ソメイヨシノ
いぬの臭いだ。
おれには生まれた時からなにも特殊能力なんかない。右手に封印した力もないし、スタンドというものは勉強机の電気スタンドくらいしか持っていない。多少五感が優れているくらいで、視力は両方とも2.5。聴力は席の後ろのうわさ話が聞こえる程度。それ以上なにもない。それは確かだ。だが、あの桜結界に踏み込んでしまって以来、おれの感覚にはなにかが起こってしまったようだった。確かに官憲の臭いがした。
ケイサツ官は電柱の陰から現れた。
相変わらず、不愉快な微笑を浮かべている。
「わかっただろう」
おれはそう言うケイサツ官をにらみつけた。胸の中に言いたいことがたくさん渦巻いていた。
「ソメイヨシノは桜前線に特化した戦闘集団だ。彼女らの貴い犠牲で日本の大和魂は守られている。きみのような高校生が鼻を突っ込む事柄ではないのだよ」
「ああやって致命傷を負ったら殺すように教えたのはあんたらか」
「天海僧正様だ」
「天海……?」
「江戸幕府を陰から支えたのは天海僧正様の結成した桜忍軍だった。ご自身が優れた言霊使いだった天海僧正様の右腕には「ヨシノ」という天才大和撫子がいた。通常の大和撫子は同時に一つか二つの言霊しか操れないが、ヨシノは同時に七種の言霊を駆使したという」
「しかしどれほど才能のある者を訓練してもヨシノほどの天才は現れなかった。そしてヨシノには子供はいなかった」
「そこで彼女は苦渋の決断を下し、移し身の外法を用いて自らの肉体を割き、乙女の体内に入れることで、自らの分身を七体作った」
「ありえねえ」
「そう。今で言うクローン人間だ。大和魂の力を用いれば、科学もない時代にそのようなことができるのだ」
「じゃあ、あの子たちは」
「その通り。彼女たちはすべてヨシノのクローン。個にして集団、集団にして個のソメイヨシノたちだ。現代の技術力ではクローンはさほど難しいことではない。培養槽で育てられたヨシノの細胞は十一か月でほぼ人間の十六歳くらいに成長し、知性を宿し、言霊を使いこなすソメイヨシノとなる。同じ姿かたちを持ち、同じ心を持つ最強の桜忍軍に」
「それは違うぞ」おれはさえぎった。ケイサツ官の言った言葉がおれの癇に障った。同じ心。そんなことあるか。
「おれの会った吉乃はほかのヨシノたちとは違う。おれにはそんな気がする。いや、間違いなく、そう感じる」
「ふむ」ケイサツ官は不機嫌そうに顔をしかめた。「やはりきみと話して正解だったな。実はわれわれもそれを感じていた」
ケイサツ官は初めておれに正面から向き合い、真剣な表情で話した。
「本来戦うことに特化したソメイヨシノが普通の女子のような感情や欲望を持つことはおかしいのだが、あの個体は仲間をあだ名で呼び始めた。そしてあろうことか将来の夢などを話し合うようになった」
「女の子が感情や欲望をもっちゃ、ダメなのかよ!」
こいつら、何様か知らないが、狂っている。ヨシノたちを兵士として量産しておいて、彼女らには人間としての生を許さないのが当たり前と思っている。
「女の子が自分の友だちをあだ名で呼んで、その子が死ぬときには涙を流すのがおかしいことか! 命をかけた辛い戦いをさせて、これが終わったらソフトクリームが食べたいって思うのがそんなに変なことかよ!」
おれはこぶしを握り締めた。あまりに強く握りしめたため、爪が手のひらに食い込んで切れ、血が流れた。
「おかしいのだ。ソメイヨシノの場合」
ケイサツ官は困ったように言った。
「おかしいのはお前らの方だ」
おれは叫んだが、ケイサツ官はなにか他のことを考えているような表情をした。
「夢、感情、そういったものは戦闘の効率を著しく低下させる。兵隊には不要なものだ。だが」
「規格外のあの個体が最も優秀であることも間違いないのだ。組織の基本理念を無視するような個体が」
「最も優秀」
「その通り。きみと親しいあの「吉乃」はわが警異刹のエースだ。短期培養された下忍にも関わらず、すでに中忍階梯しか使い得ない会意の外法まで身に着けている。そしてきみと知り合ってから、言霊同期率は素晴らしい伸びを見せた。もしかしたら転換点となるかもしれない」
「転換点?」
「あ、いや。一般人は知らなくて良いことだよ」
「一般人には教えないってか。あんたと話していると鼻持ちならないエリート臭が漂ってくるぜ」
「エリート臭? いやもちろんきみたち民衆にはわれわれの気持ちなどわからんだろう」
ケイサツ官はあごを上げて流し目でおれを見た。
「「民」という漢字の起こりを知ってるかね。「目」にこうやって針を刺す」
ケイサツ官の言葉にあわせ、おれたちの前に「目」の象形文字が現れ、その隣に針が現れた。針はゆっくりと突き進み「目」の瞳部分に突き刺さった。単なる影絵のようにも見えるがあまりにリアルで目をそむけたくなった。針を刺された目は変形して「民」という文字になり、そして消えた。
「昔は奴隷が逃げださないように目に針を刺してつぶしたものだ。それが「民」という漢字の成り立ちだ。実に言いえて妙だとは思わないかね。民と言うものは本質的に目が見えない。大局を理解せず、現象ばかり追いかけて騒ぎ立て、肝心な行動を起こすことはない。われわれが守ってやらねばすぐに滅びてしまうだろう。いや、民主主義など衆愚の極み。馬鹿の集まりだ」
おれは言い返す言葉もなくだまっていた。
「見ろ」
ケイサツ官は宙に「映写」という文字を放った。映写の「映」は四角に広がってディスプレイとなり、そこにはおれが見慣れた自分の街の姿が現れた。通学路や学校を行きかう人々が映し出された。いつも見ているのと違うのは、その映像の中の人々にはまるでゲームの中にあるようにゲージがくっついているところだった。それぞれの人のゲージはHPのようになにかの度数を示していた。右端に行くとゲージは青から緑になり、左端に近づいて残り少ないゲージはオレンジから赤になっていた。
「これがなんだかわかるか」ケイサツ官は得意げに言った。
「このゲージは各個人の「気」の状態を表している。見ろ。この男を。スマホに気を吸い取られ、ほとんど使い物にならない。こんな奴が仕事をしてもミスばかりだし、生涯かけてもほとんど大したことを達成することはできない。これはみな精神力をぶらされているからなのだ」
ケイサツ官はおれを見た。
「夷敵が企んでいるのは、日本の気を乱し、日本をもっと即物的で快楽主義的な国に作り替えようということだ。そうなればわれわれは世界を技術でリードする地位を失い。大国の単なる消費市場としての価値しかなくなる。すべての革新を他国に奪われ、与えられる娯楽をただ締まりのない笑顔で受け取り、奴隷労働し、給料を搾取される。気が乱れれば日本は駄目になってしまうのだ」
ケイサツ官は誇らしげにあごを上げた。
「それを食い止めているのがわれわれ警夷刹であり、あの少女たちなのだ。彼女たちがいなかったなら、物量において劣る我が国はとうの昔に夷國の思うがままにされていたに違いない。彼女たちには一般市民のような娯楽は与えていない。彼女たちはそんなものを超越したエリートであり、日本の希望なのだ」
ケイサツ官は自分の言葉に酔ったように話し続けていたが、ふとおれの顔を覗き込んでつぶやいた。
「鼻を突っ込むのをやめなさい。さもなければ排除する」
おれには政治のことも夷敵という連中のこともよくわからない。しかし友人を自らの手で殺さなければならなかった少女の涙が国家の危機の前には無意味だということにはどうしても納得いかなかった。
*
おれは次の日の早朝、再び蜂須川の土手へ行った。桜の匂いが届く前に、そこに染井がいる、という確信があった。おれは当然のような顔をして、桜結界に踏み込んだ。
染井吉乃はいた。薄桃色のセーラー服を着ている。
やはり桜の木のかたわらで新しい盛り土の上に折り取った桜の枝を刺していた。
おれは静かに歩み寄って染井の隣に立った。
そっと横目で見ると染井は泣いていなかった。おれはほっとした。
「チャオだよな」
「うん」
おれは墓に向かって黙とうした。染井は黙って立っていた。
黙とうが終わると、おれは染井におずおずと話しかけた。
「あ、あのさ」
「なに」
「君たちのことを聞いていい?」
「いい」
「普段はどこに住んでなにしているの」
「國界斗書館」
「国会図書館?」
「の地下。そこに基地がある」
「基地」
「警異刹の基地」
「うわっバキみてえだな」
「バキ」染井は不思議そうな顔をした。
「少年マンガさ。きみは読まないだろ」
「マンガ」染井はちょっと目をそらした。あれっ?
「いや、こっちの話。で、そこで毎日何してんの」
「本を読んでる。言霊を錬成するため」
なるほど。桜忍軍の訓練って肉体的なものじゃないんだ。
「そうなんだ。って、そんなことおれに話しちゃっていいのかよ」
おれはケイサツ官の嫌な笑みを思い出した。
「あなたにならいいって」
「それは……」それはそれで大変不審だが。
「じゃガッコとか行ってないんだ」
「ガッコ?」
「学校さ」
「ない」
「クラブ活動とか」
「ない」
「休みのときなにしてんの」
「ない」
「休みねえの? 大変だな」
「普通」
「なんか企業戦士みてえだな」
「戦士だから」
「ふーん」おれは染井の上から下まで見た。あれほどの言霊による技の数々を見ても、「戦士」という言葉とほっそりした少女の姿はしっくりこなかった。
「あ、あのさ」
「なに」
「今度の休みに一緒に映画でも見ないか」
「映画?」
「ていうか、おれと付き合わねえか。いや付き合ってください」
おれはきおつけをして頭を下げた。
染井はちょっともじもじした。
「でも」
「でも?」
「あなたは言霊もできないし」
「へ?」それ付き合うとなんの関係?
「言霊もできない人じゃ」
「へいへい、言霊ね」ソメイヨシノ《このこたち》にとって男の価値は格闘技地上最強とか、金持ち、とかじゃなく、言霊を使えるかどうかなんだ。
「それって努力すればできることなのか。それならおれ頑張るぜ」
染井は考えこんだ。
「できる?」
「できるさ。言霊ってさ、どうやって出すの」
「練習する。まず漢字を覚えて」
漢字ならおれも知ってる。
「漢字の形を胸の中で描く」
染井は胸の前で手を組み合わせてハート形を作ってみせた。
「しっかり形が描けたら、そこに意味を乗せる」
「意味を乗せるって」
「漢字には音と意味がある。その意味の部分に実際の物事の意味を込める」
「こめるって」
「例えば「刀」なら刀の字を思い描いて、それから本物の刀をよく考える。手触りや重さ、切れ味なんか。その実際の感覚を字の「刀」に乗せると言霊が形になる。
「うーんって、できねえよ」
「最初から無理。まず自分がよく知っているものの漢字を言ってみて」
「ええと、「球」かな」言ってしまってからおれはあわてて言いなおした。
「いや、やっぱやめとく。「チャリ」はどう? あ、自転車だけど」
「最初から熟語は無理。一文字の漢字でなにかない?」
「漢字一文字でよく知ってるものかぁ。じゃあやっぱり「球」でやってみるか」
染井は当然のような顔をしておれの手を取った。えっ!?
「力を抜いて。警戒を解けば、あなたの心に描いた文字が見える」
「それって心を読めるってこと」
染井はちょっと小首をかしげた。「違うと思う。考えていることがわかるわけではない」
それでも。ま、染井ならいっか。
「じゃあまず「球」という漢字をはっきりと思い描く」
「うん」おれは目をつぶって「球」という文字を思い浮かべた。つぶった目の前に染井が出現させたような「球」の文字が黒々と浮き上がった。
「それでいい。そのまま本物の球を強く考える。重さ、形、手触りなんか」
おれは野球のボールを思い描いた。白くて、赤い糸の縫い目が浮かび、固く、手の中でちょうどいい重さで……」
「そこで漢字の「球」を忘れては駄目」
「両方いっぺんに考えるのか。できねえよ」
「最初は誰もできない。もう一度漢字を思い浮かべるところからやって」
染井に頼まれたんじゃ断れない。おれは再び「球」の漢字を考えた。墨書した文字が浮かんだ。
それから実物の球と。
おれは漢字の「球」を消さないように白球を考えた。白い球が現実味を帯びて、いや漢字の球を忘れないように、実物の球の重さと手触りと、墨書の球が。
「できねえ」おれはぜいぜいと息をついて言った。全然違うものを両方想像するって難しいな」
「最初は難しい。でもあなたは字を書くでしょう」
「ああ」
「字を書くときは伝えたい「実体」の「意味」を「文字」にして書くでしょう」
「ほう」
「それを心の中でやる。今度はわたしも手伝うからやってみて」
おれは再び「球」を念じた。勉強は苦手だったが、染井に手をつないでもらえるのなら、何時間でもできる気がした。
「球」を念じて、そのまま球の実態を想像する。
おれが白球を生々しく想像すると、違う感覚が起こった。誰かがおれの念じている実態の球をゆっくりと「押し」たのだ。そんなことをできるのは染井以外にあり得なかった。「押され」た白球は文字の「球」の上に「乗る」と同一化した。球が「球」になった。そのまま染井の力は「球」をおれの中から押し出した。
おれが目を開くと宙に「球」の文字が現れ、まるで本物の野球のボールのようにぽてん、とおれの前に落ち、それから少し転がった。「球」の言霊はおれたちが見ている前でゆっくりと薄れ、やがて消え去った。
「できた」
「うおおおおおおおおお! おれできた! もしかして、おれも言霊使い?」
「まだ」染井は軽く頭を振った。「一人でできるようにならないと」
「できるさ」おれは胸にこぶしを当てて言った。「おれを誰だと思ってる。おれは琴吹慶次。日本一めでたい名前の男だ」
次の日からおれの言霊訓練が本格的に始まった。染井は忙しいのかどうか分からなかったが、おれが結界に入ると大体いつもいた。たまに染井がいないときには、おれは桜の木の前で朝から晩まで言霊の錬成を行った。三日でおれは染井の助けなしに「球」の文字を具現化できるようになった。しかしおれが帰宅し、風呂の中で同じことをやろうとしてもどうしてもできないのだった。どうやらおれが言霊を使えるのは、あの桜の木の前だけらしかった。
「次は言霊を飛ばす」
自力で言霊を出せたその翌日、染井はそう宣言すると、おれの目の前で「剣」の文字を具現化し、それを飛ばした。「剣」はひゅーと空気を切り裂いて飛んで行き、地面に突き立った。手で触れたわけでもなく、なにか唱えたわけでもなかった。
「どうやるんだ?」
染井はちょっと困ったように眉をしかめた。
「どうって……念じる。形になった言霊がそのまま滑って行くのをイメージする感じ」
「そうなんだ」
「えいやって、こう飛んでいく感じで」染井はジェスチャーを交えて説明してくれたが、よくわからなかった。
おれは「球」をイメージし、文字と実物のイメージを重ね合わせ、そしてそれを投げるイメージを描いたが、できたそれはおれたちの前でぽとりと落ちただけだった。おれは何度も試し、もし「球」の文字が消えなければそれで山ができただろう。しかし、それは飛んでいかなかった。
「ダメか」おれはちょっとがっかりしたが、染井は別に責める様子はなかった。
「わたしたちは夢の中で言葉をおぼえる。何か月もかけて、言葉を形にする。あなたは昨日始めたばかり」
「じゃあ、おれダメなわけじゃないんだ」
「すごい、と思う」
「そっか! じゃあおれも君たちと対等かな」
「対等?」染井は再び不思議そうな顔をした。「あなたは民間人だから」
うわっ。これって軍人の発言かな。
「きみたちってさ、色々すごいし、大変だと思うよ」おれはここ一番の真剣さを目力込めて言った。「でも毎日勉強ばかりじゃ疲れるだろ。たまに遊びたいとか思わないの」
染井はしばらく黙った。
「きみは結界の外に出られるの?」
「出られる」
「じゃあ今度さ、一緒に外でソフトクリームでも食べないか」
無言の染井が「ソフトクリーム」という言葉に反応してかすかにはっとしたのが分かった。
「おれと一緒じゃ嫌か」
「いやじゃない……けど」
「けど?」
「わたしたちは一人前になったら、外に出られる」
「ソメイヨシノのルールなんだね。わかった。どうやったら一人前と認められるんだ」
「はぐれ夷敵を一人で倒したら」
「うわっ! マサイの戦士みたいだな」
「マサイ?」
「いや、こっちの話」
アフリカのマサイ族の戦士は一人前になるためにライオンを一人で狩るとどこかで読んだことがある。
「じゃあ、おれが一人前の言霊使いになったら、一緒にソフトクリーム食いに行ってくれるんだね」
「うん」
「それできみがおれのことを認めてくれるなら、やってみせる」
「危険」
「大丈夫。おれは琴吹慶次。日本一めでたい名前の男だ」
染井は無言だったが、面白がっているように見えた。
「じゃあ、約束だぜ」
おれは下から染井の顔を覗き込んだ。
「な」
染井は黙ってかすかにうなずいた。
*
美野さんは電柱の陰から出てきた。
おれが家へ戻る途中のことだ。それはまるで電柱の陰に隠し扉があるように唐突な現れ方だった。それがケイサツ官の現れ方と似ていたので、おれはちょっと不機嫌になった。
「なんですか」
美野さんはロングの髪をかきあげるとちょっと微笑んだ。
「あなた、面白いわ」
「吉乃にもそう言われました」
「普通の人間ならあの戦闘を見て逃げ出すのに。わざわざのこのこと戻って来るなんて。なぜ?」
「でも言霊ができないとおれは人並みじゃないそうです」
「ま、私たちの世界では言霊がどれだけできるかが価値観だからね」
「わたしたち」
「私たちソメイヨシノにとっては」
「なんで」
「私たちは軍人と同じ。大和魂を守るための戦いにはかわいいとか料理が上手とかはどうでもいいことだからね。でも」
美野さんはおれを流し目で見た。
「エースが惹かれた男がどんなやつなのか興味がある」
「エース?」
「あんたの吉乃のことよ。私は中忍であの子は下忍だけど、あの子は突出した才能で中忍と同じような特権をもらった。上司もあの子には期待している」
「上司?」
「あなたもあったはず。ケイサツ官と名乗ってるわ」
「ああ、あいつ」
「あいつが私たちの上司」
「でもあいつはおれにソメイヨシノのことを嗅ぎまわるな、って警告しましたよ」
(ま、立場上はね)
美野さんはほほえんだままなにかつぶやいた。
「なんでそうまでして危険に鼻を突っ込むの? もっと普通の高校生ならいくらでもいるのに」
「おれにとって染井は他とは違うんです」おれは丁寧に言った。
「おれはあいつの笑顔が見たいんです」
*
おれは言霊の錬成のために町を歩いた。とにかく野球のボールじゃ武器にはならない。思い切りぶつけても相手にこぶを作るくらいだ。夷敵と戦うためには、なにか武器になるものを具現化する必要があった。おれはミリタリーグッズの店に入り、あちこちに置いてある銃や模造刀を手にとってみた。20ミリ機関砲の弾丸を手に取ってその硬さや冷たさ、重さなどを確認してみた。後々思い出せるようにその感触を身体と頭に刻み込んだ。
そうして数日が過ぎた。おれは一人で文字を宙に具現化することができたが、それまでだった。具現化した文字を飛ばすことはどうしてもできなかった。
おれはいつものように桜の木の前に立って、精神を込めていた。しばらくして、具現化した機関砲弾がぽろり、と前に転がっておれの落胆に合わせてゆっくりと消えていった。
相変わらず、おれは具現化した言霊を飛ばすことができなかった。今日は染井も顔を見せていない。忙しいのだろう。おれは染井の顔と彼女がソフトクリームを食べている光景を思い浮かべてモチベーションを高めてから引き続き言霊の錬成を続けようとした。
キィ
おれの前にそびえる桜の木がきしるような声を立てた。おれは見上げ、それから後ろを振り返った。
はぐれ夷敵だった。一体だけ黒々とした体をゆすりながら、だんだんこっちに近づいてくる。
「ついに登場か。へっ、まだこっちは言霊飛ばせねえのに」
『HEADT』
夷敵は口を開いた。
カアッ
酸のつばが飛んでくるのは予想していたので、おれは難なく横転してはぐれ夷敵の攻撃を避けた。しかしどうやってこいつを倒すかな。
おれは間合いを取ったまま、忙しく思考した。ままよ。
おれは「刀」の文字をイメージし、そしてミリタリーグッズ店で触った実物の軍刀をイメージした。その長さ、重さ、刃の冷たい切れ味を強く思い描いた。
「錬成!」
掛け声とともに刀は具現化しておれの前の地面に突き立った。おれはそれを引き抜くとバットを持つように両手で抱えて構えた。刀で戦ったのは初めてだが、反射神経とタイミングが必要なのは野球と同じだろう。むしろ夷敵は強酸の唾と素早く伸びる腕が武器だから通常の剣道の立ち合いとはかなり異なる戦いだ。しかしゲームの敵に似ていて、攻撃する前の挙動でどの攻撃が来るか読める。
おれは夷敵の横へ回り込みながら徐々に距離を詰めた。夷敵の正面にいると強酸の攻撃を受ける、その照準をはずして近づいて行くと、次にどんな攻撃が来るか予想がついた。
シュッ
空気を切る音とともに夷敵の右腕が伸びてきて、おれをつかもうとした。おれはそれを横転してかわした。
シュッ
続いて左腕が伸びてきた。右腕の倍速くらいだったが、これも予想通りだ。おれはタイミングを合わせて下から刀を薙ぎあげた。手ごたえがあって夷敵の左腕が切れ、回りながら飛んで行った。
キャアアアア
夷敵は大げさに体をゆすって苦しんだが、おれは神経を集中していた。耳にかすかな風鳴りが聞こえる。おれは振り向きざま刀を振り下ろした。おれの背後で不自然に角度に曲がりおれを背後からつかもうとしていた夷敵の右腕が地面にたたきつけられるように落ちた。これで両腕。
おれは夷敵に向かって走った。夷敵は両腕を失い苦し気に体をゆすりながらおれに向けて口を開いた。
カアッ
夷敵が強酸の唾をおれに吐き掛けた瞬間、おれは前に回転し、夷敵の両足の間を潜り抜けながら天に向けて刀を突きだした。ズバッ!
シャアアアア
切り裂かれた夷敵の下半身から光のような血があふれ出、立ち上がって振り向き刀を構えなおしたおれの前で二、三度ゆらゆらと体をゆすると、最後には全身から光をほとばしらせて爆裂した。
ふう。
夷敵と戦うときの鉄則。相手を完全に破壊するまで決して気を緩めないこと。
「みごと」
いつの間にか桜の木の傍らに染井が立っていた。目には称賛の色をたたえている。
「けへっ」おれは頭をかいた。「見てたんだ。黙ってるなんて、人が悪いぜ」
「夷敵をたった一人で倒した」
「お、おう」
「間違いなくあなたは一人前」
「そ、そうか?」
「そう」
「じゃあ」おれは期待に満ちた顔で染井を見た。
染井は相変わらずにこりともせずにうなづいた。
「ソフトクリームの摂取を許可します」
*
おれが待ち合わせの蜂須賀川土手で自転車でたどり着くと、染井はすでに待っていた。薄桃色のセーラー服がめちゃくちゃ似合っている。でも私服は持っていないのだろうか。
おれは自分のママチャリを前に停めると、染井に後ろに乗るように言った。
「ここから歩くには駅はけっこう遠いんだ。こんなもんで運ぶのは悪いが、おれもタクシー代とかないし、ちょっと我慢してくれ」
「大丈夫」染井はそのまま自転車の荷台に座った。
おれは染井を乗せたまま川沿いの自転車道を走った。こちらが近道だ。休日の河川敷には少年野球の小学生たちが練習をしている。おれたちの少し先にボールが転がって来て止まった。
おれはブレーキをかけて自転車を止めた。
「すいませーん!」グラウンドから少年たちがグローブを振りかざして叫ぶ。
おれは自転車を降りて染井を待たせてから転がってきたボールを拾い、グラウンドに投げ返した。ボールは白い弧を描いて一番背の高い少年にまっすぐ飛んで行った。
「ひゃあ! 強い」おれのボールを受けた少年が叫ぶ。
「ありがとうございまーす」少年たちは礼をすると練習に戻った。
おれは自転車に戻り、再び染井を乗せて漕ぎ出した。
「あれ」染井が後ろを振り向いて問う。
「野球か。日本で人気のあるスポーツだ」
「ルールは、知ってる」染井が言った。「実際に見るのは、初めて」
「そうか」
「あなた、上手い」
染井の言葉におれはしばらく黙ってから答えた。「ありがとう」
「どうして」その質問が来ると思ってた。ボールを拾ってなんかやらなきゃよかった。
「なに」おれは気づかないふりをした。
「どうして、痛む?」
「痛むって、どこが?」おれはひやひやして答えた。
「あなたの心」
おれは黙った。
「あなたの心が痛んだ。「野球」って言ったときに」
「おれ……」おれはしばらく言葉を選んでいた。
「おれ、中学校で野球部だったんだ。しかもピッチャーさ。ピッチャーってわかる? 野球で一番注目されるポジション」
染井の沈黙はおれに続きを促しているようだった。
「でも無理し過ぎで三年生の引退試合で肩を壊してさ」
「肩、こわれた」
「いや、まるっきり使い物にならなくなったわけじゃないんだけど、野球の用語で「肩を壊す」って言うんだ。もう全力で投げると痛くなってくるんだ。数十球投げれればいい方」
この話するとだんだん落ち込むな。
「そしたら顧問の先生もコーチも今までちやほやしてたのが急に冷たくなってさ」
「ほぼ決まりかけてたスポーツ推薦の私立高校も駄目になるし」
* * *
橋本先生は満面の笑みを浮かべて言った。
「琴吹くん。きみはわが校始まって以来のエースだ」
中島コーチが自慢げに答える。
「中学生で彼ほどの速球を投げられる少年はいません。将来が楽しみです。もしかしたら当校初めてのプロ野球選手が生まれるかもしれません」
同じ野球部の加茂先輩。
「慶次。たのむぜ。お前が投げれば大丈夫だ」
かっせ、かっせ
自軍からの声援。
おれの投げる剛速球。三振に打ち取られる打者。
ベンチから駆け出してくるナイン。
おれを胴上げするみんな。
「希望通り、花巻徳英高校の推薦入学が決まったよ。しかも無試験で」
あれ、なんかボールを握る手に力が入らない。
変だな。
「どうしたんだ。調子悪いのか」
いや、大丈夫。なんでもない」冷汗を気づかれないようにぬぐうおれ。
「今日は試合でないのか」
「もう引退したからな」
「でもスポーツ推薦だろ。もう勉強しなくてもいいじゃん」
「そうはいかないよ。学生の本文は勉強だからな」
「ちぇっ。よく言うぜ」
「ははは」
投げると右肩が痛む。
だんだんとその痛みがきつくなってゆく。
そんなはずはない。ちょっと調子が悪いだけだ。きっとそうだ。
みんなを心配させずに、こっそりと治しておこう。
花巻徳英高校の野球部監督がおれの胸をどんと叩いた。
「いや、去年の試合、見せてもらったよ。すごかった。いまちょっと一球見せてくれないかね」
「いや、今日はちょっと風邪気味で」
「仕方ないなあ。じゃあ入学までに万全の体調づくりを頼むよ」
「はい。まかせてください」
「期待してるよ」
痛みはどんどんひどくなる。
そんなはずはない。おれはエースだ。
でもおれを見るたびにみんなの期待に満ちた顔、顔。
だれにも相談できない。
そのまま入学した。
監督の顔。
「どうしたんだ。ずっと調子が悪い、調子が悪いって。今日こそは見せてもらうよ。あの完封試合で見せた球を」
医者の難しい顔。
「もうだめですな」
「駄目ってどういうことです」
「言葉通りですよ。早めに治療すれば治った可能性もあったが、無理したために悪化している。これではもう一生野球はできませんな」
「そんなバカな。彼にはみんな期待して」監督の叫ぶ大きな口。
「無理なものは無理です」
「あいつ。もう投げられないくせに、言わなかったらしいぜ」
「ま、スポーツ推薦詐欺かな」
「入ってから肩壊したんなら言い訳できるけどさ、入るまで黙ってたんだろ。やっぱり嘘つきじゃん」
嘘つき
嘘つき
嘘つき
* * *
「おれそしたらこの世界で自分が不要な人間のような気がしてきて」
「ごめんな。こんな話。面白くないだろ」
「聞き、たい」染井はおれの腰をぎゅっと抱きしめた。それだけでなんだかおれは涙が出そうになった。かわいい子に慰められるって、癒されるな。
「もっと楽しい話しようぜ。ソフトクリームが食べたいって言ってたな。クレープとか食べたことあるか」
「ない」
「じゃ、まかせとけ」
おれはことさら快活に言った。「おれは琴吹慶次。美味いクレープ屋を見つけてやるぜ」
おれの強がりに染井は気づいたかもしれない。おれの考えまでは読めないまでも、おれの気持ちは感じ取るような気がする。
染井は黙ったままだった。
*
自転車の後ろに染井を乗せ、おれたちは駅まで行った。電車では空いた席に染井を座らせておれはその前に立った。一時間ほど電車に乗ると街に出た。染井は田舎者みたいにあたりをきょろきょろと見回した。
「まず店行こうぜ」
「おれはたちは街で何件かのブティックに入った。ネイビーブルーが流行色らしく、そこここのブティックで同じような色のワンピースが見つかった。おれは染井を店員に引き渡すと、しばらく待った。店員はセーラー服を着た染井を上から下までさっと見回したが、よくとおる営業用の声で染井を試着室へ誘導した。
しばらくして出てきた染井を見ておれは息を呑んだ。細い首筋、真っ白に伸びた手足、深い襟ぐりの下にある薄い胸に鎖骨が浮き出ている。わずかな動きで全身に無駄な肉が全くないのが分かった。染井はそんなおれの顔を見てちょっと恥ずかしそうに顔をそむけた。店員は「お似合いです」とか「素敵ですね」とか言いながら、ブルーのワンピースの腰に真っ白な幅広のベルトを締めた。バックルの金属が映えた。白色のサンダルを履かせてから姿見の前でファッション雑誌のようなポーズをとった染井は、はっきり言って雑誌のモデルの数倍可愛かった。
アクセントに真っ白な帽子をかぶって完成した。普通女の子はハンドバッグを持つが、もうおれに予算がない。それに染井は持ち物ないし。染井は上気したほおのまま、なかなか姿見の前から去ろうとしなかった。
おれは清算をすませて、染井と一緒に店を出た。
*
「さて、次はお待たせのソフトクリームに行こう」おれは染井の手を引いて歩いた。染井はおれに手を引かれて歩くことを気にしていない様子だったし、おれはなんというか、手を放して染井がどっかへ行ってしまうとか、消えてなくなるとか、そんなことが心配で、他人の目も気にならないくらいだった。そこでしばらくするとおれたちは手をつないで並んで歩いた。
原宿の表参道をまねた大通りには、平日なのにたくさんの私服の人たちが歩いていた。おれたちはカップルに見えるんだろうな。おれはそれがちょっと満足だった。
お目当てのソフトクリーム屋の前には、歩道にたくさんイスとテーブルが並べてあった。おれはその中の一つに染井を座らせるとテーブルの上に置いてあったメニューを取り上げてたずねた。
「どれがいい? ここのはどれもおいしいよ」
染井はだまってかぶりを振った。
「どれかわからない? じゃ、適当に選んでくるぜ」
おれは染井を残してソフトクリームを買いに店頭へ行った。店は盛況で、おれが列の先頭にたどり着くまでしばらくかかった。
とりあえずチョコとストロベリーを頼んで振り向くと、染井に背の高い髪の毛を立たせた男が言い寄っていた。染井は迷惑そうな顔もせず、黙っていた。背の高い男は今にも染井の手をつかみそうな様子だ。おれはソフトクリームを両手に持って足早に戻った。
「お待たせ」おれはことさら大きな声でにっこりとしたまま席に戻った。背の高い男はおれを見ると「ちっ」と舌打ちして去った。
「染井。なにか嫌なことされなかったか」
染井はうつむいたままつぶやいた。「大丈夫」
「いざというときは言霊使っちゃえばいいもんな」
「それは禁止」
染井は淡々と言った。言霊の秘密を洩らしたら制裁を受けるんだろうな。
「ま、気分直そうぜ」おれが両手を差し出すと、染井の顔はちょっと明るくなった。
だんだんわかって来たぞ。染井のちょっと明るい表情は普通の女の子の「キャー、うそー!」くらいの喜び方なんだ。
「どちらにする?」おれはチョコとストロベリーを並べた。染井は困ったような表情をした。初めてだからな。
「ちょっとそれぞれなめてみな。どっちが好きか」
染井はまずチョコを手に取って、バランスを崩さないように気を付けながらソフトクリームのてっぺんをなめた。しばらく沈黙。
その後、染井はとても上品にチョコソフトクリームを平らげていった。コーンの上部まで来たとき初めて気が付いたように小さく「あっ」と言っておれの顔を見た。表情が読めればこいつ、わかりやすいな。
「こっちも試すか?」おれはストロベリーソフトクリームを差し出した。染井はすっと手を伸ばして受け取った。
再び挑戦するような顔つきでストロベリーソフトクリームの先端をなめた染井は、そのまま本戦に突入した。おれはコーン部分だけ残ったチョコソフトクリームをなめながら、染井の様子をながめるだけだった。
「夢だった」染井は突然言った。「本の中だけで知っていた」
「ソフトクリームを?」
「うん」
「そうなんだ。ピロと一緒に食べられれば良かったな」
なにげなく言ったつもりだったが、染井ははっとしたように食べる手を止めた。
「わたしは食べている。でもピロは食べてない」
「そうだな残念だけど。きみは生きてる。ピロは、その……死んじゃったから。ごめん、悲しいことを思い出させて」
そんなおれには構わず染井は続けた。
「わたしたちは一緒だったのに」
「そうか。いつも一緒だったんだ」
「ちがう」染井はかぶりを振った。「そういう意味じゃなくて」
「え?」
「そういうことじゃなくて、そういうことじゃなくて、あの、わたしたちはみんな一緒、つまり一緒にいるんじゃなくて一緒、同じ」
「同じ」
「個にして集団、集団にして個」
おれは嫌な気持ちになった。
「それはケイサツ官の言ってることだろ」
「でも、わたしたちは仲間の気持ちがわかる。一人が楽しければみんなが楽しい、わたしは今楽しんでいるからみんなも楽しいはず。でも……」
「……ピロは死んじゃったからもうわたしの楽しさはわからない」
おれは考え込んだ。これは比喩的な言葉なのか、それとも……。
個にして集団、集団にして個。
「わたしたちは一緒のはずだった。でもピロは死んで今わたしだけがこんなに楽しい思いをしている」
「おい染井」おれは胸にたぎるものがあって声をかけたが、なにをどう言ったらいいのか、頭の中がまとまるまでしばらくかかった。
「染井、人間は一人一人違うんだ」
「違う」
「そうだ。そしてきみは人間だ。ピロは君の親友だったのかもしれないが、全く同じじゃない。すべてを分け合うなんてできないんだ」
染井には「吉乃」という名前があって、美野とも芳野とも佳乃とも違う。そしてそういった呼び分けは気瘴庁では単なる区別のためかもしれないが、おれにとって人間にとってそれは大事なことだ。吉乃はどれだけ顔が似ていても心が通いあっても決して美野さんではないし、おれにとってとても大事なのは吉乃であって美野さんがぽんと出てきて代わりになるわけではない。
そういった複雑なことをおれは染井に伝えたかったが、おれの言葉では足りなかった。こればかりは言霊で言葉を形にしたからどうにかなる、というものではなかった。
ラジオの音がした。
これまでも鳴っていたのだろうが、気に留めなかった。しかし覚えのある言葉がおれの注意を引き付けた。
『気瘴通報』
ラジオをスピーカーでストリートに流している。一種のBGMだ。
『表参道では六六六斃屠蓮猟北北西の風。封力五』
気づくと染井もソフトクリームを食べる手を止め、気象通報に聞き入っていた。
「なんか変だな。この放送」
「気瘴庁からの通報。言霊を使っているから、一般人には聞こえても意味が分からない」
染井が説明した。
「そうなんだ。でも桜前線に入らなければ関係ないよな」
染井はなにも言わなかった。
*
染井と楽しく談笑していたおれに自動車がなまぬるい排気ガスを浴びせた。
路上の広告ディスプレイがニュースをやっていた。
『……桜前線は、現在関東地方を縦断し、今週末までには東北地方へと抜ける見込みです。気象庁からのお知らせでした』
普通の人ならうきうきするだろう季節のニュースが今のおれには全く異なって聞こえた。こうやって一般人のための普通のニュースを装って気瘴庁は桜前線のニュースを刻一刻と流しているのだ。みんながお花見の計画を立てている横で、ヨシノたちは真っ黒な怪物たちと死闘を繰り広げている。
異常だった。この晴れた暖かい天気と平和な空気のすべてが異常だ。
そういえば「天気」と「空気」のどちらにも「気」という漢字が入っているよな。日本の気の集合体が大和魂だという。もし夷敵たちに大和魂が侵略されてしまうと天気や空気も変わってしまうのだろうか。
おれはふと動きを止めてそんなことを考えていた。
遠雷が聞こえたような気がした。
雨の匂いがするかどうか、おれは空気をちょっと嗅いだ。
うげっ。吐きそうになった。
鉄の焼けるような臭いだった。溶鉱炉の刺すような臭い。
突然あたりに霧が立ち込めてきた。真っ白な霧で交差点が覆われる。
がたん、とテーブルを揺らして染井が立ち上がった。
おれは染井の肩を押して、建物の陰へ身を寄せた。いぶかしげにあたりを見回す通行人たちがあっという間に視界から消えた。
おれは空を見上げた。
見覚えのある黒い渦がちょうどおれの上に覆いかぶさっていた。
夷敵!
おれは周りを見回したが、桜の木も薄桃色の花びらも見当たらなかった。どうやら今までとは状況が違うようだ。
「なにが起きてる!」おれは叫んだ。
「敵の作った結界!」染井が叫び返す。
おれが染井の手を引いて走り出すのと、空から黒い卵が降ってくるのと同時だった。爆撃のように黒く固まった夷敵が降り注ぎ、おれの右や左でアスファルトの路面にめり込んだ。そのうちの一つにでも当たれば、即死だ。
霧の中で全く先が見えない中をおれは全速力で走った。もし正面になにか出てきたら避けられないくらい速く。無我夢中で走り続けた。染井はおれの走りに軽々とついてくる。
どん、どん、どん
おれの走ってゆく前方に夷敵が落ちてきた。見上げると黒船が先に進んでいる。先回りして夷敵をばらまいている。
おれは立ち止った。おれのはるか前方で包みを解いたように夷敵が何体も立ち上がり、並んで壁を作っている。長い腕を伸ばしてスクラムを組み、その間を通り抜けることはできないだろう。
おれは一度後ろを振り向き、再び前を確認し、それから……観念した。逃げられない。
おれは立ち尽くしたまま夷敵たちが迫るのを見ていた。すきがあったら走り出そうと考えていたが、やつらは馬鹿ではないらしい。等間隔で並んでゆっくりと距離を詰めてくる。
『HEADT』
おれは言霊を出そうと念じたが、大和魂の象徴である桜の木がない場所では、おれは言霊は発動しなかった。
おれはいったんかがんで靴紐を直すふりをした。ピンポン玉くらいの小石をそっと拾って握りしめる。夷敵がマウンドからホームベースまでくらいに近づいたとき、おれは突然正面から近づいてくる夷敵に向かって力を込めて小石を投げつけ、同時にそちらへ向かって走った。小石は夷敵の顔に当たって空しく地面に転がった。人間なら顔を押さえて転げまわるところだが、駄目だ。こいつらには全然効いた様子がない。
「これ使って」
大和魂の前でなくても言霊を使える染井が刀を具現化しておれの前に放り出した。おれはそれをつかんで立ち上がると正面の夷敵に切り込んだ。襲い掛かる腕を右に左に薙ぎ払う。夷敵の一体が口を開けたタイミングでおれは別の夷敵の陰に走りこんだ。飛んできた強酸の唾はおれの盾となった夷敵に当たった。同士討ちだ。
「へっ。どうだ。行くぜ行くぜ行くぜ!」
おれは調子に乗って刀を振りかざし、夷敵の層の厚い所へ切り込んだ。夷敵の腕を、足を薙ぎ払い、横転し、唾をかわし、さらに切った。夷敵はおれを囲んで動きを封じようとした。
おれはフェイントをかけて夷敵の両足の間をヘッドスライディングで抜けたが、複数の夷敵の腕がありえない角度で後ろに伸び、おれの足をつかんだ。人間のような関節がないようだ。
『HENOOP』
『RYC』
駄目だ。引き裂かれる。
斬
夷敵の腕が切り落とされ、染井がおれの手をつかんで立たせた。
「ありがと」
染井とおれは背中合わせに立って取り囲む夷敵をにらんだ。おれは刀を構えたが、夷敵どもが一斉に腕を伸ばしたらどうにかできるものでもなかった。
「援軍が遅れている」
「援軍、来るのか」
「ここは敵の結界だから、侵入するのに手間取っているみたい。もう少し持ちこたえなければ、全滅する」
事務的な声で染井が言った。「会意の外法を使う。伏せていて」
おれはわからないまま、刀を地についてしゃがんだ。
染井はおれの後ろで背中合わせに立ちながら言霊を放った。
金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金
金金金金金金金金金金金金金金金金金金金
おれたちの周囲に「金」という字がばらまかれた。「金」は地面に落ちると光輝いた。夷敵たちはそれを見るや膝をついて群がった。
『RED SIE』
こいつら、とうてい知性があるように見えないくせに、金に対する欲望を持っているのか。
おれたちが夷敵にすきまなく囲まれている状況は全く変わりなかったが、夷敵の攻撃はそこで止まった。これからなにが始まるんだ。
遠くから駆け足の音が滝の轟音のように響いてきた。最初はなにかわからなかったが、地響きと、立ち上る土煙がおれたちを囲む夷敵たちをさらに囲んで迫っている。
その音の源が近くまで来るとそれが何百頭もの鹿だとわかった。奈良にいるようなやつだ。茶色の背中に白抜きの斑点がある。鹿の群れはまっすぐおれたちの方へ向けてやってきた。夷敵たちのところまでくると周囲を回り始める。ものすごい数だ。「金」に夢中になっていた夷敵たちもようやく何事かと顔を上げる。
そのときおれは気づいた。今まで「金」の言霊を吐き続けていたと思っていたが、それだけではない。染井吉乃が発していた言霊は。
「鹿」の文字だった。あの鹿の大群は染井が発した言霊が具現化したものだったのだ。あんな遠くに言霊を飛ばす、いや出現させるなんてやはり美野さんが言った通り染井はエースのようだ。
なんだ。なにが起きる。
回り続ける鹿の群れ。夷敵たちの足元には金金金。
そうして十分互いが近づいたとき、染井は静かに言った。
「言霊裂帛具現」
実体化していた鹿の群れがすべて「鹿」の文字に変わった。地面に転がっていた金が「金」の文字に変わり空中に浮かんだ。そうしてそれぞれの文字は縦に組み合わさった。
鹿+金。鏖
おれたちの周囲で巨大な爆風が起き、耳をふさぎたくなるような悲鳴を上げて夷敵たちは次々と爆裂四散した。
阿鼻叫喚と煙が晴れると、あれほどいた夷敵たちは一匹も見当たらなかった。空を見上げると黒船は去っていた。空に再びテロップが流れた。
『〇月〇日。関東方面第三区。サクラサク。桜前線異常ナシ』
「すげえな」
「気瘴庁の予報がはずれた」
「でも全部一人でやっつけたじゃないか」
染井は目を細め、空を見上げていた。
はらり、と頬になにかがくっついた。おれはそれを手に取ってみた。
桜の花びら。
ふとおれの頬に何かが触れた。おれはそれを手でおさえた。
桜枝。
おれのかたわらに立っているのは美野さんだった。手で持った桜枝をおれのほおにあてている。
「遅いぜヒーロー」
「こめん」
「今回の来襲は不規則なものだったの。あなたをねらったみたい」
「へ? おれを。なんで?」
「わからない。でもあなたと吉乃を死守する命令を受けている」
「そういえば大丈夫か」おれは立ち上がって染井を振り返った。白い顔が無言でうなづく。その拍子に染井の首筋に何かが流れた。染井は手で首を押さえた。その手を前にかざす。
血だ。
戦闘中なにかが当たったのだろう。染井の首筋にはかすかな切り傷があり、そこからじわじわと血が染み出ていた。おれは学ランの裏地を引きちぎると細長く引き裂いて染井に近づき軽く巻いた。
「こんなことしかおれ、できないけど、病院へ付き添ってやるからさ」
染井は首を振った。「いい」
「いいわけあるか! 自分を大切にしろよ。命を粗末にしすぎだぜ!」
前々から感じていたことだった。激しい戦いに生きるから仕方がないのかもしれないが、ソメイヨシノたちは自分たちの命を粗末にしすぎる。みな使い捨てみたいな感覚だ。おそらくそう教育されたのだろう、とケイサツ官のにやけた無表情を思い出しながらおれは考えた。
おれは後ろにいたもう一人の美野に声をかけた。「こいつを病院へ連れて行ってもらえませんか」
そうして気づいたのだが、おれの問いに黙ったままの美野さんは手に具現化した刀を持っていた。おれは思わずあたりを見回したが、すでに黒船は去り、夷敵の気配は感じられなかった。
「もうそれしまってもいいでしょう」おれは美野さんに促したが、美野さんはおれを無視したまま染井と目線を交わした。数秒の無言。
「まだ」染井がゆっくりと首を振ると美野はあきらめたように刀を宙に放り投げた。刀は空中で「刀」という字に戻り、ひらひらと舞って消え去った。
「え。なに?」おれは両者の顔をかわるがわる見たが、彼女たちにはなんの表情もなかった。
鉄の焼けるような臭いが徐々に消えていった。そうして突然、おれたちは街の雑踏の真ん中に現れた。おれはあたりを見回し、二人のヨシノがいることを確認した。
「じゃあ、わたしは帰る」美野さんはそう言って駅の方へ歩き去った。
「どこへ帰るんだ?」おれは背中に向かって聞いた。
「國会斗書館」
そうか。
おれは染井を振り返った。「きみは国会図書館へ帰らなくてもいいのか」
染井はなにか放心したような顔でいたが、そのままつぶやいた。「もういい」
「報告とかは美野さんがやってくれるんだろうけど、帰ったらちゃんと手当てしてくれるんだろうな」
「ない」
おれはちょっと鼻白んだ。治療……してくれないのかよ。
「じゃあ、おれと一緒に来いよ」おれは染井の腕を引っ張った。「病院へ行こう」
「病院はいや」染井はいやいやをした。ちょっと。その仕草、可愛いぞ。
「病院が嫌いか。おれも嫌いだ。じゃあおれの家へ来いよ」
染井はなにも言わなかった。
「気にすんな。あ、それとも気にする? 女の子が男子の家へ行くのって」
「ない」染井はかぶりを振った。「気にし……ない」
*
おれは染井を連れて一旦自分の家へ行った。家は留守だった。台所へ行き、染井を食堂の席につかせて薬箱を探った。おれはとりあえず、染井の首に消毒薬を塗るときれいな包帯を巻きなおした。傷は浅かったがまだ血が止まらずににじんでいた。細長い首に白い包帯を巻いた染井はなんだか大人びて見えた。
「ここ……は?」染井は初めて好奇心をあらわにした。
「おれの家だ。気にすんな。両親は共稼ぎで昼間はいない」
おれはお湯を沸かしてお茶を淹れた。
「最中があるぜ」
「モナカ」
「こういうやつだ。食ったことある?」
染井は黙って首を振った。
「きみたち、世の中の事、なーんも知らないんだな」おれは染井の前に置いた湯飲みにほうじ茶を注ぎ、最中を包みごと差し出した。
「知ってる」
「知ってるって?」
「本で読んだ。たくさんの本」
「でもそれは言霊を練習するためなんだろ」
「そう」染井はしばらく黙ってから続けた。「でも図書館にはいろんな本があったから」
「じゃあ普通の本も読んだんだ」
「うん」
「でも最中も知らない」
「本物を見たのは、初めて」染井は最中の包み紙をむき、一口ほおばった。ほんのわずかだが、染井の表情がゆるんだ。かすかに耳が赤くなる。
「おい……しい」
「疲れたときには甘いものがうまいよな。あ、お茶とすごく合うぜ。一緒に飲めよ」
染井は湯飲みをがっしとつかんですぐに手を放した。
「それじゃ熱いだろ。こうして上の端をつかんで下の足の部分を指にひっかけるんだ。そうすれば熱くない」
おれの真似をして染井は湯飲みをつかんだ。おれが音を立てて自分のお茶をすすると、染井も見よう見真似でお茶をすすった。
「おい……しい。とて……も」
「そうか。そりゃよかった」おれも最中をほうばるとお茶をすすった。
さっきまでの命のやり取りが嘘みたいなほっこりとした時間が流れる。余裕が出てきたのか染井もきょろきょろと好奇心をむき出しにして台所を見回した。
「珍しいか? 染井ってどんなとこで暮らしてんだ?」
染井は困ったように黙った。
「おれはこの通り、普通のサラリーマン家庭さ。両親は共稼ぎ。子供はおれだけ。昼はだからいつも留守。昼間は適当に作って食べることに慣れたから、料理も一通りできるぜ。腹減ったか? なにか作ろうか」
おれの問いに染井はゆっくりとかぶりを振って聞いた。
「両親?」
「親のことさ。おれの親父は大手の電機会社でエンジニアをやってる。母親はキャリアだな。主任とからしい。ときどき親父より帰りが遅いこともある。まあ、おれ昔から手のかからない子供だったらしいし、高校入るまでは部活で忙しかったから、別にさびしくも……」
そのときようやくおれは染井の問いの意味が分かって言葉を切った。全身がかっと熱くなる。胃が締め付けられる。
クローン人間。
ヨシノたちはクローン人間。あいつは、あのケイサツ官はそう言わなかったか。培養槽で育つって。じゃあ、両親はいない。染井には両親はいないんだ。母親に抱かれた記憶も、父親におんぶしてもらったこともない。おそらく人の愛情と言うものを受けずに育ったに違いない。國界斗書館での訓練と同じヨシノ仲間との付き合いだけ。世間の楽しみもほとんど知らない。まるで孤児院みたいだろう。
おれは混乱した思考のまま食いしばった歯の間から声を出した。
「ご、めん」
染井はきょとんとした顔でおれを見た。そんな顔をしないでくれ。おれの罪悪感が増すだけだ。
「なにが」染井は言ってしまった。
「悪いことをした。この話をしたおれの無神経さを許してくれ」おれは頭を下げた。
「無神経」
「思いやりがないってことだ」
「その言葉、知ってる。でもなぜ」
「親のことをべらべらと話した。きみには親はいないんだ。そうケイサツ官が言ってた。今度から気を付ける」
染井はしばらく黙っていた。
「話してくれないの?」
「え」
「両親、のこと」
おれは眉を寄せた。なぜ聞くんだろう。自分に両親がいないということが辛くないんだろうか。
「知りたい」
「え、と」
「親ってどんななの?」
「うーん」おれはちょっと上目遣いで染井を見た。微妙に、本当に微妙だが、染井の表情が好奇心で満ちているように見える。本当に知りたいと思っているようだ。
「おれの親に関しちゃ、子供が必要なことは助けてくれる。学校に行かせてくれるし、部活動に必要な費用は黙って出してくれたし、おれが勉強さぼってると叱るし、夕食は大体そろって食う。あまり話しないけど。おれの好きな食いもんは必ず冷蔵庫に入れてある。ま、人並みかな」
おれは再び染井をこっそりと見た。染井はおれから注意をそらさずに聞いていた。
「いいな」頬杖をついて染井は言った。おれはもっと後ろめたくなった。
「あなたのこと、もっと教えて」
え、ええっ。
なんだかいい雰囲気だな。染井は相変わらず無表情にちょっと色がついた程度の表情だが、以前よりずっと声に気持ちがこもっている。
突然、台所の壁掛け時計が電子音を鳴らした。おれと染井は同時に振り返る。
「ああ、もうそろそろ親が帰ってくる時刻だな」
*
ちょっとお手洗い、と言い残して染井はおれを残していった。おれは染井にトイレを示すと台所に戻ってテーブルに両肘ついて待っていた。
女って用意が遅いな。おれは父親の口癖を思い出しながら待っていた。今日はとりあえずいったん戻って、明日染井が元気なようならディズニーランドか。いや、普通に街を歩いてゲーセンとかカラオケとか。
考えにふけっていたおれはふと携帯電話のディスプレイを見た。がば、と立ち上がった。染井がトイレに入ってからもう三十分も経っている!
おれはトイレの前まで行った。鍵がかかったままの赤い表示が出ている。
「染井。染井!」おれはトイレのドアを何度も叩いた。返事はない。
「染井。大丈夫か!」おれはドアに耳を当てたが、なにも聞こえない。もしかしたら中で倒れているのか。
次第に焦りを増し、おれは手のひらでばんばんとドアを叩き続けた。突然、かちゃりと音がした気がして、おれは下を見た。トイレの鍵がはずれた緑のサインに変わっている。おれはがちゃっと取っ手をひねり戸を引いた。
最初に目に入ったのは真っ白な下着姿の染井で、そこでおれはあわてて目をそらしたが、そのとき目の端に別の色が映った。
血の赤。
おれが再びトイレをのぞき込むと、染井は真っ白な下着を血に染めて、必死の形相でワンピースを備え付けの洗面台で洗っていた。おれの顔をちらと見て再び青いワンピースを洗い続ける。
「せっかくの服が。血で」
おれがよく見ると、染井の首から流れる血が止まらず、下着を濡らし、床にまで滴っていた。
「どうして」
「ほうたいを替えようとしたら、血が止まらないの」
「とまらないの」染井は涙ぐんでおれの顔を見上げた。おれは染井の白磁のような肩に手を置いた。
「知り合いの医者へ行こう。おじさんが医者をしてるんだ」
染井は再びいやいやをした。
「病院はいや」
「そんなこと言ってる場合か。ちゃんと手当しなきゃ」
「あ。もうこんな時間だ。診察時間が終わっちまう。行こうぜ」
*
おれたちが着いたのは診察時間を1分過ぎたころだった。おれはタクシーの支払いを済ませてからなおも嫌そうな染井の手を引いて建物前に立った。
琴吹クリニック
そう書かれた看板のガラス戸を開け、おれは中に飛び込んだ。
「すみません! ちょっと急患お願いします」
「なんだ。病院ででかい声を出す非常識な若者がいる、と思ったら慶次くんか」細い銀縁眼鏡の叔父さんはのんびりと答えた。
「時間過ぎましたけど、ちょっと事情がある子で普通の病院じゃダメなんです。この通り。診察お願いします」おれは両手を合わせて頭を下げた。
「お願いされよう。て、言うか、今日は暇だった。で、だれ? その子って……」言いかけた叔父さんの声が止まる。染井が入って来たからだ。
「ほおー、ふうん、へえー」叔父さんは眼鏡を直しながら染井のうつむいた顔を下から眺めた。この人、根はいい人なんだけど、サラリーマンやったことないから(と父が言っていた)礼儀にちょっと難ありだ。
叔父さんはさんざん染井を眺めるとおれを横目で見た。「慶次くん。やるじゃないか」
やめてほしい。その訳知り顔。
しかし叔父さんはプロの医者らしく、手速く染井の首の包帯を解くと、傷を調べた。ほどいてシャーレの中にとぐろを巻いている包帯は血で真っ赤に染まっていた。
「この傷を負ったのは何時ごろだい?」
「今日の昼前だから、大体十一時頃です」
「午前中? ふむ」叔父さんは染井の首から流れる血をピンセットでつまんだ綿で拭いてから軟膏を塗り、テープでぴたっと止めた。とても手際が良かった。
「入院だな」
「えっ!」
あまりに意外な言葉におれは思わず声を上げた。
「こんな小さなクリニックでもベッドはある。浴衣はある。手続きとかあとでいいからとりあえず今夜はここで休みなさい。この子のご両親は?」
「いないんだ」
「え? 親代わりの人は?」
おれは染井の顔を見た。染井は黙って頭を振った。
「ふーん。ほんとにわけありだ」叔父さんは腕組みをして染井を鋭い目つきで見た。
染井が浴衣に着替えて病室のベッドに横になると看護婦をしている叔母さんは染井の細い腕に点滴の針を刺してブドウ糖の袋を棒にぶら下げた。これで染井は身動きできなくなった。
「退屈だったらテレビでも見てると言い」叔父さんはリモコンを染井に渡した。染井は黙ってうなづいた。おれたちが病室を出てドアを閉めると背後でテレビの音声が聞こえた。
叔父さんはおれを従えて診察室へ戻ると正面ドアを閉めておれに座るよう身振りで示した。おれは訳も分からずソファーに座った。
叔父さんはそれから染井の首からとった包帯をなにか顕微鏡で調べていたが、やおら起き上がるとおれの方を向いた。
「あの子、どういう子だ?」
「えっと」知っているが話すわけにはいかない。
「もっと調べなければならないが、血友病に極めて似た症状だ」
「え?」
「しかし女性の血友病患者は極めて少ないし、もしそうなら関節や筋肉などに内出血するはずなんだが染井くんにはそれはない」叔父さんは考えながら言葉をつむいだ。
「さらに血小板が異常に少ない。血が止まらない」
「血が止まらないって、どういう意味ですか」
「言葉通りの意味だ。血液の凝固異常。明日から血液凝固因子の投与をやってみるが、上手くいくかどうかわからん。このままだと一生テープを張ったままだ」
「そんな!」
「ふーむ」叔父さんは腕組みをしたまま長い間うなっていた。おれはそれを見つめるしかなかった。
浴衣に着替えさせられ、真っ白なシーツのベッドに寝かされた染井はあきらめたようにおれの顔を見た。おれが正面にスツールを引き寄せて座ると長い間うつむいていた。夕闇が病室を黒く染めてゆく。
「卒業……したの」
突然、染井はなにかをこぼすように言った。
「え?」
「わたしたちは普通、怪我をするととどめを刺してもらう」
「どうして」問いを発した瞬間、おれには理由がわかった。
「もう戦うことができないから。「不要」となった」
「そんな」
「わたしもとどめを刺してもらうはずだったけど、あなたとの約束があったから」
染井はすがるような眼をした。
「でも生きていてよかった。ソフトクリーム食べられたし」
「そんなこと、言うなよ」
おれはひざを握りしめた。
「おれ、きみに生きててもらいたいよ。ずっと」
「わたしはもう役立たずだと、あなたに言い出せなかった」
染井は目を伏せた。
「役立たずだとわかったら、相手にされなくなるかもとこわくて」
「関係ねえ。関係ねえよ」
おれの声は勢い、大きくなった。
「ソメイヨシノのエースだとか、大和撫子のすごい力だとか、おれ、そんなことどうでもいい」
おれは自分が肩を壊したことをどうしても言い出せなくて、信頼を失うまで黙っていたことを思い出した。
言霊による戦闘能力のみが評価の対象となるソメイヨシノたちの世界。
そこでエースと称えられた染井吉乃。
しかしひとたび負傷すれば役立たずとして、廃棄個体とみなされる。
なんてもろい栄光。
おれが野球部のエースだったこととなんて似ているんだ。
だからおれは言った。
「おれにとって、そのままのきみが大切だ」
「ずっと一緒にいるから。心配すんな。なっ」
*
頭に血が上ったまま自転車で疾走していたおれは、土手の自転車道に白い人影を認めた。
染井!
近づくとそれは染井吉乃ではなく、ソメイヨシノの一人美野さんだった。
「美野、さん?」
「私たちを見分けられるのね」美野さんは全く表情を変えずに言ったが声には驚きが含まれていた。
「あ、ああ。わかる」美野さんは吉乃と違ってちょっとお姉さんみたいな雰囲気だから。
「あの子、どう?」美野さんはやはり無表情だったが、声には心配が含まれていた。
「吉乃ですか? 今入院してる。ケガが治らないんだ」
「そう」美野さんはなにか知ってるみたいだった。
「心配して来てくれたんだ」
「え、ええ」歯切れが悪かった。
「こんな夜に出歩いてていいんですか」
「黙って、来たから」
「吉乃に会いたいですか」
「いいのよ。無事かどうかだけわかれば」
「おれの身内のクリニックにいますから、公衆の前には出ていません」
美野さんの目がすばやく瞬いた。「そう」
「警夷刹のことも夷敵のこともだれにも話してないし」
「……」
「それが知りたかったんですか」
「え」
「ケイサツ官に言われて来たんでしょ」
「そんな、こと」
「じゃあ、なぜあなたの身体からいぬの臭いがプンプン漂ってくるのか教えてもらえませんか」
美野さんの空気がさっと変わった。身を守るように手で胸を押さえる。
「わたしが君に会うように言ったからだよ」後ろから聞き覚えのある声がした。
振り向くとケイサツ官のにやけ顔があった。白い自転車にまたがっている。相変わらず表情にも声にも感情がこもっていない。
「きみがあの個体をどうするのか、興味があってね。むろん彼女らの肉体の秘密を世間に発表しようなどと試みればわれわれの機関が動くが、君に関してはそれは心配なさそうだ」
おれはケイサツ官をにらみつけた。
「なにしに来たんです。染井を連れ戻しに来たんですか」
「いや、もはやあれは瑕疵があるから、廃棄個体だ。どのみち放っておいてもいずれ機能停止する。せっかくきみと言う不確定要素の存在でなにかが変わると思っていたのだが」
「廃棄個体って、どういう意味ですか」
「わたしたちは傷を負うと治らないの」美野さんが言った。「クローン急速培養の副作用。傷は決してふさがらない。血は流れ出したまま。だから戦いでどんな小さな傷でも負うと、長く苦しまないように仲間の手でとどめを刺すの」
「尊厳死、というやつだよ」ケイサツ官が「われわれにも慈悲はある。戦闘力を失った個体をいつまでも面倒見てはおけん。負傷兵を救出したり看護したりするだけで全体の戦闘力は下がる。そうして救おうとする試みは失敗する。正確にはこれまで全ての試みは失敗してきた」
目の前が真っ暗になりそうなのを歯を食いしばって耐えた。染井! おれは、おれは見捨てない。
「実はあの個体には期待していたんだ」ケイサツ官は続けた。「きみと知り合ってから、彼女の言霊係数は素晴らしい伸びを見せた。通常では数十人がかりでないと発動できない会意の外法をたった一人で発動するなどはその一端だ。この「美野」という個体にも彼女の影響がみられる。われわれが戦闘のために否定的要素と考えていた個性や感情が、実はソメイヨシノの閉塞状況を脱する手段かもしれないとね」
「なんのことだ」おれは再び自分の手のひらに爪が食い込むのを感じながら言った。
「彼女がきみに抱いている特別な感情が言霊の潜在能力を引き出す鍵なのではないか、ということさ。あの個体はもうだめだが、この美野なんかはどうだね。彼女と全く同じ顔、同じ体、同じDNAだ。吉乃と全く同じと言っていい。もしかしたらきみたちカップルから生まれた子供がもっと強力な桜忍軍を作ることになるかもしれない」
ケイサツ官どもの考えがわかっておれはマジ、ブチ切れた。
「ふざけんな! お前らにとって人間はグッピーかああああああああああ!」
おれはそばに転がっていた石を拾うと、思いっきり力を込めてケイサツ官に投げつけた。石はケイサツ官のかぶっていた制帽を吹き飛ばしたが、ダメージは与えなかった。
「残念だね」
ケイサツ官はそういうとにやけた顔のまま白い自転車の向きを変えて走り去った。
「帰れ!」おれはその背中に向かって怒鳴った。
おれが荒い息を吐いていると後ろから声がした。
「ごめんなさい」
ふりむくと美野さんが肩を落としてうつむいていた。
「とても失礼なことを言ったわ」
「あなたは、あれがどれだけひどいことか分かってるんですか」
美野さんは目を上げてうなづくと言った。
「わかっている。私たちたちはわかっている。私たちソメイヨシノはクローンだけど機械じゃない。それぞれ個性があって、少しずつ違う。考えていることも、好きなものも。でも、組織の中にいると個性を表現することは許されない。個性は殺すしかない。そしてわたしたちは組織を離れては生きてゆけない」
「できますよ。組織にいたってケガしても治してくれないんでしょう。いてもいなくても同じですよ」
おれの言葉に美野さんは黙っていた。
「染井吉乃はおれがなんとかします。あなたたちは手を出さないでください」
「それは大丈夫」美野さんはうなずいた。「さっき上司が言ったようにあの子はもう廃棄個体だから、ケイサツの秘密が漏れない限り、機関がなにか邪魔をすることはないわ」
「そう、ですか」
「あいつ、美野さんたちの上司なんですか」
「そう。上忍よ。わたしと吉乃は中忍。中忍は下忍の娘たちを指揮して戦闘する。上忍は指示だけ。でも実力はある意味私たちより上」
「あいつは自分の言霊力は大和撫子にはとても及ばないと言ってましたよ」
「それはケンソンね」
「謙遜したんだ」
「ケンソンというのは警異刹用語で相手を油断させるために自分の実力を低く見積もらせることよ」
「油断させって……どこまで腹黒いんだ」
「そういう世界なの。忍びというのは」
最後に、と言い残して美野さんは言った。
「もし、どうにもならなくなったら、わたしを呼んで」
「呼んで、どうします」
「一番楽な死に方を知ってるから」
おれは鼻を鳴らした。「あんたもおかしいよ。狂ってる」
「ごめんなさい。わたしたちはこれしか知らないの」
美野さんは後ろを振り向いて歩き去った。
おれはその後ろ姿を見ていたが、いたたまれなくなり、叔父さんのクリニックに取って返した。当然のことだが、玄関は固く閉ざされていた。携帯電話を見たが、もはや他人を訪問する時刻ではなかった。
おれは染井がいるはずの病室を小一時間ほど見上げていたが、自分にできることは別にあると思いなおして、その日は自宅に帰った。
*
次の日、おれは叔父さんのクリニックへ行く途中でクレープとファッション雑誌を買い込んだ。クレープは染井がどんなものが好きなのかわからなかったが、とりあえず鉄板のバナナチョコクリームにした。ファッション雑誌は何種類もあり、どれがいいのかわからず途方に暮れた。中身を見るのも初めてだったが、流行服を着こなしたモデルを見るとどうやら年齢層が雑誌ごとに微妙に違うことに気づいて、染井と同い年くらいのモデルが載っている雑誌を一冊選んで買った。金を払っているとレジのお姉さんがおれをじろじろと見つめた。おれがファッション雑誌を買うのがそんなに奇妙らしい。
染井の笑顔が見たい。
おれは息せき切って病室に駆け込んだ。夜の間に染井になにか起きてはしまいかと不安があったが、染井は青白い顔のまま背もたれを立たせたベッドに座っていた。静脈の青白く浮き出た腕に点滴の管がつながっていた。おれをちらと見るとちょっと安心したような顔をした。
「おはよう。気分はどうだ」
「いい」
「そうか。早く退院できるといいな」
染井はなにも言わなかった。おれもソメイヨシノたちの体質について知ったことを言わなかった。
おれは見舞客用のスツールを引き寄せ、染井のすぐ前に座った。
「もう飯食ったか」
「まだ」
「そうか。実はお土産があるんだ」おれは袋からクレープを出した。春の陽気で生クリームが溶け出して滴ったが、おれはそれをティッシュで受けると台に置いた。染井の目が大きく見開かれるのを横目で見て、おれは満足した。
「ちょっと待ってな」
おれはベッドから動けない染井の代わりに備え付けのタオルを病室の小さな洗面台で洗うと、即席のおしぼりを染井に渡した。「ほれ」
染井は受け取ったおしぼりを手に持ったまま眺めている。
「おしぼり、知らないのか」
「ない」
「ほれ、こうやって手を拭くんだ。手を洗えない代わりに」
おれは染井の手首をとると指を一本一本拭いた。細い指。ふっくらとした肉付き。突然背骨から沸き上がった衝動に、おれは後ろめたくてしゃべり続けた。
「かあちゃんがうるさくてさ。食事中にちょっと電話に出たくらいで、すぐにもう一度手を洗わなきゃだめだって、ばい菌はそこら中にいるから、もし気を付けなければ病気になるかもとか、親父まで一緒になってエイズは怖いぞ。普通の人間なら全然問題にならないような風邪で死んでしまうこともあるんだ、それはエイズ患者の身体が普通の人間と違って病原菌に対する免疫が全くないからだって……」
おれは突然黙った。普通の人間と違って《、、、、、、、、、》。病気が治らない。傷が治らない。血が止まらない。おれなに言ってんだ。突然きごちなくなったおれを染井は見つめていた。その視線を振り払うようにおれは努めて明るい声を出した。
「さ、食えよ」
両手でクレープをおずおずとつかんで包装紙をむき小さな口ではむ、とかぶりつく染井を見て、おれはひな鳥が餌を食べているのを確認した親鳥のような安堵をおぼえた。
染井は黙ったままクレープをぱくついた。しばらくすると突然食べるのをとめた。目じりに涙が浮かんでいる。
「おい、しい」
「そうか。よかった」おれは安堵した。「口に合ってよかった。でもさ、うれしいときは笑顔を浮かべるもんだぜ」
「えがお」
「そう。きみの笑い顔が見たいな」
染井はクレープを持ったまま、眉をよせた。困っているようだ。
「笑い声を立てることってないの?」
「笑い声」染井はしばらく考えていたが、息を吸い込むと病室が振動するほどの地鳴りのような声で言った。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
それじゃ、歌舞伎だ。
「笑ったことがないんだ。でもうれしいときは人は笑うんだぜ」
「知ってる」
「え、どこで」
「漫画」
「へえ、マンガ読むんだ。どんなやつ?」
「『ベルサイユのばら』とか」
「へえ、古典だね」
「国会図書館だから」
「うん?」
「ときどき外の世界が知りたくて、國界斗書館から上にある国会図書館へこっそり上がった」
なるほど。
「それでみんなで回し読みした」
「え、どうやって借りたんだ?」
「黙って借りた。忍びだから」そう言うと染井は舌をちょこっと出した。うわっ可愛い。
「ちゃんと貸し出しカードを作らなければならないことは知ってた。でもわたしたち、作れないから」
「じゅうみんひょう、が必要なんだって」うつむく染井。
おれは再びソメイヨシノたちの境遇に思いをはせた。クローン人間。伝説のくのいちヨシノの細胞をコピーした作られた複製の身体。公的には存在しない人間。警異刹という組織に養われ、外の世界を見ることができない。でも、それぞれ個性があり、女の子らしい望みや、欲や、感情があることをおれは知っている。
「おいしかった、ありがとう。でもわたしお金がない」
クレープを全部食べ終わった染井はおれに向かってはっきりと言った。
「気にすんなよ。これくらい。おれのおごりだ。あとさ。これ」
おれはファッション雑誌をサイドテーブルに置いた。
「退屈だろ。テレビばっかりじゃ、飽きるしな。また後で来るぜ」
おれは病室を後にして診察室へ行った。診察時間が始まる前だ。白衣を着た叔父さんはもう顕微鏡をのぞいたり、パソコンで文献を調べたりしていた。おれが入っていくと不思議でもなんでもなさそうに言った。
「慶次くんか。来たな。昨日から調べてるんだが、染井くんと同じ症例はない。いや、あると言えばあるんだが、公開されていない情報だ。どうやらこの病気、というか体質な、非常にやっかいだ」
「やっかい」おれは唾を飲み込んだ。
「うむ。染井くんのご家族には本当に会えないんだな」
「はい」
「そうか。じゃあ、慶次が最後まで責任とるか」
「とる」
「男の約束だぞ」
「うん」
「じゃあ、はっきり言う。そこへ座れ」叔父さんはおれを正面に座らせて、いったん言葉を切った。
「染井くんの症例は現在では治療法がない。残念だが、延命措置を施しても持って一月、そのままだと二週間で命がなくなる」
覚悟していたつもりだったが、改めて医者にそう言われると衝撃だった。おれは自分の顔から血が引くのを感じた。
「助かる方法は」
「ない。少なくとも現在の医学では。時々点滴を打って血液凝固因子を補充しても結局傷が治らないのはどうしようもない。少しずつ消耗して、限界まできたら意識を失う。救いがあるとしたら、あまり苦痛がないだろうということくらいだ」
「そうですか」
「慶次。あの子を大切にしてくれるんだな」
「はい。おれしか大切にしないんです。あの子を育てたやつらはあの子を物みたいにしか考えてない」
「わかった。詳しいことは聞かん。病室にはいつまででもいていいから、あとはあの子になんでも好きなことをさせてやれ」
「はい」
「外出しても構わんが、一日一回必ず点滴をして血液凝固因子を補充しなければならない」
「毎日」
「毎日だ。このクリニックは染井くんの生命線だ」
「本当にありがとうございます。おれ、いつか必ず恩返しを」
「なに言ってる。親戚じゃないか」
「はい」
「慶次。お前の目、兵士に似ているな」
「兵士、ですか」
「昔テレビで見た兵士の目に似ている。今のお前」
「そうですか」
「なにがなんでも生きようという意思だ」
「だが、あの染井くんにはそれが感じられない。感情表現がへた、というより、それが一番おれには怖ろしい。あの表情を見たとき、お前に説明されるまでもなく、この子は普通の人生を歩むことができなかったんだろうな、と思った。どんな育ち方をしたら、あんな風になってしまうのか」
「だが、お前と会っているときだけ、染井くんは「人間」に戻るんだ」
おれは目をあげた。叔父さんはおれの目をまっすぐ見ていた。
「大切にしてやれ」
「うん」
*
病室に戻ると染井はおれが買ったファッション雑誌を見ていた。おれが入るとちょっともじもじしたが雑誌に目が吸い付けられているように見るのをやめない。
おれは再びスツールに腰掛けて染井が見ている雑誌を横から覗き込んだ。ちょうどモデルがヒマワリの柄のついたバッグを肩にかけ、にこやかに笑っていた。
「これ、好きなんだ」
「うん」
「他のは?」
「これが一番、好き」
「じゃあ明日買いに行こう」
「え?」
「外出の許可が出たんだ。快気祝いだ」
おれは努めて明るい声を出した。涙は出なかったが、顔が暗くならないために歯を食いしばらなければならなかった。
「でも」
「なんだ」
「お金がない」
「心配すんな、そんなこと」
おれはうつむく染井の手を取った。「この前のお礼さ。おれにもなにかさせてくれ」
染井は黙ったままだった。おれはそれを了承と解釈した。
*
染井と約束したおれだったが、朝、出かける準備をしていると急に家の電話が鳴った。
「もしもし」
『琴吹くんか』園芸部の佐藤先生だった。
『今日は奉仕活動に来なかったね。これで連続二回のさぼりだ。もし今日これから登校してさぼった分をやらなければ、内申に大きく響くことを覚悟しなさい』
まずっ
おれはスポーツ推薦で入学できたのだが、おれが肩を壊したことを言わなかったので、まるで詐欺みたいにとる教師もいた。とりあえず入学許可は取り消しにはならなかったが、もともと野球に打ち込んだ中学時代、成績がそれほど良いわけでもない。入学してもやる気のないおれは主要五科目で赤点を連続でとり「最後通告」を受けていた。いわく、ここは私立高校で中学までのように甘くはない。これ以上こんな点数を取り続けるならば落第もありうる、と。落第はいやだ。昨年まで「先輩」と呼んできた自分より下の学年と一緒のクラスで勉強だなんて、おれの居場所がますますなくなるのは目に見えていた。
おれは自転車で学校まで駆けつけると、職員室に挨拶してから公園の草むしりを始めた。すでに日は高く昇り、春とはいえ十億キロの彼方から刺す光線が皮膚をじりじりと焼く中をおれは黙々と草むしりした。帰りがけに職員室へ寄ると、たっぷりと説教された。最近なぜ登校しないのか。引きこもりか。なにをやっているのか。云々。
おれが現在なにに関わっているのかは明かすことができないので、おれは適当に謝り続けたら教師もあきらめたようだ。早く学校に戻りなさい、とだけ言い捨てておれを開放した。
最後に聞いたのはおれの出席日数についてだった。あと数日休めば、落第どころか退学になってしまうだろう、ということだった。
おれは自転車で土手を疾走して、クリニック目指した。クリニックはお昼休みに入ったところだった。おれは受付であいさつすると勝手知った様子でそのまま病室へ踏み込んだ。
中にはきちんと青いワンピースを身に着けて背筋を伸ばし、来客用のスツールに腰掛けた染井がいた。首の新しい包帯が痛々しかった。ぼうっとしていたような染井はおれに気づくと非難するような目つきで見つめた。
「ごめんごめん。ちょっと用事があって」
染井はなにも言わずにおれを見つめ続けた。
「学校の先公がさ、うるさいんだよ」
「うそつき」染井は静かに言った。おれはどきっとした。
「うそつき。九時に迎えに来るって言ってたのに」
「悪いっ、このとおり」おれは両手のひらを顔の前で合わせたが、染井はぼそぼそと言い続けた。
「悪いって言ってるじゃないか。これから出かけようぜ」
「いや」
「そう言わずにさ」
「約束を破った」そりゃまそうだけど。
「すっと待ってたのに。ずっと」
朝から草むしりをして自転車を飛ばしてきたおれもへとへとだった。まだ飯も食っていない。さすがにおれもかっとなった。
「そんなに責めるなよ。こっちだって事情があって遅れたんだ。きみは何もせず待ってただけじゃんか。おれは携帯を忘れたから連絡もとれなかったんだ」
それはうそだった。連絡を取ろうと思えば自宅の電話からでもできた。染井はどうせ入院しててどこにも行かないから、おれがいないとどこへも行けないと高をくくっていた。
「うそ、つき」染井が急に涙ぐんだのでおれは黙ってしまった。女の子って扱いが難しい。おれは中学共学だったけど、ずっと野球部だったからほとんど女子と会話したことなんてない。マネージャーもいないような部だったし。こういう場合、どうする? 手を取ってあげるのか、それともにっこり笑いかけるのか。おれにはどうしたらいいのかわからなかった。
「ずっと一緒にいるって言ってたのに」
染井は首のほうたいを引きちぎった。
「おい。なにすんだ! ケガがひどくなる!」
「いいの。誰も相手にしれくれないのなら」
「悪かった。悪かったから」
*
ヒステリー状態の染井をなだめすかして元のジャージ服を着せ、ようやくベッドに寝かせた。
首に再び止血テープを貼り、失った分の血液を補う点滴を腕につながれて、ようやく染井はおとなしくなった。点滴に混ぜた鎮静剤が効いて、染井が眠りにつくとようやく手の力がゆるみ、握りしめていた青いワンピースを離した。おれはワンピースを病室の目につくところに吊るした。
どうしたらいいんだ。
おれは頭を抱えた。染井をできるだけ普通の女の子らしくしてやりたい。しかし制限は多く残された時間は少ない。おれは染井の青白い顔、白く細い腕を見た。点滴の針が刺さったところからも血が漏れ出ている、昨日針を刺したところは紫に腫れている。こんな小さな傷さえも治らないんだ。
ソメイヨシノたちは言霊という特殊能力のためにだけ純粋培養された戦闘用クローン人間たちだ。急速に育てられ、両親を知らず、普通の教育を受けられず、ただ日本を守るためだけに存在している。急速培養の代償としてひとたび傷を負うと治らない。ソメイヨシノの傷を治療しようとするこれまですべての試みは無駄になったと、あのケイサツ官は言っていた。染井がわずかに傷を負っただけでそれまであれほど関わるなと警告してきたケイサツ官が全く染井を相手にしなくなったのだから、おそらく本当なのだろう。染井は桜忍軍としての戦闘員からは「卒業」した。普通なら廃棄個体としてとどめを刺されるところをかろうじて生きている。だが、このままでは徐々に訪れる死を待つのみだ。
ふと別の考えが浮かんだ。
おれは何をしてるんだろう。学校をさぼって、自分の貯金を崩してもうすぐ死ぬ女の子のためにお金持ちのおやじみたいに服や靴をプレゼントして、その見返りはなんだ。染井が好きなのか。それはそうだ。しかし彼女は本当の意味の人間ですらないんじゃないか。どれほど貢いでも尽くしても彼女はじきに死んでしまう。無駄だ。すべては無駄になる。彼女が死んだあとも桜前線はそのまま、夷敵の来襲もそのまま、ソメイヨシノたちの扱いも気瘴庁も警異刹もなにも変わらない。
おれは何をしてるんだ。
おれは両手でこめかみをはさんだまま考えた。どんどん後ろ向きの考えが胸の中に浮かんでくる。
確かに見捨てられた染井は可哀そうだが、おれにとっては赤の他人だ。おれが彼女でもない染井にそこまでしてやる必要は本当はないんじゃないか。おれは一人でおせっかいを焼いて空回りしているだけなんじゃないだろうか。おれの見返りは何だ。染井が死んだあと、おれに残るのはただ彼女に買ってやった青いワンピースと白いサンダル、彼女には戸籍もないし家族もいない。彼女がいた痕跡はなにも残らない。彼女が逝ったあと、おれにはなにが残るだろう。おれは無駄な自己満足にすぎないことをしようとしてるんじゃないだろうか。
「チャオ」
はっと気づくと、染井がうなされていた。眠ったまま額には大粒の汗が噴き出ている。筋雲のように美しく細いまゆを今は苦し気にしかめて、眠ったまま歯を食いしばっている。
おれは枕元にあったタオルで染井の額を拭くと、染井は子猫が母猫の乳首を探すようにおれの手を探った。おれが染井の手を握ると、びっくりするほど強い力で握りしめてきた。そうしてしばらく時が過ぎた。染井の握りしめる力が徐々に弱まるにつれ、まゆはゆるみ、穏やかな表情になった。口がそばまり聞こえるか聞こえないかの小さな声で一言言った。
頼
染井が眠ったまま発した言霊はひらひらと宙を浮遊するとおれの胸の中に入って行った。
びしゅっ
おれの背中で音がした。おれが振り返るとおれの背中からなにかがはがれたところだった。それは昔テレビで見たインドネシアの伝統影絵のような姿だった。手足が細長く、曲がった鼻が垂れている。指先からは爪が伸びている。その影絵はがちゃがちゃとぎごちない動きをすると、おれの背中から長く伸ばした口を引き抜いた。そうして紙が翻るようにして裏返るとそのまま「暗鬼」という文字になって、宙に消えていった。
おれはしばらくぼうっとその文字の消えた空間をながめていた。先ほどおれは染井を見捨てようとはしていなかったか。あれほど熱く人間の尊厳についてケイサツ官と言い合ったおれが保身のために立ち回ろうとはしていなかったか。冷静に考え直してみるとあれは外から注入されたような考えだった。暗鬼。言葉としては知っているが目で見たのは初めてだ。あれがおれの心から生まれたものか、それともケイサツや夷敵によって放たれたものかは知らない。でもあれはおれの卑怯で弱い心に付け込んだ鬼であっておれの本心じゃない。おれは今でも染井のことを大事に考えている。まるで家族のように。
おれがいまやってるのは染井が死んだら無駄になることじゃない。ケイサツはソメイヨシノたちのことを集団にして個であり、傷を負って戦闘できなくなったものは廃棄個体だと、奴らにとって価値がない不要だと断じた。おれはそれにあらがった。なにかどうしても納得できなかったからだ。でも今なら言葉にできる。おれは染井がいくらでも代わりのいる存在じゃなくて誰かにとって、特に俺にとって唯一無二の大事な存在だと証明したいんだ。染井吉乃という個人の存在が確かに生きていた、と実感したい。そうすれば彼女を助けられなかったとしても、彼女が生きた証はおれの心の中に残る。
クレープやソフトクリームや服はそのためのいわば儀式だ。彼女の面影をおれの心の中に焼き付けるための。
おれがふと気づくといつのまにか目を覚ました染井が大きな瞳でおれをじっと見つめていた。黒曜石のように深い黒が天井の蛍光ランプの光を白く映している。おれの心臓がどくんと打った。
「あ、染井。起きたのか。いつから? 気分はどうだ」
染井はしばらくしてからぽつんと言った。「夢、みてた」
「どんな夢」言ってからしまったと思った。さっきうなされてたやつだよな。
「ピロやチャオが死んでしまって……とどめを刺すところ」
おれは黙ってしまった。内臓をはみ出させた瀕死のチャオに具現化した刀を振り下ろす染井の姿は今もおれの脳裏に残っている。
「ピロがわたしに言うの。どうして自分だけソフトクリーム食べたのかって」
おれは顔をそむけたくなったが耐えた。
「わたしはごめんね、ごめんねって言うんだけどチャオがはいずって追いかけてきて」
「それであなたを呼ぶの、琴吹くん、助けて」
おれは染井の手を握りしめた。
「でもあなたが去って行こうとして、わたしは行かないで、行かないでって」
「行かない! おれは絶対にきみを残して行ったりしない。約束する」おれは必要以上に大きな声で言った。天涯孤独な染井。組織に捨てられ、頼るもののない染井。おれだけが残っている。
染井はほう、と息を吐いた。ほおがうっすらと染まる。「ありがとう」
おれは後ろめたくて黙っていた。
「明日さ、どこへ行こうか」
*
おれはスツールに腰掛けてで顕微鏡を覗き込んでいる叔父を待っていた。ずいぶん長い間顕微鏡をのぞいていた叔父は、ふー、と長い溜息をついて起き上がり、おれに向き直った。
「なにかわかった?」おれの問いに首を左右に倒してこきこきと鳴らす。
「駄目だ。わからん」
「そう」
「染井くんが今まで何年もどうやって生きていたのか不思議だ。普通、子供の時分に転んで擦り傷をつくったりした経験のない人間はいないと思うが彼女の場合、それすら致命傷になってしまう。彼女には予防接種の跡もないし、肌にはおよそ傷というものが一切ない。幼児並みの美しい肌だ。ありえない。ありえないんだよ」
そうだろう。培養槽で11か月育ち、出てきてまだ半月だ。なにかの科学的な方法で知識は身に着けたが、人間世界ではまだ幼児に等しいのかもしれない。
「クローン人間、という線も考えられるな」
おれは表情を変えないようにするのに苦労した。叔父さんは徐々に真相に近づいている。もし秘密を知られると、今度は叔父さんの身が危なくなるような気がする。
「慶次くん。なにか知らないか」
「言えません」
「話すとまずいことになる、と」
「そうです」
ま、そうだよな。普通、と叔父はつぶやいてデスクに向き直った。
「だが、研究者として医者として、こんな事例を見て見ぬふりはできない。これはすごいことだ。慶次くん。人間を動物と分け隔てるものはなんだと思う?」
急に妙なことを言い出す叔父は昔からこうだったのでおれはちょっと安心した。
「それは好奇心だ。動物も自己保存本能の範囲では好奇心を備えているが、人間は好奇心によって突き動かされ、ときには寝食を忘れ、自分の命を危険にさらしてまでこれを追求する。これが人間だ。好奇心を失って日々を漫然と過ごし、自己保存本能と脊髄反射的な欲求を満たすだけの存在はもはや人間の名に値しない」
なにが言いたいのかわかってきた。
「だから、慶次くん。きみが言いたくなくてもぼくはきっと染井くんの秘密を明かしてみるぞ。なんとか彼女の命を救ってやりたい」
「それはありがたいですが、彼女の素性を詮索するのはやめてください。こんな無理を言って世話してもらって本当に申し訳ないんですけど、言えないんです」
叔父は眼鏡をエクセーヌで拭きながら考えていた。
「彼女のことをどう思ってるんだ」
「染井は……おれを守ってくれました。おれも染井を守ってやらなきゃならないと考えています」
「まるで恋人じゃないみたいな言い方だな。扶養家族みたいだ」
まだ扶養されている身なのに。
「そうですね。染井は扶養……家族です」
かたん、と背後で音がした。おれは振り返ったが誰もいなかった。立ち上がってドアのところまで行くと、ドアがうっすらと開いていた。すきまから桜の香りがしたような気がした。
おれは胸騒ぎを感じてドアから外をのぞいた。廊下にはだれもいなかったが、おれの胸騒ぎは止まらなかった。おれは廊下を走って染井の病室まで行った。
だれもいなかった。
ただ、たった今まで染井のいた香りがした。おれは病室のドアを開けっぱなしで玄関に行った。玄関のドアはうっすらと空いていた。ちょうど誰かがこっそりと出て行って閉める物音を立てたくないばかりにきちんと閉めなかったように。
*
おれは玄関をざっと見回して共用のサンダルがないことに気づきそのまま外へ出た。
染井がクリニックを飛び出したと確信してのことだった。
すでに夕方になっていた。あと一時間で日が暮れる。
逢魔が時。
日が暮れると夷敵が来るかもしれない。
おれたちが襲われたのは、敵がねらってのふしがある。転換点というのがなにを意味するのかしれないが、単なるエースではない変わり者のソメイヨシノ吉乃。傑出した才能と既存の枠を打ち破る可能性がある吉乃。彼女が敵に狙われることは十分考えられた。
おれはあちこちを走り回ろうとしてから、考え直しいったん家へ戻って自転車をとってからクリニックのあたりをしらみつぶしに探した。蜂須川の土手にも行ってみたが誰もいなかった。一緒に行ったソフトクリーム屋。一緒に走った川の土手。吉乃が行きそうな所をすべて回ってみたが、あの細い首は見当たらなかった。おれは同じ場所を何度か往復した。三度目に回った時。
染井
電柱の陰にうつむいたボブの髪型がいた。いつもの忍者服を着ている。おれは自転車を止めると額の汗をぬぐい、自転車をおりてそっとスタンドをかけた。数メートルの距離をおいて染井を見る。うつむいてはいるが、こちらに気づいているのは明白だった。
「おい」おれは染井に声をかけた。
「どうして急に出て行ったんだ」
染井は答えなかった。
おれはゆっくりと近くによって染井の肩に手を置いた。
「まあなんだ。いったんクリニックへ戻ろうぜ。話はそこでゆっくりと……」
突然染井がおれの胸にしがみついた。シャンプーの香りがおれの鼻をくすぐった。
「おい。いったいどうしたんだ」
おれが問うても染井はおれの胸に頭を擦り付け、いやいやとかぶりを振った。
薄暗がりの電柱の陰で染井が目を閉じておれに顔をあげた。小さく盛り上がった唇に薄くリップが塗ってありつやつやしている。おれはその唇をしばらく見つめた。唇はおれに差し出されたように待っていた。
おれは染井の肩を抱き寄せ、それからゆっくりと突き放した。
「吉乃じゃない」
少女は大きな目を見開いておれを見た。
「吉乃はこんなやり方はしない。あいつはもっと不器用だ」
「そう。ばれちゃったのね」
美野さんは癖で長い髪をかき上げるような仕草をした。はらった短い髪がぱたんと頬を打った。
「しつこいな。またケイサツ官に言われてきたのか」
おれはちょっと美野さんが嫌いになった。しかしそれに対し美野さんは悲し気に笑った。なにかをこらえている様子だった。
「いえ。自分で来たわ」
「この前もそう言ったぜ」
「今日は本当」
おれの疑わしそうな眼を見て美野さんはあきらめたような表情をした。
「本当よ。髪も切ったし、吉乃と同じボディーシャンプーも使ったのに、あなたにはわかるのね」
「まあな。吉乃とあなたは違う。おれが興味があるのは吉乃であってあなたじゃない」
「どうして!」美野さんは強い声で言った。
「わたしは彼女と同じ顔で同じ遺伝子。わたしは中忍であの子より優れている。わたしは急速培養ではなく時間をかけてゆっくりと育てられた優良種。わたしのどこが駄目なの?」
おれは苦笑せざるを得なかった。警異刹の社会で育てられたソメイヨシノの感覚はやっぱりずれてる。
「吉乃は吉乃。あなたはあなただ。同じじゃない」
美野さんは黙った。
「おれはあいつを……吉乃を幸せにしてやりたいんだ」
美野さんは唇が白くなるくらいかみしめた。ようやく吐き出すように言った。
「くやしい」
「あの子は廃棄個体になったのに、どうしてそんなに大切にされるの」
「あの子の感じている喜びや悲しみがわたしの中に流れ込んできて、わたしは平静ではいられない。全部あなたのせい」
*
美野さんが去ったあと、おれはさらにあちこちをさまよって染井を探した。もうだいぶん遅い時間になったが、おれはあきらめなかった。
桜の匂い
桜結界かと思ったが、その匂いは気のせいのように消えた。
そうしておれが水を飲もうと立ち寄った公園のベンチに染井はいた。
青いワンピース着て。白い首でうつむいて。
おれはそっと近づいて声をかけようとした。その一瞬前に染井は立ち上がった。
「待てよ」
おれはできるだけ怒鳴らないように言った。染井はおれを見ずにそのまま去ろうとした。おれはダッシュして染井の手首をつかんだ。
「放して」染井はおれの目を見ないまま言った。
「おい、どうしたんだ」
「いいから放して」染井はもがいたが、言霊を使わなければ染井はただの女の子だ。力でおれにかなうはずがなかった。染井はおれに手首をつかまれたまましばらくあらがった。
「痛い」染井の声におれは思わず手首を握った手をゆるめた。染井はおれから自由になった手首を見た。赤くなっている。そのまま染井は物も言わず再び歩き出そうとした。おれは仕方なく染井の身体を抱きかかえた。
「放して、放してよ」おれの腕の中でばたばたともがく染井をおれは引きずってとにかくベンチに連れて行った。染井をベンチに座らせると、おれは隣に腰掛けたまま黙って染井を見つめた。染井は乱れたワンピースの裾を直すと黙ったままベンチに座り直した。
「なんで、なんだ」
「出てゆく」
「なぜ」
「あそこは牢獄みたい。自由に出てゆけないし」
「だって必要なことだぜ。きみの身体をきちんと治療するためには」
「治療なんかできない。あなたも知ってる」
染井の言葉におれは黙った。
「もういい。わたしが重荷だとわかったから。無理しなくても」
「染井」
「延命措置なんかいらない。残っている時間を精一杯使えればいい。あなたと一緒に」
染井は横を向いた。頬にいく粒も涙が流れるのが見えた。
「そう思ってたけど、わたしがあなたにとってそんなに重荷なら、不要なら、わたしはソメイヨシノの仲間のところへ戻ってゆく。姉妹たちのところへ。あそこなら少なくとも精一杯戦って死ぬときにはとどめを刺してもらえる」
「不要? きみが不要だなんて誰が言った!」
「あなたたちが話してた。わたしは不要な家族だって」
「いつ! おれたちがいつきみのことを不要だなんて……」
それでようやくおれは思い当たった。不要家族って。
おれは怒鳴りかけた口をあけたままなさけなく笑い出した。
「『不要』だって。おい染井。ちょっと待て」おれは小石を拾うとベンチ前の地面に「扶養」と書いた。染井はきょとんとしていたが、やがてみるみるうちに顔が赤くなった。
「そ、そっ、それは」
うろたえる染井はものすごく可愛い。
「なあ、おれは外では言霊使えねえから面倒くせえかもしれないな。ソメイヨシノならこんな誤解しないんだろ」
おれは両ひざをつかんだ。ふうっと深い溜息をついた。
「ごめんね」染井はぽつんと言った。
「世界が終わるかと思ったぜ」おれは乱れた髪を手ぐしですいた。
突然おれの携帯が鳴った。表示をみると佐藤先生からだった。おれはスワイプして電話を受けた。
「琴吹慶次くん。またさぼりだね。今日、学年主任から通達があった。いかなる理由でもあと一日でも欠席すれば……」
おれは携帯から耳を離した。スピーカーから声がもれる。
「退学だ」
おれはしばらく宙を見た。
「おい。聞いているのか。退学だ。後がないぞ。おい」
おれは携帯の電源を落として立ち上がった。
「さあ。戻ろうぜ。あそこがきみの家だ」
*
おれが染井を連れて叔父さんのクリニックのある地区へ戻って来るとサイレンの音が聞こえた。その音はクリニックのある場所に近づけば近づくほど大きくなった。おれは胸騒ぎがした。クリニックまであと一ブロックというところで胸騒ぎは確信に変わった。
夜の闇をついてクリニックがぼうぼうと燃え盛っている。消防隊員のグレーの耐熱服や野次馬の白い顔が炎に照らされてオレンジ色に染まっている。
おじさん!
おれは人込みを割って玄関先へ泳ぎ出た。消防隊員の大きな手袋がおれを押しとどめた。炎は天を突き、クリニック全体が燃え盛って中に人がいるのかどうかも判断できない。
「おじさーん!」
おれは救急隊員に肩をつかまれながら叫んだ。
「慶次くん!」
「あれっ!? 叔父さん」
叔父さんは珍しく普通の服を着て立っていた。
「たまたま夫婦で食事をしに外出しててね。染井くんは無事か」
「はい。一緒です」
「じゃあ、建物にはだれもいないはずだ。不幸中の幸いかな」
自分の自宅兼職場が燃えてるのに、存外叔父さんは平静だった。
おれは叔母さんの無事も確認して安心してから横に立っている染井を振り返った。
染井はけわしい顔をしていた。
「襲われた。恐らく気瘴庁の手の者」
「え? 気瘴庁ってきみの仲間だろ」
「警夷刹と気瘴庁は同じじゃない。廃棄個体のわたしか、もしかするとあなたを狙ったのかも」
「おれを? なんで」
染井はちら、と叔父さんを見て黙った。おれはなんとなく察した。やっぱりおれ、知りすぎたのかな。
「え、なになに気象庁がどうしたって」叔父さんが割り込んできた。
おれは説明したかった。しかし叔父さんの顔を見ているうちに看護婦をしている奥さんの顔や、今留学中だという息子さんの顔が浮かんできた。彼らを結界での戦いに巻き込むことはできない。そういえばおれが桜前線に関わることでおれの両親には害が及ばないのだろうか。今までそんなことを考えたことはなかった。
「すみません。知ってしまうと、命の危険があるかもしれませんが、叔父さんはそれでも知りたいですか」
「それは」
「ごめんなさい。おれ、叔父さんの好意に甘えすぎていました。これはおれと染井の問題だったんです」