幅の絵のように安らかに置かれていた。
ずっと耐えていたはずのおれの目から涙が滴り落ちた。止めることはかなわなかった。
「吉乃! 好きだ。死ぬなよ、そんな早く。もっと一緒にいたいよ」
染井は答えなかった。おれの涙はぼろぼろと染井の胸の上にこぼれた。おれは左手のこぶしで目をごしごしとぬぐったが、後から後から流れる涙はとどまることを知らなかった。
「吉乃!」
おれは染井の胸に突っ伏して泣いた。野球ができなくなっても、学校でだれも相手にしてくれなくても決して流れなかった涙が薄桃色の服の上に大きなしみを作った。
冷たい風が流れてきた。その涼しさはおれの顔をなぶり、我に返らせた。おれは目を開いた。
染井が目を開いていた。
「ありがとう。わたしも琴吹くんが好き」
「な、なんだよ。人が悪いぜ。おれをからかったのかよ」おれはきまりが悪くて涙をぬぐうと横を向いた。
「花冷え」染井はつぶやいた。
「え?」
「急に冷えたから、花が散るまでにもう少し時間ができた」
「花が……散るまで?」
「わたしももう少し生きられる」
「そんな」
「人間の命は短い。たかだか八十年。わたしたちソメイヨシノの命は二週間。でも遅いか早いかの違いだけ」
「そうかな」
「あなたといられてよかった」
一陣の風がおれたちの間を吹き抜け、桜の枝を揺らしたが、花弁は一枚も散らなかった。
花冷え。しばらくの猶予。
了